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国史跡舘山城跡の実像と活用に向けた講演会

tateyama1 平成28年3月1日の舘山城跡国史跡指定を記念する、「ここまでわかった!国史跡舘山城跡ーその実像とこれからの活用にむけてー」の講演会が、10月22日、伝国の杜大会議室で開催されました。(写真上)
 主催したのは米沢市教育委員会(共催:米沢市上杉博物館)で、当日は会場がいっぱいになる聴衆160人が参加し、舘山城跡についての市民の関心の高さを示しました。当日は、4人の講師が舘山城跡を文献史料、発掘調査、また整備・活用面から講演しました。
 はじめに佐藤鎭夫氏(山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館前館長)が「舘山城と山形の中世城館」と題して講演し、山形県にある中世城館は現在1500遺跡くらいと推定し、うち置賜地域には563か所(平成7年)である。置賜地域にある城館は、伊達型山城(特に根小屋式)という比較的共通した築舘法による山舘(山城)で、伊達天文の乱以前は、米沢盆地東側を重点として多重帯曲輪群山城、天文の乱以降は米沢盆地西側を強化し、根小屋式山城が発達し、舘山城は室町時代戦国期後半に改造を重ねた根小屋式山城+(舘山平城)だったとしました。(写真中=舘山城跡全景)
tateyama2 伊藤清郎氏(山形大学名誉教授)は「文献史料から見える舘山城」から、「正保絵図」で描かれた舘山城の大きさを示し、米沢舘山城・舘山平城は、山城と居館(北舘・東館)、さらに平城・町場・並松土手から構成される大規模な中世城郭であり(上杉氏による再普請が行われているが)、貴重な歴史遺産であるとし、『伊達天正日記』をもとに天正15年頃から伊達政宗が頻繁に舘山城に立ち寄り、舘山城の増改築を始めたことを紹介、政宗が天正17年(1589)6月の摺上原の戦いで勝利し蘆名氏を滅ぼし、会津黒川城を本城とした後も、舘山城を戦略上重要だとして米沢城留守居役鉄斎に対して「要害之普請」は油断なく行うことを命じたことをあげ、天正19年の豊臣秀吉による奥州仕置きにより、政宗が岩出山へ転封を命じられ米沢を離れることになり、舘山城は詰めの城として実際に使われることがなくなった歴史的背景を説明、上杉氏は慶長6年8月、米沢に入部しましたが、慶長5年の最上氏との合戦の軍事的緊張が高まった状況の中で、舘山城の存在に注目し石垣普請を伴う再普請を行い、徳川政権が盤石になる情勢の中で、城割(破城)となり、普請は未完成で終えたとの考えを述べました。
 佐藤公保氏(米沢市教育委員会教育管理部文化課主任)は、「国史跡舘山城跡の発掘調査成果について」と題して、これまで得られた結果を整理し、その中で舘山城跡は米沢ゆかりの戦国大名伊達氏と上杉氏が関わった城館跡であることが明らかになったとして、文献史料からは伊達氏との関連が深く読み取れるものの、発掘調査では上杉氏の影響が鮮明であるとし、発掘調査は道半ばで未調査の曲輪があることや東館と北館では、場の性格に違いが見られる可能性など、多くの謎や課題が残っているとしました。今後は、並松土手を含めた平城跡の様相を明らかにしていく予定です。
(写真下=平成24年11月30日に開催された舘山城跡の発掘調査現地説明会)
 最後に近江俊秀氏(文化庁文化財部記念物課文化財調査官)は「史跡舘山城跡の整備・活用に向けて」と題して講演し、全国にある史跡を写真で紹介しながら、舘山城跡は上杉期の遺構の扱いが難しいため、城跡の整備・活用面で「いつの時代を魅せるか?」と述べ、上杉の要素と伊達の要素を明確にして、舘山城の姿を伝えるようにアドバイスしました。また見せ方として、城跡の全てを復元することはできないので、館の中で象徴的なものを整備、あるいは遺構を見せるなど、「何をどのように見せるかを検討し、見せ方を工夫する」ことの重要性を述べました。さらに、「整備の材料となる事実関係が十分に把握されているか」、「伊達時代と上杉時代の異なる時代の遺構をどのように見せるか」、「地域の人たちにその価値が伝わっているか」、の3点が今後舘山城跡の整備・活用方法を行っていく際の重要なポイントであることを指摘しました。
 
(2016年10月24日14:20配信)