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大橋 乙羽

              (1869-1901)

米沢が生んだ文豪、出版人として語り継がれる人物

 明治2年6月4日、米沢の立町にあった旅館音羽屋、渡部治兵衛の六男として生まれる。本名を又太郎、雅号は音羽屋に因んだ「乙羽」。明治9年、北堤小学校に入学、明治12年、統合された興譲小学校に移る。幼少より文学に親しみ、眠花という雅号を用いた。
 小学校卒業後、父の知人である山形市十日町、呉服商富士屋に見習いとして勤めながら、向かいの市村書店の息子と知り合い、本を借りて読みふけりお寺に通い漢詩を学ぶ。幼な友だちの落合文太郎をはじめ数人と、同人雑誌を作った。明治21年7月15日、健康を害し小野川で静養中、磐梯山の噴火が発生、記事にして出羽新聞に発表。これが米沢出身の出版社東陽堂社長の吾妻健三郎の目に止まり入社を勧められる。明治21年9月、上京。同月、処女作「美人の俤(おもかげ)」を刊行、明治25年、博文館の少年文学に上杉鷹山公の伝記を掲載、好評を博した。明治27年12月、博文館主人の大橋佐平の長女時子と結婚。明治33年、欧米視察旅行に参加、帰国後、悪性感冒に罹り、肋膜炎を併発。明治34年6月1日、32才の生涯を閉じた。

 博文館入社後、専務理事として数々の出版を企画、「日清戦争実記」は日本で最初の銅版写真を使った。当時の雑誌「太陽」「文芸倶楽部」等の企画や編集に関わり、樋口一葉、巌谷小波、高山樗牛等の作品を紹介した。32年の短い生涯に、「若菜集」「千山万水」「花鳥集」などの単行本10冊、350編を超える自身の作品を残した。生前の遺言により、興譲小学校に500円、東京養老院、東京盲唖学校にそれぞれ100円という大金を寄付した。人格高潔、文才で経営敏腕、出版界、文学界に残した功績は偉大であり、郷土を愛した乙羽の名前は後世に長く語り継がれるだろう。

◇参考文献 米沢百科事典、郷土に光をかかげた人々(上村良作著)