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南雲 忠一

              (1887-1944)

上杉藩の士風を継ぎ、律儀な一軍人としての生涯を貫く

 明治20年3月25日、南雲周蔵の二男として、米沢市信夫町に生まれる。明治38年3月、米沢中学校を卒業。同年12月、海軍兵学校に入学(36期)し、抜群の成績により学術優等章2回、同40年、189名中7席の成績で卒業した。大正3年、大尉昇進、第4戦隊・第二特務艦隊各参謀として対独戦に参戦する。大正9年12月、海軍大学甲種学生教程を次席で卒業、海軍少佐昇進、樅駆逐艦長となる。
 大正13年12月、海軍中佐、同14年6月から15年2月まで、欧米各国へ出張。昭和2年11月、海軍大学校教官、同4年11月、海軍大佐。昭和6年海軍軍令部参謀。昭和8年11月、高雄艦長、同10年、海軍少将。同14年1月、海軍中将。同15年11月、海軍大学校長。同16年4月、第一航空艦隊司令長官。同年12月8日、南雲率いる機動部隊は真珠湾の奇襲攻撃を敢行、成功する。同17年11月、佐世保鎮守府長官。同19年3月、中部大平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官。同年4月、サイパン島に着任、同年7月7日、自決。同年7月8日、海軍大将。功一級金鵄勲章並びに勲一等旭日桐花大綬章を受章。

 昭和6年の満州事変以降、日本の軍国主義化が進む中で、海軍内部では昭和5年のロンドンでの海軍軍縮条約が調印後、強硬な艦隊派と穏健な条約派が対立、米沢海軍の中では、南雲忠一、近藤英次郎らは艦隊派で、「省部事務互渉規定」を改正して、軍令部に「兵力量決定権」を持たせようとした。井上成美(大将)は、軍令部の権限増大が戦争への危険につながると、南雲と大論戦する。南雲は戦争に強い海軍を作るには、天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、その戦備に対する権限も拡張すべきとの持論だった。最終的に条約派は艦隊派に押し切られる。
 昭和16年12月、南雲率いる機動部隊は真珠湾の奇襲攻撃に成功するが、昭和17年6月、米機動部隊とミッドウェイ海戦を行い、日本は4空母を失い、戦局は転換期を迎えた。
…」、右太ももを負傷した南雲は自決、サイパン守備軍は万歳突撃し玉砕した。

◇参考文献 興譲館人國記(著者 松野良寅)、先人の世紀後編(著者 松野良寅)