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甘糟 継成

              (1832-1869)

9年の歳月をかけて「鷹山遺蹟録」をまとめた俊英

 天保3年(1832)3月13日、米沢藩侍組甘糟藤右衛門継善の長男として生まれた。幼名は半蔵、通称虎之助、後に備後と改めた。字は尚絅、号は酔月楼。10才で興譲館に学び、安政4年学館諸生、同6年友于堂助読(教師)となる。文久2年学館典籍となる。慶応元年、秘書・古文書の管理責任者である「記録頭取」を命じられた。明治元年の戊辰の役に際しては軍務参謀を命じられ、越後に出陣し同盟軍の参謀となった。翌年明治2年、太政官に召し出され待詔院下局出仕を仰せ付けられる。当時の名士、勝海舟、後藤象次郎、大久保市蔵、板垣退助、広澤兵助らと知己となり、又、シーボルト(英国)、ケレン(米)らと交わり、海外事情に精通した。明治2年(1869)11月29日病気で死去。享年38才。墓は常安寺(米沢市城南)にある。

 天資英敏で神童の誉れが高かった。早くから史学への関心が高く、友于堂助読の安政元年に筆を起こし、9年の歳月をかけ稿本21巻からなる「鷹山公偉蹟録」をまとめた(文久2年3月完成)。明治11年、明治天皇がこの本を読み、日本の国を治める参考にしたという。池田成章による「鷹山公世紀」とともに、鷹山研究の基本的な資料の一つとなる。
 他に「米沢国史」「本藩新史」「本藩野史」「西洋通記」「亜米利加国史」「精兵要議」「探史月表」等の著作がある。戊辰の役に際しては、その智謀、勇猛ぶりが官軍側に恐れられ、その首に500両の懸賞がかけられたという。その作戦の模様を記した「北越日記」は戊辰戦争関係の資料として重要である。持病の「癪」の療養で米沢に帰郷した継成は、偉材の器量発揮のチャンスなく死去する。

◇参考文献 米沢百科事典、米澤市史(昭和19年版)、興譲館人國記(松野良寅著)