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平田 東介

              (1849-1925)

「国家」の二文字むを常に忘れず、勤勉・潔白の生涯を貫く

 嘉永2年3月3日、米沢藩医伊藤昇迪祐直・かるの二男として信夫町に生まれる。幼名は忍、通称道策。8歳の時、藩医平田亮伯の養子となる。藩の医学校好生堂、藩校興譲館、江戸の古賀謹一郎(茶渓)塾、慶応義塾で学ぶ。明治4年10月、ロシア留学生に選ばれ、岩倉遣外使節団に随行。ドイツに留学先を変更、政治学、国際法、経済商法を学び法学博士号授与。明治9年帰国、太政官出仕。明治18年発足の伊藤博文内閣で法制局参事官、明治23年、貴族院議員に勅選(34年間在任)、山県内閣で枢密院書記官長、法制局長、法制局長官。明治34年6月、桂内閣で農商務大臣、後に内務大臣。大正6年、臨時外交調査委員、臨時教育会議総裁。大正11年、天皇補佐役の内大臣就任。大正14年4月14日、死去。享年77歳。正二位勲一等。伯爵。号は西涯。

 平田はドイツ留学中、品川弥次郎の後援を得て、ドイツ農民や労働者自衛組織である「信用組合」を徹底的に研究。明治24年、二宮尊徳の報徳社とドイツ式信用組合の構想を併せ持つ「信用組合法案」を品川弥次郎内務大臣の手を経て国会に提出した。(国会解散により不成立)その後、小松や糠野目の有志を説き、農民出資の自主組合設立を図った。山県内閣法制局長官時代に、念願の「産業組合法案」が国会を通過し、農民の経済自立と自主経営の組織化を図り、同組合の育成に尽力した。戦後、これが農会と合体、今日の「農業協同組合」に発展する。
 おいの伊東忠太(建築家)は、平田を「忠君愛国、勤勉精励」の人、「国家」の二文字を常に忘れることがなかったと評した。第3代米沢有為会会長となり、同郷の後進の指導に力量を発揮、同会の社団法人化に尽力した。

(参考文献)
◇先人の世紀—上杉鷹山公と郷土の先人—前編(松野良寅著)◇興譲館人國記(松野良寅著)◇米沢百科事典