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千喜良 英之助

              (1896-1965)

人を愛惜した真のヒューマニスト、教育者

 明治29年9月15日、南置賜郡南原村大字芳泉町(現米沢市芳泉町)に、関根小学校の教員である父、藤作の二男として生まれた。祖父与惣は山上村村長。大正4年、米沢中学校を卒業後、一年間予備校に通学、大正5年、東京高等師範学校に入学した。大正8年、山形歩兵第32連隊入隊。大正10年、東京高等師範を卒業、長野県立大町中学校の教諭、大正12年4月、母校の専攻科修身教育科に再度入学。大正14年、専攻科卒業、岩手県師範学校教諭、同校付属小学校主事、同15年、盛岡市仁王小学校の初代主事兼校長に就任。昭和6年、岩手県師範学校舎監。昭和7年9月、沖縄県女子師範学校教諭兼舎監。昭和9年10月、国民精神文化研究所研究員。昭和10年3月、沖縄の第二高等女学校長兼教諭。昭和16年5月、米沢興譲館中学校第17代校長。昭和20年、召集により出征。昭和20年9月、復員。昭和21年3月、山形県学務課長、昭和22年、米沢興譲館中学校校長。昭和27年、米沢市立女子短期大学の設立に尽力、初代学長。昭和29年、米沢市功績章授与、翌30年山形県教育委員会表彰。昭和31年9月米沢興譲館高校を退職、後に、県教育委員。昭和37年11月、文部大臣表彰。昭和40年8月11日、死去。享年70歳。勲四等瑞宝章。


 米沢藩下級士族の屯田兵部落である南原に生まれた千喜良は、「貧乏な農民の味方になるような人を養成したい」という異常な使命感に燃えて成長した。東京高等師範専攻科では、ジョン・デューイの教育哲学に傾倒した。盛岡市仁王小学校では、斬新な発想で教育体制を改革。体操の号令に代えて、音楽の採用、現職看護婦の学校常駐、促進学級(精薄学級)の新設、男女混合学級、国旗掲揚塔の設置など。昭和16年米沢興譲館中学では、優秀な教員を集めるために、生家の田畑を人手に渡した。それを見た親友たちが「千喜良校長後援会」を作り、数十名が一人百円を出してバックアップを続けた。同校教員であった宍戸一郎は千喜良を評して「じつに人を愛惜した。真のヒューマニストであり、真の教育者であった」と述べている。


(参考文献)興譲館人國記(著者松野良寅)、米沢百科事典