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雲井 龍雄

              (1830-1870)

物事に感じて、激して、行動の人、偉大な詩人として後世に名を残す

 天保15年1月25日、米沢袋町(現松が岬2丁目)の米沢藩士中島惣右衛問、於八百の次男として誕生。幼名は猪吉、権六、のちに熊蔵、辰三郎。慶応4年7月頃から晩年まで雲井龍雄を名乗る。18歳の時に、舘山口の小島才吉家の家督を継ぐ。興譲館友于堂に学び、慶応元年正月、藩命により米沢藩江戸屋敷詰めとなるや、陽明学者安井息軒の三計塾に入門し塾頭になる。慶応3年、藩命により京都探索方として、広く四方の士と交わり薩長藩の内情を探り、藩に報告。慶応4年6月、越後での戦いの最中「討薩の檄」を起草する。明治2年、新政府の下、推されて集議院議員となるがすぐに辞任。維新後の失業士族の救済を求めて奔走し、明治3年正月、芝二本榎の上行寺、円真寺に帰順部曲点検所を設置。同年4月、政府は同所を反政府活動と看做し、解散を命令、龍雄を米沢藩江戸屋敷に謹慎、ついで米沢に護送、自宅禁足とした。8月、東京に護送、小伝馬町の獄に繋留。同年12月28日、小伝馬町の獄舎で斬首。享年27歳。明治22年、明治憲法発布を機に名誉回復した。墓は米沢市内の常安寺。

 戊辰の役では、薩摩藩の横暴を批判する「討薩の檄」の詩を作り、官軍を迎え撃つ奥羽列藩同盟の意義と士気を鼓舞した。薩摩長州の倒幕・会津攻めを私怨による報復と罵倒、薩摩、長州を中心とするその後の明治新政府の藩閥政治の弊害を予見する。
 明治3年、明治維新後に失業した士族の救済を目的に、帰順部曲点検所という屯所を設けたが、これが明治新政府にとって政府転覆の陰謀がある団体とみなされ極刑となる。政府転覆の陰謀の有無や罰した法の根拠が、現代も論争の的となっている。
 龍雄は、幼少より鋭い頭脳と勉強家で、興譲館の蔵書を悉く読み尽した。親孝行で他人にも親切にした。漢学の造詣が深く陽明学に心酔、作った漢詩は膨大な数にのぼり、即興で作詩、偉大な詩人として名を残し、今も詩吟の格好の題材となっている。生涯の間、物事に感じて激して、普通の人にはできない行動力の持ち主だった。

(参考文献)◇米沢市史(昭和19年版)◇米沢百科事典◇興譲館人國記(松野良寅著)