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大熊 信行

              (1963-1977)

評論家、歌人、経済学者として多面的才能の持ち主

 明治26年2月18日、大熊亨吉・サキの長男として米沢市元籠町(現中央二丁目)に生まれた。大熊家は、代々与板組采配頭で、稲富流砲術師範の家柄。米沢中学校卒業後、東京高等商業学校(一橋大学の前身)予科に入学、米沢有為会の奨学生として興譲館寮に入寮。大正5年、東京高等商業本科を卒業、しばらく米沢商業学校で教鞭を取る。大正8年、東京高等商業学校専攻部経済科に再入学し、同10年卒業。小樽高等商業学校に赴任、経済原論の講議を担当、小林多喜二や伊藤整らを教える。大正12年、病を得て教職を退き、3年の療養生活を送る。昭和2年、高岡高等商業学校教授として赴任。昭和4~6年、文部省在外研究員として、英・独・米に留学。ロンドンで中條(宮本)百合子、平貞蔵らと親交を結ぶ。昭和16年3月、経済学博士。昭和21年、山形県地方労働委員会初代委員長。昭和22年、公職追放適用、同23年、教育思想研究会を創設、主宰。同27年、追放解除。神奈川大学教授。同28年、富山大学経済学部教授。同29年同大学経済学部長就任。富山大学・神奈川大学退職後、創価大学教授。昭和52年6月20日逝去。享年85歳。

 小さい時から、文章を書いたり絵を描くことが好きで、中学時代には浜田広介らと文芸同人誌「卯の花」を創刊。中学時代は石川啄木、土岐善麿の「生活と芸術」へ参加、ビクトル・ユーゴーなどに関心を寄せる。
 昭和初期の欧米留学より帰国後は、家庭こそが人間の生命そのものの再生産の営みであるとして、「家政学」を一個独立の科学と位置付けた。この見方は、戦後も持続し、昭和39年に「家庭論」を刊行、昭和50年には、「生命再生産の理論」まで高めていく。大熊は、戦時中、大日本言論報国会理事に就任、大政翼賛体制運動の指導的理論家の一人となったことから、戦後、自己の戦争責任について深刻な反省をする。昭和22年から23年にかけて、季刊『理論』誌上に「告白」を発表、知識人が戦争に巻き込まれた過程を誠実に分析して反響を呼んだ。経済学を超えて平和主義者として国家を否定した「国家悪・人類に未来はあるか」「日本の虚妄」などの著作がある。


(参考文献)興譲館人國記(著者松野良寅)、興譲館世紀(編著者松野良寅)、米沢百科事典、米沢百年(市制100周年記念誌)