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「フィリピンから生きて祖国へ」
鈴木 福次
私は大正11年生まれの今年満92歳になる。小学校高等科2年を終えて実家で農業をしていたが、大東亜戦争開戦翌年の昭和17年、20歳の時に召集令状(赤紙)が届いた。入隊したのは、静岡県にあった日本陸軍歩兵連隊(連隊長の名前を取って通称:灘部隊)だった。そこで1年間、初年兵としての基礎訓練のほか、無線機の構造や操作、モールス信号の送受信の練習に明け暮れた。連隊は昭和18年、まずシンガポールに上陸し、次いでマレーシアに渡り、各地で無線施設を設営して部隊間の連絡を図った。その後にフィリピン・ルソン島のマニラに移動となった。
当時、日本軍は太平洋の制海権、制空権がかなり失われ、目的地まで無事に着けるか分からなかったが、私達の船は駆逐艦などに守られて運良く到着することができた。
マニラにいたある日、無線機から聞こえて来る通信に耳を澄ませていたら、マニラからシンガポール方面に飛び立った日本軍の双発機が敵の機銃掃射で片側のエンジンがやられたと言っているのが聞こえた。暫くすると海に墜落したのか音信不通となった。また東京の大本営からの発表を聞くと、フィリッピン近海での戦果を高らかにうたい上げていたが、現地にいる私達は実態からかけ離れたウソの発表に唖然としたものだ。
昭和20年8月15日の終戦日は、マニラ北方のジャングルに退却していて直ぐには敗戦を知らなかったから、私たちは終戦後も一度敵軍と銃火を交えたことがある。昭和21年5月、旧日本海軍巡洋艦に乗って復員した。戦闘で多くの戦友が異国の土になったが、私は生きて帰国し、彼らの分まで長生きさせて頂いているように思う。(すずきふくじ@株式会社県南クリーニングセンター代表取締役社長、米沢市在住)
平成26年9月21日米沢日報掲載
平成27年1月30日14:45配信