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山下 源太郎

              (1863-1931)

軍人に始まり軍人に終わった、無私無欲・至誠一貫の人

 文久3年(1863)7月30日、米沢城下の東寺町(現相生町)に御厩方御馬乗(乗馬師範)の山下新右衛門・紀代の二男として生まれる。明治12年、米沢中学校、同16年海軍兵学校を卒業。日清戦争時は、大尉で「金剛」「秋津洲」の各砲術長として参戦、北清事変では「笠置」副長として、天津方面海軍陸戦隊総指揮官となる。明治41年、少将、佐世保鎮守府参謀長、海軍軍令部参謀と進み、明治43年、海軍兵学校長となる。大正2年、中将、大正7年、海軍大将に昇進、同年9月、連合艦隊司令長官。同9年12月、海軍軍令部部長として海軍軍人として最高位に就任。昭和3年、後備役編入。同年11月、男爵を授与。昭和6年2月18日、享年69歳。正二位勲一等。

 米沢中学では英語が得意で終始特待生で通した。ある英国人教師が「日本海軍は貧弱だ」と言ったことに義憤を覚え、海軍入りを決意。海軍兵学校では、学術優等、品行善行の両章を受章し、抜群の成績で卒業した。北清事変では功四級金鵄勲章を受章。海軍在職中、艦船のT字戦法を創案し、海軍の作戦技術に新たな作戦術を生み出した。日露戦争の日本海海戦(明治38年5月27~28日)では、大本営海軍参謀として作戦班長を勤め「バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通る」と断定、連合艦隊に訓令を出して、日本海海戦を勝利に導いた。これにより功三等金鵄勲章を受章した。
 艦隊派、条約派を問わず、山下は日本海軍を代表する人材として、広く人望を集め、米沢海軍の重鎮としての地位を占めた。また米沢有為会第四代会長として後進の育成を行った。後輩の黒井悌次郎は「山下大将は軍人に始まり軍人として一生を終わった」と評している。無私無欲の人だった。

(参考文献)◇米沢百科事典◇米沢百年(市制100周年記念誌)◇興譲館人國記(松野良寅著)