(1907-1992)
明治40年、山形県東置賜郡吉島村(現・川西町)吉田に、農家を営む父舩山忠次郎、母キナの次男として生まれる。大正13年、米沢中学校卒業、昭和2年、山形高等学校卒業、昭和5年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。昭和7年11月、戸板潤の勧誘で「唯物論研究会」の設立委員となる。昭和9年5月、治安維持法違反で検挙起訴、懲役2年執行猶予5年の判決を受ける。昭和12年、大日本水産会勤務、雑誌記者となる。昭和13年、三木清らとともに「昭和研究会」文化部に参加、東亜協同体論を打ち出す。昭和21年、宮城県水産業会勤務、河北新報社論説委員となる。昭和30年4月、立命館大学文学部哲学専攻教授。昭和33年10月、同大人文科学研究所長。昭和51年、立命館大学名誉教授。「フォイエルバッハ全集」全18巻を翻訳し、昭和51年11月、日本翻訳文化賞を受賞。平成6年3月16日、死去。享年86歳。
西田幾多郎を始めとする明治以降の日本哲学思想史の研究家の一人。戦前、戦中、戦後の思想界を吹き荒れた嵐の中で、唯物論の立場を確立し、自分の思想的原点を決して忘れず生き抜いた日本におけるフォイエルバッハ(ドイツ人でヘーゲル学派左派の代表的唯物論者、宗教批評者。1804ー72)研究の第一人者である。
戦前の純粋な左翼運動によって収監、転向の後、戦後は漁業組合理事をしながら哲学的詳論を発表し続け、河北新報社の論説委員として哲学者、思想家としての生きざまを示し、やがて立命館教授となる。
東北人らしい粘りと純粋さを貫き、ヘーゲル、フォイエルバッハ、西田哲学を批判的に再把握し、現代に生きる人間学的唯物論として築き上げた。 特に、フォイエルバッハの哲学的人間学が戦後日本の思想界で果たす積極的意味を明らかにしたほか、現代日本の哲学者たちへの評価と批判をおこないながら、哲学的左派を継承した。「フォイエルバッハ全集」全18巻の翻訳は時代を越えて残る大仕事だった。
学究の徒として、また大学人として真摯で誠実な人柄で多くの人に慕われた。舩山信一著作集全10巻(こぶし書房)がある。
◇参考文献(舩山信一著作集こぶし書房)、私の哲学六十年(舩山信一著)