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長 俊一

              (1881-1943)

実力主義時代の人材養成に向けた自由啓発、仁愛的教育を実践

 明治14年12月1日、第7代米沢市議会議長、長清水の長男として生まれる。明治27年、高等小学校3年生から米沢中学校に入学、明治32年、米沢尋常中学興譲館を卒業後、第二高等学校に進み、さらに東京帝国大学理科大学化学科に入学、同大学院では「漆の化学的研究」に取り組む。明治40年4月、広島高等師範学校教授、大正9年、横浜高等工業学校教授、その間欧米諸国視察、在外研究員として2年間、ドイツに留学した。昭和2年、文部省督学官、昭和7年、浜松高等工業学校校長、昭和11年4月、広島高等工業学校校長、(広島市立第一工業・同第二工業学校校長を兼務)。昭和18年6月21日、在職中に急逝。享年63歳。

 長俊一は中学時代の恩師、永井年郎(明治30~大正6)の熱心な指導によって、将来化学を専攻するという目標を持つに至った。このことが、後に中学教師は生徒に及ぼす感化の影響は大きいとして、青年学徒の将来の希望や運命まで支配する能力があることを強調している。 
 大正9年に横浜高等工業学校が新設され、8年間教授として在職、その間油脂工業の研究のために欧米諸国を視察、ドイツに留学した。昭和7年、浜松高等工業学校第3代校長となり、4年間、自由啓発、仁愛主義の信条で教育にあたり、昭和11年4月には、広島高等工業学校第二代校長として7年間、戦時体制下の中でも紳士教育の徹底、研究者としての自学自習の態度が肝要であるとして、得点主義ではなく、実力主義時代に適う人材養成を主眼とする教育にあたった。長俊英・元米沢市長の父である。

◇参考文献 興譲館人國記(著者 松野良寅)