hptitle01

莅戸 善政

              (1736-1805)

上杉鷹山を補佐、寛三の改革を断行した忠臣

 享保20年、馬廻組莅戸英政の子として生まれる。6歳の時に父が病死し、大目付の祖父政共が養育、16歳で家督を相続した。藁科松伯の家塾菁莪館で学ぶ。明和4年、上杉治憲(鷹山)が藩主となり御小姓に取り立てられ、同6年、町奉行。安永元年、御小姓頭に就任、天明3年11月、49歳で隠居したが、寛政3年、治憲の懇請により、中老職に就く。寛政6年、国家老となる。享和3年12月25日没。享年69歳。墓は長泉寺。
 明治41年、正五位追贈。昭和13年、鷹山を祀る松岬神社に、細井平洲・竹俣当綱とともに、配祀された。通称九郎兵衛、後に六郎兵衛、諱は善政、一諱は鵬、字は士雲、太華と号する。

 安永二年六月、治憲の改革に反対する家臣による「七家騒動」後、家老の竹俣当綱を助けて、藩内の改革を押し進めた。当綱が失脚した後、天明の大凶作、重定の隠殿新築などにより、藩財政が悪化、数十万両に膨れた累積赤字の難局打開のかじ取役に、「莅戸をおいて他なし」という藩内の声が高まり、寛政3年、治憲は善政に再三の懇請を行い、それまで無かった家老に継ぐ中老職を復活、57歳の善政が就任した。
 善政は「寛三の改革」といわれる政務47カ条の改革案を進言した。その中味は、歳入の半分の7万5千石で歳出を賄い、他の半分は借財の返済に当て、16年間で赤字を解消する経済対策。凶作や幕府の手伝いなどで、計画通りには進まなかったが、家老職となった善政の孫の代になり借財を返済した。
 安永5年、興譲館の設立の時は責任者となる。また、「懸魚帳」を作り、物品を贈る者があると面前で、だれが、何を、いつ贈ったかを記し、以来賄賂は絶えたと言われる。勤勉、清廉、思慮深く、竹俣当綱と共に治憲を補佐し、治憲を歴史上の名君として大成させた忠臣として名を残す。著書に「太華翁建議」「好古堂随筆」「政語」などがある。

(参考文献)◇米沢市史(昭和19年発行)◇先人の世紀前編(松野良寅著)◇興譲館人国記(松野良寅著)◇米沢百科事典