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小田切 萬壽之助

              (1868-1934)

日中交流の黎明期に活躍した米沢人


 小田切萬壽之助は明治元年1月25日、米沢藩士小田切右衛門盛徳の長男として米沢新町四ノ町に生まれ、3歳で家族とともに上京。明治15年旧東京外国語学校に入学、「支那語(中国語)」を学ぶ。明治17年、北京、天津に留学。明治19年、外務省「清国天津留学生」試験に合格し、派遣される。明治20年、朝鮮仁川領事館書記生を皮切りに、京城、サンフランシスコ、ニューヨーク勤務。上海総領事から横浜正金銀行に移り、同行取締役。対華借款や国際会議で日本側代表となる。昭和9年9月12日没。66歳。

 萬壽之助は支那語に堪能で仕事熱心だった。中国在勤時代、「杭州帝国専管居留地設定」「台湾・福州間海底電線購入」など、数々の対中国との条約・交渉を成し遂げた。明治33年、義和団事件の際に政府に提出した「日本が清国において獲得すべき利権」などの意見書は、後に日本の対中国政策に多く採用された。明治38年、外務省を退職、横浜正金銀行に移り、北京支店取締役として対華借款を手掛け、中国の経済発展に尽力した。
 大正6年、豪州人モリソンが中国で収集した図書「モリソン文庫」(現在の東洋文庫)の売却を知り、その重要性をいち早く見抜き、三菱財閥の岩崎久弥の代理として購入契約を結ぶ。数多くの対中国条約交渉を成し遂げ得た背景には、日本の国益を求めながらも中国や中国人に対し深い思いを持って交友した異色の外交官だったからである。

(参考文献)
・于乃明著 小田切万寿之助研究 —明治大正期中日関係史の一側面—