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池田 成章

              (1840-1912)

米沢の産業と教育振興、政治刷新に手腕を発揮した大物経済人、政治家

 天保11年(1840)5月26日、南谷地小路の米沢藩三手組御小納戸頭(200石)香坂新左衛門昌邦の三男として生まれた。幼名は貞吉、丈八、新次郎、明治5年「成章」と名乗る。号は鸞陽。元治元年、池田峰蔵の養子となる。10才のときに興譲館に入学し26才まで学ぶ。書を小見親純、文学を山田勇七及び甘糟継成に学んだ。慶応3年(1867)米沢藩主上杉茂憲の小姓となる。戊辰戦争では、米沢藩使者として各所に派遣された。明治2年(1869)以後は米沢藩の各職を歴任、旧藩主を補佐した。明治5年、置賜県出納課長。同14年(1881)上杉氏が沖縄県知事になるや、内務省御用掛として同県に勤務、同16年(1883)上杉氏の転勤に従って帰京した。明治21年両羽銀行頭取となり山形に移る。米沢市議会議員に当選、副議長、議長となり、明治37年(1904)県議会議員、同年11月には県議会議長に就任(同40年まで)。大正元年(1912)11月11日逝去。享年72才。

 成章には、過越方の記という自伝があり、幼少時代から成長過程、中級武士の生活一般について記述している。明治18年に太政官制が廃止となり、成章は非職となり、明治19年5月、家族を挙げて米沢に帰郷した。その後は、米沢中学校初代校長、米沢市議会議長、両羽銀行頭取、山形県議会議長の要職につき、地方の教育、行政、産業の発展に尽した。中でも、米沢工業学校の設立、全国で7番目の官立米沢高等工業学校の誘致には、成章の政治手腕を発揮した。「鷹山公世紀」の大著がある。長男の池田成彬は三井財閥の番頭として活躍、後に日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、枢密顧問官となる。

◇参考文献 米沢百科事典、米沢市史(昭和19年版)、興譲館人國記(松野良寅著)