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本間 久雄

              (1841-1900)

軍人全盛の時代に学問の道を走り抜いた文学者・評論家

 天保12年3月8日、米沢藩与板組の上与惣兵衛政済の長男として館山口に生まれた。幼名は与七郎、後に政恒と改める。号は開成山人、後に磐山。
 8歳で興譲館に学び、後に父に従い江戸に上り、12才の時には古藤伝之丞とともに、世子上杉茂憲の学友に選ばれた。元治元年、藩の勤学生として古賀塾に学んだ。勤学生の義務の廃止を建議、幽居(職務につかず家で謹慎)となる。慶応2年8月、赦されて江戸勤番を命じられ林学斎の塾に入る。蝦夷地、樺太の事情を研究、国防、開拓事業の計画を発案した。明治5年9月、「上」姓から「中條」姓に復帰。福島県典事として転出。県令安場保和は、政恒を開拓掛に任命、安積開拓の大事業に取り組む。明治14年8月、太政官少書記官に転任、東京に移住。明治17年12月、太政官大書記官に昇進。明治19年7月、島根県大書記官に転出。明治23年3月、病気辞任、東京に居を定める。明治33年4月14日、福島県桑野村で59才の生涯を閉じた。

 政恒は、林学斎の塾に入り、蝦夷地、樺太の事情を研究、国防、開拓事業の計画を発案した。慶応2年12月、情勢分析と蝦夷地開拓の可能性等を列記した建議書を米沢藩庁に提出したが、財政難を理由に一蹴される。
 しかし、明けて明治となり、福島県典事として転出してからは、北海道開拓を安積開拓に移し替え、大事業に取り組む。明治12年10月、伊藤内務卿を迎えて疎水着工式が挙行、明治15年8月に完成して11月には通水式が行われた。
 明治17年12月、太政官大書記官に昇進後は上杉家の相談人に推挙され、米沢藩領出身者対象の奨学事業「米沢教育会」の組織づくりに協力した。これは後の米沢有為会の発足の動機になった。
 明治28年4月、開成山を訪問、明治30年6月、家族とともに移り住み、村民の教化と村の改善のために余生を捧げた。政恒の子息、中條精一郎は上杉記念館を設計している。また、精一郎の娘は作家、宮本百合子である。

◇参考文献 興譲館人國記(松野良寅著)、先人の世紀前編(松野良寅著)