hptitle01

宮島 詠士

              (1868-1943)

明治期の日中文化交流の先駆者、書を通して人類平等の思想を叫ぶ

 慶応3年10月20日、猪苗代片町(西大通2丁目)の米沢藩士(後に貴族院議員)宮島誠一郎の二男として生まれる。名は大八。明治4年、5歳で上京、同10年、11歳の時に勝海舟に入門。同13年、清国公使館員の黄遵楷に中国語を学ぶ。同14年、父、誠一郎が設立した興亜学校に入学、後外国語学校に転じ、同17年に卒業。江蘇の儒者陳積金に経音を学び、四書を音訳する。明治20年、中国に留学。この時、榎本武揚、副島種臣が見送りに出る。当代の碩儒張廉卿に入門し、8年間、経義、文学、書法を研究。明治27年、日清戦争のため帰国。東京帝国大学文学部講師、明治28年、自宅で詠帰舎(後に善隣書院と改称)を設立、中国史、中国語を教授。昭和10年、満州国皇帝来日の折り拝謁を賜る。昭和18年7月9日没。享年77歳。勲六等追贈。字は詠士、詠而帰盧主人と号する。

 明治20年、張廉卿のもとで、殊に書道は精髄を得て中国人に驚嘆された。明治28年、自宅で詠帰舎を設立したときの門下生は3000人を数え、子弟教育に努めた。詠士は、明治期の日本と中国の文化交流、親善の先駆者となる。
 第1次世界大戦直後のベルサイユ講和会議に出席する日本全権牧野伸顕に、全人類の不滅の言葉である「人類平等の提唱」を進言。いまでは当たり前の言葉であるが、当時は国力、身分の差による軽侮の念があり、暴論に近かった。また、人種平等を叫び、アジアの独立を宣言し、日本の政界、官僚、軍人などを痛罵した。東亜民族の興隆のため、生涯をささげ稀にみる東洋の君子と謳われ、その人格からほとばしる書道は「書聖」と仰がれた。
 中国人は詠士をして「東洋の書道之より日本に移る」と嘆息したと伝えられる。「北京官話急就篇」総約を刊行。

(参考文献)◇米沢市史(昭和19年版)◇ランカイ屋東介の眼(株式会社羽黒堂木村東介)◇米沢百科事典