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チャールズ・ヘンリー・ダラス

              (1842-1894)

探究心旺盛な教養人であり、米沢牛を全国に知らしめた恩人

 1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初めて来日した。18世紀初頭にロンドンで設立され、日本へは幕末に上陸した国際的結社のフリーメーソン横浜第二代支部長に就任した。
 1870年(明治3)5月、大学南校(現東京大学)のお雇い外国人教師として招聘。同年11月神田鍋町(現須田町)で攘夷壮士3人に襲われ重傷を負い、療養中に解雇される。1871年(明治4)1月、米沢の興譲館に洋学舎が設立、洋学科の外人教師として、同年10月に赴任した。1875年(明治8)3月、任期を終え横浜の居留地に帰任。日本アジア協会書記、横浜で公認会計士の仕事を本業としながら、欧米向け運送会社代理店、不動産斡旋業など手掛ける。1885年(明治18)、上海に渡り、石炭、鋼鉄等の貿易に携わった。1894年(明治27)5月15日、上海で病没。享年53歳。

 ダラスは、貿易商として東洋に関する豊富な知識と経験に加え、上品な人柄と教養を備えていた。明治4年10月、米沢興譲館洋学舎にダラスが全国で四番目の外人教師として迎えられ、英語、文法、代数、幾何学、経済学、地理、歴史を教授、またクリケット、高跳び、器械体操などの近代スポーツ全般を紹介した。流暢な日本とフランス語を操り、米沢在任中は、紋付羽織姿で米沢人を訪問し、子供たちに米沢弁で話すなどユーモアを解し、探究心旺盛なスポーツマンだった。
 ダラスは米沢興譲館洋学舎で教鞭を取る傍ら、畜牛数頭を飼育していたと言われるが、明治8年3月、任期満了に際してメス牛1頭を横浜の外国人居留地に連れて帰り、英国人仲間に馳走した所、美味と好評を博し、米沢牛が一躍有名になるきっかけとなる。ダラスは米沢を離れるに当たり、コックの萬吉に牛肉文化を米沢に留めさせておきたいことと、萬吉の将来のために牛肉店「牛万」を資金を出して開業させた。
 石井研堂著「明治事物起源」にダラス小伝が掲載されている。米沢滞在中、『英音論』という英語の発音に関する日本人向けの入門書を著した。日本アジア協会会報には、「米沢方言」、旅案内の解説書「置賜県収録」の二つの論文を発表している。

(参考文献)◇米沢牛の系譜(尾  世一)◇先人の世紀【前編】(松野良寅)◇米沢市史(昭和19年版)