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秋山 武三郎

              (1873-1938)

勤勉力行、独力で成功した愛郷心に富む立志伝中の人

 米沢藩御細工組塗師秋山秀之助の長男として、明治6年(1873)5月8日、米沢舘山口町に生まれた。明治19年(1886)私立米沢中学校に入学。さらに山形尋常中学校(現山形東高校の前身)の5年生に編入学、明治26年同校を卒業後、仙台の第二高等中学校に入学した。明治29年帝国大学工科大学電気工学科に入学。明治32年(1899)7月、工科大学を卒業、逓信省電話局に奉職し、電話の施設開発に従事、36年大阪郵便局電話課長、明治39年、朝鮮総監府通信技師、朝鮮総督府技師を経て、明治44年に退職して官界を去った。その後、住友電線製作所、支配人、取締役から大正11年、同社常務取締役となる。昭和2年、米・英・独・仏など8か国へ出張、視察を行う。昭和5年、住友合資会社理事、同10年、専務取締役に就任、昭和11年、同社を退職。昭和13年(1938)3月6日、病気で死去。享年66才。

 米沢中学校に入学した秋山は家庭が貧しいため働きながら勉強、しかし成績は常に主席だった。さらに米沢中学校卒業後は市議会書記となって学資を稼ぎ、山形尋常中学校を21才で卒業。帝国大学工科大学電気工学科在学中は、地元米沢の伊東忠太や宇佐美勝夫らと本郷の宿舎で寝食をともにする。在学中、同郷の高野四郎と協同して、小野川発電所の設計を担当した。
 昭和11年、住友合資会社を退職するまで、電信電話学会、電気学会会長、日本電力取締役、藤倉電線(株)日本電気(株)取締役会長を始め、20に及ぶ会社、団体の役職を歴任。住友合資会社を退職するまでの26年間、日本の電気・通信事業の育ての親とも言える京阪実業界の重鎮として活躍した。資質温厚で、勤勉力行、独立をもって成功した立志伝中の人である。同11年5月郷里米沢市に教育基金として、当時20万円という大金を寄附した。夫人の秋山つねは、米沢英和女学校に学び、東京の静修女学校を卒業した良妻賢母型の女性。

◇参考文献
 米沢百科事典、興譲館人國記(著者松野良寅)、興譲館世紀(著者松野良寅)、米沢市史(昭和19年版)