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火種塾 米沢藩の戊辰戦争と色部長門をテーマに



jidane139 鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衛門会長)が主催する第139回火種塾が7月2日、米沢市の我妻榮記念館で開催され、市立米沢図書館の青木昭博氏が「米沢藩の戊辰戦争と色部長門」をテーマに1時間の講義を行った。
 平成30年は、戊辰戦争(明治維新)からちょうど150年の節目の年であることから、米沢市でも歴史団体を中心にその歴史を振り返る催しが行われる予定で、関心が高まっている。
 青木氏は、戊辰戦争における米沢藩には、「早めの降伏を行い寛大な処分を受けたこと」や、「会津を救えなかった」等の負のイメージがあると述べ、その中で、米沢藩の罪を一身に背負った奉行の色部長門久長に対して、新潟と米沢に顕彰碑が建立されるなど、色部に対する思いは殊の外深いとして、色部が提督として関わった新潟での戦いを中心に解説を加えた。
hidane139-1 奥羽越列藩同盟に加わった米沢藩は、主に越後に出兵し、青木氏は実際に派遣したのは、3〜5千人とみられると述べた。色部は慶応4年(1868)6月1日に、新潟を接収し、治安維持、砲台の設営、武器商人スネル兄弟との折衝に当たった。山田顕義率いる新政府軍の艦隊は1200程の兵を伴い、7月25日に同盟軍から新政府軍に寝返った新発田藩領の太夫浜に上陸し、司令の黒田清隆の指揮で、新発田藩を接収する本隊と、新潟攻撃の2つの部隊に分かれて進軍を開始した。
 新潟を守るのは、色部率いる米沢藩兵400余り、会津藩兵40余り、仙台藩兵20余りで、会津藩兵と仙台藩兵は、新潟放棄を主張したが、米沢藩兵は新潟の死守を主張した。新政府軍の新潟攻撃部隊は、薩摩軍、長州藩、高鍋藩など600程で、それを新発田藩が後援した。
 色部の家来が記した「越後御出勢日記」によれば、7月29日、新潟の白山堂裏本通(関屋?西)あたりで、色部は新政府軍50人と銃撃戦になり、色部は不調の鉄砲を捨てて抜刀して進撃したところ、右の肩より胸板を撃たれ、倒れ、御用人の浦戸儀左衛門が涙をはらいその首を打った。浦戸は敵中に切り込みを行ったが、銃弾が当たり戦死した。色部の家臣2人が茄子畑に色部の首を埋めた。この様子は高鍋藩の報告でも、米沢藩兵50と出会い、色部長門を銃撃したと書かれてあり状況が符号する。戊辰戦争での米沢藩軍の戦死者は計284人に上ったが、うち259人が越後とそのほとんどを占めている。
 米沢藩は、8月28日に、参謀の斎藤篤信が越後の沼村で新政府軍に降伏の意を伝え、9月11日に、世子の上杉茂憲が、新発田で仁和寺総督に謁見し、謝罪降伏し、庄内追討の先鋒を願い出た。
 関屋村の庄家の日記には、11月1日、米沢藩の里見忠左衛門から色部の首を受け取りたいとの手紙が届き、翌日、色部の若旦那が首を保管していた念仏寺を訪れ、庄屋と会い首を引き取った。11月9日に、庄屋に15両、念仏寺に3両色部家より拝領したと記されている。
 戦後処理として、明治元年12月22日、米沢藩は戊辰戦争の首謀者を色部長門と届け出し、翌明治2年5月14日、色部の家名断絶の処分となったが、同年8月18日、嫡子の弥三郎は上杉一族の山浦家を名乗り2000石を賜った。(元々は1666石) 明治16年に色部家の再興が許された。
hidane139-3 昭和7年、新潟県関屋に「色部長門君遺追念碑」が建立され、「身を挺して新潟警備の責に任じ、其安寧秩序を保持」と記されている。また、昭和34年には、米沢市制70周年記念事業として、色部長門顕彰会会長の赤井運次郎氏、同実行委員長の西条信哉氏らが「色部長門追念碑」を建立している。(左写真)
 青木氏は、高鍋藩士の日記「北征記」に、「坂田潔きて米沢の事情を告ぐ。色部長門を(高鍋)藩兵の手に掛けたるを、米沢にては反って喜ぶと云う」と記載していることを紹介し、米沢藩の事情として、(上杉鷹山の出身で米沢藩上杉家とは親戚である)高鍋藩兵によって色部が討ち取られたことは米沢ではかえって喜んでいると述べている。
 また、青木氏は明治新政府の登用者に、甘粕継成、斎藤篤信、雲井龍雄などの、米沢藩における戊辰戦争推進派(責任者)を出したことが不思議だと述べた。
 
 (2017年7月3日11:45配信)