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九里 とみ

              (1872-1951)

九里学園を創設、「徹底教育こそ私学の本道」の信条を貫徹

 明治5年11月7日、薬種問屋を営む九里三郎兵衛高景の長女として大町に誕生。20歳の時、長兄を頼り上京、家事や店の仕事を手伝いながら、渡辺辰五郎の東京裁縫女学校(東京家政大学の前身)に学ぶ。
 明治29年、東京裁縫女学校卒業、同32年、同校高等科終了。卒業後、母校で教鞭をとるが、実家の都合のため米沢に帰郷、裁縫塾を開く。明治34年8月、各種学校令による「九里裁縫女学校」認可を受け、越後番匠町に9月13日「九里裁縫女学校」を開設した。明治36年、門東町に寄宿舎併設の新校舎を設立。同44年、実業補習学校・研究科を増設。大正11年、師範科を新設、昭和10年5月、財団法人「九里学園」を設立。戦後、昭和23年、新制高校「米沢女子高等学校」が発足、同26年、「学校法人九里学園」が誕生、理事長に就任。昭和32年、名誉校長。山形県知事、米沢市長らから女子教育功労者表彰を受ける。昭和18年、藍綬褒章受章。昭和26年11月、米沢市功績章受章。同32年1月30日、死去。享年86歳。

 とみの師匠である渡辺辰五郎の知己により北里柴三郎の研究所で手伝いを行ったことが、三田の福沢諭吉邸に使いとして出入りすることになる。慶応義塾を経営し、富国強兵を唱える開明思想家の福沢諭吉がもんぺ姿で米つきをする姿を見て、真の教育家とはこれだという深い感銘を受け、とみにより、福沢の実学教育の理念が米沢の私学教育の実践へと移されていく。大正期に入ると学校としての形態も整い、名実共に米沢の女子教育の殿堂として名声を博する。新しい時代に即応する女子の道として、職能技術の修得をうたい、教育理念を「実用の学伝授」に集中、「徹底教育こそ私学の本道」という信条を貫徹する。「いったん、親からお預かりした以上、一人前に仕上げて卒業させるのでなければ、申し訳が立ちません」という、言葉を残している。とみは、ふところに懐剣を忍ばせているかのような毅然とした女丈夫だった。

参考文献◇先人の世紀 後編(著者松野良寅)◇米沢百年 市制100周年記念誌◇米沢百科事典◇九里とみ先生(学園創立百周年記念)