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河上 清

              (1874-1949)

日本初の海外特派員、戦後のアジア独立を正しく予見

 明治6年8月2日、米沢藩士宮下忠茂の四男として米沢市に生まれた。幼名は雄七。祖母と兄に養育され、明治20年、米沢中学校入学。曾根俊虎に上京修学を勧められ、慶応義塾聴講生、神田の東京法学校、青山学院本科で学ぶ。

 明治25年9月、釧路の「河上家」を相続、「河上清」と改名。「万朝報」(黒岩涙香社長)の非常勤論説記者。黒岩らの支援で米国アイオワ大学に留学。留学中、「万朝報」の常駐海外特派員。以降、米国の雑誌社にアジア関係の寄稿を行い、ジャーナリストとしてデビューする。明治40年6月、米国人ミルドレットと結婚。大正10年6月、妻子を伴い、母校米沢中学校を訪問、講演した。昭和12年2月、大毎・東日特派員として欧州歴訪、イタリアでムッソリーニ首相と会見。昭和16年12月、「危険敵性外国人」として、ニュージャージー州の移民留置場に収容、尋問を受けた。昭和24年10月12日、肝臓ガンで死去。享年76歳。筆名翠陵・陵山。渡米後はマルクスの名カールをミドルネームにした。

 河上は、生まれ持った才能を曾根俊虎、黒岩涙香などとの出会いを通して開花させていった。黒岩らの支援で米国に留学、「万朝報」の常駐海外特派員となったが、これはわが国における最初の常駐海外特派員である。以降、ポーツマスでの日露講和会議の取材・日本への報道、海軍軍縮を決めたワシントン会議を「ニューヨーク・ヘラルド」へ寄稿するなど、米国の雑誌社、新聞社でアジア専門家として評価されていく。ワシントン駐在の歴代日本大使も河上の助言を求めた。
 ワシントン会議以後、日本の自制と譲歩を説き、アメリカとの戦争の回避を主張、昭和11年の日独防共協定に反対し、日米戦争を予言した。この戦争は、アジアを植民地にする白人に対する挑戦であり、日本が滅びてもアジア人のアジアは残り、いずれアジアの国々が独立することを予想している。戦後の日本やアジア情勢は、河上の予見通りに展開しており、まさに国際ジャーナリストの名にふさわしい。