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火種塾 「米沢藩主を支えた鍼医達の系譜と事跡」 



hariisha17 鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衞門会長)が主催する第140回火種塾が9月3日、米沢市の我妻榮記念館で開催されました。
 かとう鍼灸院(米沢市)院長の加藤雅和氏が「米沢藩の鍼医たちー藩主を支えたもう一方の藩医たちー」と題して、講演しました。加藤氏の講演は、昨年9月に開催された第135回火種塾で、鍼医の嶋浦和田一(?〜1743)を取り上げたことに続くものです。(米沢日報デジタル動画ニュースで紹介)
 はじめに、加藤氏は「紹襲録」、「勤書」、「先祖書き」などの記録から自らがまとめた米沢藩主の誕生から死亡、正室や側室の婚姻から死亡、または離縁、藩主や家族の側医を勤めた鍼医者たちの年表を説明しました。これから、藩主や家族と鍼医者がどう関わったかが一目で理解できる資料となっています。
 加藤氏は、米沢藩は2代藩主定勝の時から鍼医者を雇っているとし、定勝から12代齋憲(なりのり)まで28人の鍼医が仕えていますが、そのうち12人が盲医でした。2代以上鍼医者を出したのは、嶋坂家、飛田家、河内家、山本家の4家で、本道や外科の家で鍼医者となっているものが草刈家、中條家、高橋家であるとしました。
 寛永2年(1625)に定勝の側医となった遠山検校(けんぎょう)は、米沢藩主の鍼医として最初に雇われた人で60石を賜っています。(ほかの御典医は100石〜500石)検校とは鍼医の位で、勾当(こうとう)→検校となると位が上がります。

hariisha2 傳都座頭は、定勝側室の生善院(千姫)に鍼をして差し上げて効果があったので、寛文7年(1667)3月、5人扶持で召し抱えられました。千姫の末娘は、吉良上野介夫人となっています。生善院は92歳まで長生きをし、上杉家の中では群を抜いた長寿でしたが、持病を持っていたため40代の終わり頃から杉山和一の鍼治療を受け、その後、和一が出世すると次々と和一の弟子を雇い入れています。 
 加藤氏は、米沢藩内の鍼医の系譜と事跡を詳しく紹介し、米沢藩は終始鍼灸の最大流派杉山流の支援者で、多くの鍼医者を雇い、育て、盲人組織の頂点である関東惣検校まで輩出し、藩主やその家族の治療に大いに活躍したと述べました。
 米沢藩には藩主に仕えた医者の記録などが膨大な文書として残っていますが、その研究対象は蘭方医が中心で、漢方や鍼灸、馬医などの研究は手つかずでしたが、加藤氏によって鍼医者について相当部分が解明されました。
 最後に、米沢藩の蘭方医の活躍から「米沢は東北の長崎」というキャッチフレーズがいずれ書き換える必要があるのではないかと指摘しました。

(2016年9月3日14:45配信)