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神保 蘭室

              (1743-1826)

抜群の学識、高潔な人格を有し、興譲館督学として潘学を再興

 寛保3年(1743)、米沢藩五十騎組の一刀流剣客、神保作兵衛忠昭の長男として出生。少年時代は藁科松伯の菁莪館で学ぶ。19才の時に父に従って江戸に出て、松伯の勧めで細井平洲に師事する。明和8年(1771)5月、藩学再興のため、上杉治憲(鷹山)は平洲を米沢に招き、蘭室は平洲のお供をする。開校した藩校松桜館の学長を命じられた。安永5年(1776)、藩校「興譲館」が設立されるや提学(ていがく・助教)となり、寛政8年(1796)8月には、大目付の上位である督学(とくがく・学長)となる。文政9年(1826)8月22日、死去。享年84才。墓は旧・北寺町の乗善寺。幼名は善弥。諱は綱忠、行蘭、字は子廉、通称容助、蘭室と号する。

 幼少から学問を好み、中国の古典「三国志」「漢楚軍談」などを暗記するなど、神童の誉れが高かった。剣もまた父の影響で名手と言われる。江戸に出てからは治憲の学問相手となる。平洲の私塾桜鳴館では、3年間塾頭として後進の指導にあたった。
 藩主となった治憲は、学業を振興して人心の刷新を考え、安永5年1月、蘭室に学館設立を命じ江戸に派遣、蘭室は約40日間平洲宅で藩学の教育方針、運営について起居しながら教示を受けた。安永5年4月、興譲館が造営され、片山一積とともに蘭室は提学となる。4月22日に開校式、26日に治憲は学館聖堂において釈典の儀式を行い、神保・片山の両提学がそれぞれ論語の一章を講じた。同年9月、蘭室は平洲と計り学制を制定。文化13年(1816)3月7日、74才の老齢のため督学致仕(職を辞する)。隠居の身となっても「宜雨堂」と称した家塾で門人の指導にあたった。人柄は剛骨で、詩文を創ったり、書にも才能を発揮した。文政4年(1821)、3人による共著「唱和集」を発刊。興譲館督学として長年、藩学の普及に努め、米沢の人材教育に力を発揮した。

(参考文献)◇米沢百科事典◇米沢市史(昭和19年版)◇興譲館人國記(松野良寅著)◇先人の世紀前編(松野良寅著)◇興譲館世紀(松野良寅編著)