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高橋 里美

              (1886-1964)

軍人全盛時代に学問の道に進み、日本を代表する哲学者に

 明治19年11月28日、東置賜郡上郷村上新田(現米沢市上新田)の庄屋高橋伊兵衛・きよの二男として生れる。13歳の時に父を失い、米沢にあった母の実家本間家に移り、米沢興譲館中学、第一高等学校を経て、同40年、東京帝国大学文科哲学科に入学、さらに同大学大学院に学んだ。
 大正4年、第六高等学校(岡山大学の前身)講師、翌年教授。同8年、新潟高校教授を経て、同10年、東北帝国大学理学部助教授に就任。同13年に法文学部に移る。同14年、文部省派遣による2年間のドイツ留学を命じられ、ハイデルベルグ、フライブルグ両大学で哲学の研究をした。昭和3年、帰国後、東北帝国大学法文学部教授。在任中、3期6年間、法文学部長、また岩波書店より数多くの論文、著書を刊行した。同22年、東北大学教授を兼ね、山形高等学校長。同24年、東北大学総長(後の学長)に選ばれ、連続3期、同32年まで在職。昭和25年、学士院会員、同26年、文部省大学設置審議会委員を歴任。同33年、文化功労者。昭和39年5月6日、逝去。正三位勲一等瑞宝章。

 米沢興譲館中学時代の国語教師、松尾捨次郎の講義に関心を寄せ、その勧めで批評家・翻訳家の黒岩涙香の「天人論」などを読み、真善美を希求する哲学へ踏み出す。
 26歳の大学院生時代、西田幾太郎「善の研究」を批判した論文「意識現象の事実とその意味」を2か月にわたり哲学雑誌に発表、注目を浴びた。ドイツより帰国後は「ヘーゲル主義と新カント主義」など30数編の論文を発表した。昭和23年、東北大学定年退官の年に「包弁証論」の論文で文学博士の学位を受けた。昭和27年4月開学の米沢女子短期大学の創設にも尽力。昭和31年1月9日、宮中講書始めの儀で「文化の根本動機としての愛の諸形態」と題して御進講した。
 高橋哲学は、純粋理論としての哲学で「最も哲学的な哲学」と言われる。日清・日露戦争で、軍人が全盛を誇っていた時代に、学問の道を追求、大成した。

(参考文献)◇先人の世紀後編(松野良寅著)◇興譲館人国記(松野良寅著)◇米沢百科事典