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宇佐見 勝夫

              (1869-1942)

清廉潔白、質素な生活に甘んじ、米沢の産業・教育振興への寄与

 明治2年(1869)5月12日、米沢藩士宇佐美勝作の二男として、米沢市北谷地小路に生まれる。幼名は大助、後に勝夫と改名。明治21年9月、第一高等学校に入学、同26年7月、同校卒業の後、東京帝国大学法科大学政治学科に進学した。明治29年同大学を卒業、同年内務省社寺局に勤務。明治30年4月、池田成章の二女よしと結婚。徳島県、京都府の各参事官、内務書記官、明治41年40歳の時に富山県知事。明治43年6月、韓国内務次官、統監府参与官、朝鮮総督府内務部長官、総督府済生院長・土木局長兼任。大正10年5月、東京府知事。
 大正14年、賞勲局総裁、昭和2年、資源局長官。後に満州国国務顧問。また維新史料編さん会、国家総動員審議会の各委員。昭和9年(1934)7月、貴族院議員勅撰となる。昭和17年12月26日死去。享年73歳(従二位勲一等)

 明治14年9月、明治天皇が東北御巡幸の折り、興譲小学校に御臨幸になり、その時、13歳の勝夫は、選ばれて「日本史略」の「松平楽翁節倹の条」を御前朗読、賞賜として金一封を拝領した。
 明治22年11月23日、伊東忠太がリーダーとなる同郷人の親睦団体「有為会」の発起人のひとりとなる。
東京府知事在任中の大正12年9月、関東大震災に見舞われる。帝都復興院評議会評議員や臨時震災救護事務局参与などの職務についたが、行政官としての力量を発揮した。
 同郷後輩の国語学者保科孝一は、「誠意誠心を傾倒して職務を果たし、その成績大いに見るべきものがあった」と述べている。支那事変以後、転廃業を余儀無くされた機屋を組合員に、米沢精密機械工業会を組織、軍需品製造の株式会社を設立した。長男の宇佐美洵は日銀総裁、二男の宇佐美毅は宮内庁長官。

◇参考文献 米沢百科事典、興譲館人國記(著者松野良寅)、米沢市史(昭和19年版)