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11月4日

【米沢】舘山城に懸造・物見台があった!?

 舘山城発掘調査説明会が先月27日、米沢市口田沢の舘山城跡地の現地で行われた。平成22年度から行われている今回の調査で、初めて伊達政宗が築いた最古とされる石垣が発見されたほか、現在東北電力舘山発電所がある主郭(本丸)東方部分に、城下を一望できる懸造(かけづくり)や物見台といった建物があった可能性も浮上するなど、伊達氏ゆかりの新たな観光拠点となりそうだ。米沢市教育委員会は11月下旬まで調査を行い、平成27年度に国指定史跡の認定を目指す。

伊達政宗が築いた最古の石垣発見

 市教育委は今年度、舘山城主郭部分に当たる600平方㍍を調査し、山頂にはA〜C区の3か所の曲輪が確認された。A区の曲輪からは、土壙(どこう)2基、溝跡1条、ピット(柱穴などの小穴)5基が出土されたほか、幅6㍍、深さ2㍍の大きな堀切を発見。B区では西側の虎口(こぐち)に、防御施設となる枡形(ますがた)が見つかり、門があったと考えられているが、今回は発見されず、市教育委では引き続き調査を行っていく。

 一方、石積みが崩されて溜まったものと考えられていた大量の礫(れき)を取り除いたところ、2段の石垣が検出された。市教育委では、礫は石垣の間に挟む裏込め石と判断。石垣の高さは推定約5㍍ほどで、土塁の高さとなる5〜6段まで積まれていたと推測している。

 石垣に使われる大きな面石は、疑灰岩を切り出し表面を荒く加工する割石と呼ばれるもので、舘山城の北方1500㍍にある石切山域から採取された可能性が高い。大きさは長さ60〜120㌢、厚さ、高さは60〜80㌢ほどで、保存状態も良いという。

 石垣の年代は判っていないが、蒲生、上杉氏の時代には舘山城で普請した記録はなく、伊達家の正史『伊達治家記録(だてじけきろく)』に天正15〜18年頃に伊達政宗が舘山城の地割(再普請)を行った記録が残っているため、政宗が築いた石垣としては、最古のものと考えられている。政宗はその後、19年に奥羽仕置で岩出山(宮城県大崎市)に移封され、城は廃城となった。

 本丸と思われるC区では、溝跡や柱穴、土壙など18か所が発見されており、1か所は水貯めと見られている。柱穴には建替えが確認されるものもあったが、建物跡と考えられる柱穴は見つからなかった。

 さらには、城東端部にあたる現在の東北電力舘山発電所では、建設にあたっては遺構の一部が削られているものの、周囲の土層からみても、ほぼ当時のままで残っていることがわかった。東端部は見晴らしがよく、城下を一望できる懸造(かけづくり)や物見台といった建物があった可能性を市教育委は示唆している。

 そのほか、今回の調査で、瀬戸美濃産陶器皿1点と内耳土鍋片20点、青花皿片3点、約45点が出土され、年代は16世紀前半から後半頃と推定。今回の調査と資料から、市教育委は、蒲生や上杉の資料に記録が残っていないのは、政宗の居城として整備していた途中で、奥羽仕置で石垣や通路を壊し、そのまま破城を迎えたためと見解を示した。

 調査は今年6月から11月下旬までを予定しており、平成27年度の国指定史跡の認定を目指している。平行して、国指定史跡に伴い、現在舘山城周辺を所有する地権者からの土地取得も検討されており、本格的な整備に向けて動き出したい考えだ。

 舘山城は、市街地西方4・5㌔に位置し、伊達氏の米沢支配における拠点とされていた。城跡は大樽川と小樽川が合流する舌状丘陵の標高約300㍍に市。尾根の先端部を利用した全長350㍍の山城。山城の周囲には南館、北館、東館(仮称)の平坦地があり、全体で館山城が機能していた屋敷群があったと考えられている。

※曲輪=城館に見られる平坦地。虎口=城館の出入り口。枡形=出入り口に作られた方形の防御施設。面石=石垣の表に出ている大きな石。土壙=食料貯蔵、ゴミ捨てに使われた穴。土塁=土を突き固め高く盛り上げた防御施設。