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吉池 慶太郎

              (1901-1978)

国策第1号の工業団地の造成、米沢織から先端情報産業へ構造転換を図る

 明治34年10月1日、吉池利左衛門・まつの長男として、米沢市屋代町(現米沢市門東町)に生まれた。大正8年、米沢興譲館中学校卒業後、同11年、米沢高等工業学校紡織科を卒業。以降、織物製造業を営む。大正15年、保証責任米沢織物製造信用販売購買組合を設立、専務理事となる。昭和4年、米沢みつほ会設立。昭和18年、精密機械工業組合社長、昭和21年、米沢振興会社社長。昭和23年、米沢商工会議所会頭。昭和31年1月、第21代米沢市長就任。(5期20年)昭和41年河北文化賞。同52年、勲四等旭日小綬章、同53年、従五位、米沢市功績章受章。昭和53年4月24日逝去。享年78歳。

 昭和31年1月、第21代米沢市長に就任した吉池慶太郎は、以後連続5期20年にわたり市政を担い、既成の政治家とは異なる手法を用いて、総合開発計画を策定、企業誘致、観光開発などを柱にした取り組みを行った。昭和34年には、内閣総理大臣より新市町村建設功労者の表彰を受けた。
 吉池が在任中に行った行政事務の改善、金池地区への市役所の全面移転、置賜広域行政の確立、八幡原中核工業団地への企業誘致、西吾妻スカイバレーの建設、栗子トンネルの開通、水窪ダムの造成などは、現在の米沢市の近代化と市民生活向上に繋がる社会的インフラの基礎となった。特に昭和48年のオイルショックにより伝統産業の米沢織が衰退の道を歩む中、工業再配置促進法に基づく国策第1号の「八幡原中核工業団地」への進出企業が増え、米沢及び周辺の町からも雇用機会を確保、平成17年には工業出荷額が東北で3番目になるほど発展している。
 市役所の金池地区移転は、官公庁が同地区にまとまり、都市機能が大幅に増進、さらに同地区の開発により同和問題が鳴りを潜め、差別の風潮がなくなったことが特筆される。
 ただ、開発のために市債を大量に発行、米沢市は昭和50年財政再建団体になり、自治省監督の下で財政再建を図ることになったが、吉池の功績はそれを補って余りある。

(参考文献)◇興譲館人國記(松野良寅)◇米沢百科事典