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火種塾 上杉鷹山「明君(名君)」説の根拠を探る



火種塾138-1 鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衛門会長)が主催する第138回火種塾が5月7日、米沢市の我妻榮記念館で開催された。鷹山公と先人顕彰会常任理事の髙橋捷夫氏が『鷹山公の「明君」、「聖君」説を生んだものとは』〜翹楚篇(ぎょうそへん)を中心に考える〜、と題して1時間の講話を行った。
 上杉鷹山(1751−1822)は、江戸時代きっての「明君(名君)」、「聖君」とされて、米沢では神格化されるほど、崇敬の対象となっている。また、内村鑑三が「代表的日本人」という英語で書いた本の中で、日本を代表する5人の1人に数えて海外にも紹介している。
hidanejuku138-2 髙橋氏は、「それらの評価は鷹山の事蹟からくるものであるが、江戸時代から伝えられてきた幾つかの書籍が大きな役割を果たしてきた」と述べ、その代表が「翹楚篇」であるとした。髙橋氏は平成27年に開催された「鷹山公シンポジウム」で郷土出身の新鋭歴史研究者の小関悠一郎氏(千葉大学教育学部准教授)の講演などで目を開かせられ、会員となった米沢古文書研究会では、教科書が「翹楚篇」で、鷹山を知る現実的な視点で解読していったという。
「翹楚篇」は、寛政元年(1788)、鷹山の右腕として米沢藩の藩政改革に当たった莅戸善政(1735ー1803)が、鷹山長男の顕孝の教育のために、自分が側近として仕えた鷹山の言行や事蹟を「倹約」、「孝養」、「民への思いやり」、「家臣への態度」、「改革のこと」など、56(55)のエピソードに分けて著した書物で、「翹楚」とは、「衆に抜きんでて優れたもの」の意味。髙橋氏は、「主君のことであり、極めて敬い奉った回りくどい文章表現であるが、それは単に藩主教育の目的を超えて、鷹山の人柄や仁政ぶりが全国に広まるものとなった」とした。
「翹楚篇」は、出版ではなくて写本で広まり、米沢や全国に130点もの写本が残されているとのこと。市立米沢図書館には10冊以上の写本があり、デジタルライブラリーでは翻刻文付きで全文読むことが可能である。その話の中には、老婆の刈り上げの手伝い、籍田の礼、家臣や人民への思いやり、養父重定めへの孝行ぶり、実父への愛情ぶり、などが記されている。
hidane138-3 なぜ、鷹山が明君として賞賛されたかに関して髙橋氏は、小関悠一郎氏の説を取り上げ、鷹山の改革が「風俗の教化」を狙い、自らもその原則で身を厳しく慎み、「仁政」、「民の安定」を願い努力して、ついに「風俗教化」の理想郷を作ったという点だと述べ、それは封建社会の中での理想の君主のあり方で、その結果、「富国安民」の実現者として賞賛されることになったとした。
 また、鷹山の師、細井平洲(1728−1801)が数え69歳の第3次米沢下向時(1796)に、鷹山との米沢関根での再会の感動を高弟の久留米藩儒者「樺島石梁(かばしませきりょう)」に送った手紙が、敬師の理想像として全国に紹介され、これが明治政府の国民教化に利用され、国定修身教科書に「師を敬へ」という題で掲載され続けて、戦前では知らない国民がいないことになったと述べた。

写真(上)(中)=火種塾で講演する髙橋捷夫氏と参加者
写真(下)=米沢市関根にある普門院前の銅像(師細井平洲を出迎える上杉鷹山)

(2017年5月9日08:15配信)