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平 貞蔵

              (1894-1978)

山形県と米沢市の都市総合開発計画を立案し、戦後の近代化に貢献

 明治27年8月、東置賜郡佐沢村(現長井市上伊佐沢)に平八蔵の二男として生まれた。大正2年、米沢中学校卒。第三高等学校(京都)を経て、大正9年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。農商務省嘱託となり2カ年、大学院在学。同7年、東大新人会に入会、月島に住み労働教育に従事。同8年、中国、ソ連、朝鮮などの各地を遊学。同12年、法政大学経済学部講師、教授兼図書館長。昭和4年より2カ年、ヨーロッパに留学。社会思想社の結成に関わる。昭和10年、満州鉄道調査部、同13年、「昭和塾」を主宰。農林計画委員会委員、同20年、外務省嘱託。NHK論説委員。同22年、山形県総合開発委員会委員長、同23年、山形県専門委員、同31年、総合計画審議会長を歴任。同35年、米沢市総合開発審議会長、同40年、米沢市建設振興審議会長、同43年、第一経済大学学長。同36年、米沢市功績章。同40年、勲三等瑞宝章。同48年9月13日、米沢市名誉市民推挙。(第3号)昭和53年5月28日逝去。享年84歳。

 東京帝国大学在学中、宮島詠士(大八)と吉野作造に師事し中国への造詣を深めた。大正7年に東大生の思想団体「新人会」の創立メンバーとして、社会思想社の結成に参加し「社会思想」の編集を担当した。
 日中戦争の終結を願い、新体制運動に加わり、昭和研究会(近衛文磨を支持する人を中心に結成された国策研究団体)に所属した。昭和13年「昭和塾」主宰、ここから大来佐武郎(所得倍増計画、全国総合開発計画等を策定した国際的エコノミスト、元外務大臣)らの多くの人材を輩出した。
 戦後は、東京電機大学教授の傍ら、郷里山形県と米沢市の開発計画策定に関わり30年近く主導した。まずは、昭和21年、第3高等学校時代の後輩である村山道雄山形県知事に乞われて、山形県総合開発計画委員長に就任。また昭和31年、吉池慶太郎米沢市長の要請で、米沢市建設審議会会長に就任した。
 米沢市では八幡原工業団地、栗子ハイウェー、米沢総合卸売団地センター、旧市街地の再開発等の都市計画事業のあらゆる面で、その知識や能力を遺憾なく発揮した。昭和48年、米沢市は名誉市民としてその業績を顕彰している。

(参考文献)◇米沢百科事典◇興譲館人國記(松野良寅著)