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斎藤 篤信

              (1825-1891)

藩内随一の名筆家、文武両道に優れた教育者

 文政8年(1825)、米沢城下の花岡町に米沢藩侍組斎藤庸信の長男として生まれる。家禄は300石。嘉永3年(1850)7月、25歳で興譲館勤学兼助読となる。文久元年(1861)7月、糠野目砦将となり屋代郷一揆に対処した。慶応元年(1865)12月、典謁者(奥取次ぎ)、中士隊(手明組)頭。慶応4年8月の戊辰戦争では越後口に出陣、長岡城の戦いで大隊長、参謀仮総督として奮戦。米沢藩の降伏の使者として新発田の官軍本部に赴く。明治2年8月、明治政府の待詔院下院に出仕し、藩学校総係(総監、今の校長)。同6年1月、教部省九等出仕、奥羽諸県巡視となる。明治12年2月、山形師範学校初代校長。明治17年2月、校長を退任。明治18年、文部省御用係、学習院教授補を歴任。明治24年10月12日、中風で死去。享年67歳。諱名は篤信、字は公恭、通称は主計、号は馬陵、別号を孤行道人。「戊辰実記」などの著書がある。

 慶応4年の戊辰戦争で、米沢藩は官軍と戦火を交えたが、新潟港が落ち、米沢藩総督の色部の戦死、新発田藩が官軍に寝返った状況下、情勢分析を的確に行い藩内上層部に降伏を進言、その後の始末で見事な働きをした。藩主上杉斉憲は、篤信を会津、庄内へ使者として派遣し、各々が降伏を決めるなど、交渉能力に長けていた。明治9年、統合した山形県誕生の折り、県令三島通庸は、篤信を第10区区長に抜擢を試み、後に山形師範学校長として、生徒の指導方針には「漢学」を中心とし、教員の人選から給料の決定、出勤簿の形式まで細かく検討する勤務ぶりを発揮。校長自身が「修身」の講議を持ち、教育者としての自覚と道徳の大切さを説いた。校長退職後も中村敬宇や重野成斎ら碩学と交わり、詩文の批評を受けて「自ら求めて学ぶ心」を大事にした。篤信は「とくしん先生」と愛称され、米沢の人に親しまれた。松が岬公園内の招魂碑は明治11年4月建立、石碑の文字は篤信によるもの。性格は剛直謹厳、文章を得意として、藩内随一の名筆家と謳われた。文武両道にすぐれた良き指導者。米沢市城南にある常安寺には、篤信の記念碑がある。

(参考文献)◇斎藤篤信のプロフィール(下平忠正・火種塾講義資料)◇米沢市史(昭和19年版)◇興譲館人國記(松野良寅著)