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戊辰戦争で戦死、新潟で米沢藩総督色部長門の碑前祭


 一般社団法人米沢観光コンベンション協会(小嶋彌左衛門会長)は、今年が戊辰戦争150年の年にあたることから、米沢・新潟 戊辰戦争ゆかりの地交流事業として、6月3日、「色部長門顕彰と新潟の歴史を探る旅」を開催しました。

nagato-16 慶応4年(1868)、米沢藩は奥羽越列藩同盟の一員として、現在の新潟市や長岡市方面に出陣し、新政府軍との間で激しい戦闘を繰り広げ、新潟市では総督色部長門をはじめとする米沢藩士多数が戦死しました。新潟の治安維持に当たっていた色部長門は、その働きにより後に地元の人によって慰霊碑が建立され、現在に至るも顕彰がなされています。
 当日は「鷹山公と先人顕彰会」、「米沢御掘端史蹟保存会」、「米沢観光コンベンション協会」の会員を中心に45人が新潟市へ向けて大型バスで出発しました。中川勝米沢市長は碑前祭に参加しました。行程の途中、車内で米沢図書館の青木昭博氏が色部長門が関わった新潟方面での戦闘と色部長門の戦死の状況や、現在、新潟市内に残る史蹟などについて解説しました。
(写真上=新潟市中央区関屋の戊辰公園に建立されてある「色部長門君追念碑」)

nagato-1 新潟市中央区関屋にある戊辰公園に、「色部長門君追念碑」が建立されています。この碑は昭和7年(1932)8月30日、関屋戊辰戦蹟保存会会長の斎藤巳三郎氏を発起人として、色部長門が戦死した場所に建てられた慰霊碑です。斎藤巳三郎氏は、戊辰戦争時に関屋の庄屋であった斎藤金兵衛の子で、衆議院議員を務めました。(写真上=色部長門君追念碑を前に、焼香を行う中川勝米沢市長)

 碑文は徳富猪一郎(蘇峰)の撰、落合東郭の書、篆額(てんがく)は最後の米沢藩主上杉茂憲の子で上杉家第15代上杉憲章によるものです。
 当日は地元の人たちによって、戊辰公園の周りは紅白幕が張られました。毎年7月に地元の人たちによって、色部長門慰霊祭が開催されていますが、今回は米沢市からの訪問団のために特別に準備してくれたということでした。
 色部長門は慶応4年7月29日(新暦では9月15日)、この場所で新政府軍の高鍋藩の銃に撃たれ、御用人の浦戸儀左衛門に首を切ることを命じ死去しました。高鍋藩は、米沢藩第9代藩主上杉鷹山の出身藩ですから、親戚の藩の鉄砲で死んだことになります。首は斎藤金兵衛によって近くの念仏寺に隠され、塩漬けにされて後に遺族に渡されました。遺骸は色部が宿泊していた光林寺が引き取りました。

nagato-11 当日午前10時より行われた碑前祭では、主催者、来賓が挨拶を行いました。
(写真左=挨拶をする小嶋彌左衛門会長)
 はじめに一般社団法人米沢観光コンベンション協会の小嶋彌左衛門会長が「戊辰150年を記念して碑前祭を企画したところ、大勢の参加を得たことに感謝している。この慰霊碑は戊辰の役で亡くなられた色部長門の戦死の場所に地元の人が建て、維持管理をして頂いている。米沢の人間として心から感謝している」と挨拶しました。

nagato-12 次に来賓として中川勝米沢市長は、「戊辰の役で米沢藩は奥羽越列藩同盟として西軍と戦い、謙信公以来の義と愛の精神を引き継いだ色部長門が新潟の皆様を戦火に合わないように対応したことが、関屋地区の人たちから立派な碑を建てていただき、今もって顕彰して頂いていることに感謝を申し上げたい。日本の近代国家への幕開けに際して、(東西が)ぶつかりあったが、先人の思いを受け止めながらこれからの地域づくりに邁進していかなければならない。関屋地区を始め、新潟市と米沢市の交流が盛んになっていくことを祈念したい」と挨拶しました。
nagato-14 地元を代表して、新潟市観光・国際交流部の佐久間なおみ部長が「平成30年は戊辰150年ということで、色部長門の追念や戦没者が埋葬された場所など、米沢市の皆様がゆかりを感じる場所が数々あり、巡っていただくと聞いている。今回の来訪を機に、新潟市と米沢市の交流がさらに深まることを祈念している」と述べました。
(写真右=焼香する新潟市観光・国際交流部の佐久間なおみ部長)

nagato-2 続いて、念仏寺住職が読経供養する中で、参加者が次々と焼香を行い、追念碑に備えられたお饅頭を皆で頂きました。
 最後に全員で記念撮影を行いました。(写真左=色部長門君追念碑を前に、参加者が記念撮影)




nagato-3 次に、戊辰公園より色部長門の首が隠された念仏寺まで歩いて移動しました。同寺は浄土真宗大谷派の寺院で、関屋の庄屋であった斎藤金兵衛が創建したものです。墓地の奥に「戊辰の役米沢藩戦死者四士の墓」があり、色部長門、色部の首を切った浦戸儀左衛門(色部の御用人)、原廉太郎(組外組、後に五十騎に入る)、斎藤作兵衛(色部家家来)の4人の墓がありました。住職が読経し、参加者はここでも焼香を行いました。(写真左=念仏寺墓地にある戊辰の役米沢藩戦死者四士の墓の前で供養)

nagato-4 午前の日程はこれで終了し新潟市中央区古町通にある「わっぱ飯 田舎家 新潟古町店」で昼食休憩を行いました。お店は奥に広い造りで、2階に上がりわっぱ飯の出てくるのを待ちました。前菜には沖縄のもずくのような味と食感の海藻と、米沢の冷汁のような食べ物が出されました。
 わっぱ飯は蒸し容器の中に入ったご飯の上に鮭の切り身が載り、食べると口の中で鮭の旨味が広がります。しじみの味噌汁もとても美味しいものでした。(写真上=わっぱ飯)

nagato-6 午後の部では、新潟シティガイドの深澤一彦氏の案内で戊辰戦争の史跡巡りを行いました。
関屋にある金鉢山は新政府軍の陣地のあった場所で、標高が20メートルほどですが、周囲を見渡せる丘であったため、戦略上、重要な場所でした。
 昭和34年に公園建設工事中、埋葬された新政府軍の兵士の土葬された遺体の入った壺や刀剣等が発見されました。以前は見晴らしの良い場所だったようですが、今は四方をビルや住宅に囲まれています。(写真左=公園になっている金鉢山)

nagato-5 次に訪れたのは白山公園で、ここは明治6年1月に太政官布告により開設された日本で最初の公園のひとつです。新潟総鎮守の白山神社に隣接しており、公園内には「戊辰の松」の案内板がありました。戊辰戦争の時に、白山神社境内にも砲弾が飛びかい、皮一枚になって生き残った松が「戊辰の松」と称されていましたが、昭和40年の台風で折れて松は無くなり、今は戊辰の松跡に看板が立てられています。(写真上=白山公園「戊辰の松」)

nagato-7 次に新潟市中央区旭町通にある新潟招魂社跡を訪れました。この場所は明治元年(1868)10月、新政府軍側の戦死者を埋葬し墓碑が建てられ、同8年に「招魂社」と命名され、同10年に社殿が造られ、さらに昭和16年には「護国神社」と改称されました。同20年に海岸の現在地に「護国神社」は移転しました。

nagato-8 招魂社跡はかつて新潟大学本部があり、大学が五十嵐キャンパス移転後の昭和60年、新潟大学医学部の有任記念会館が建設されました。 その工事の際に、合計92体の遺骨が発見されましたが、それは新潟の人々が密かに埋葬した奥羽越列藩同盟軍の戦死者のものとされ、昭和62年、護国神社内の「戊辰の役殉難者墓苑」に埋葬し、新たな慰霊碑を建立されました。密かに埋葬したというのは、新政府軍は東軍(奥羽越列藩同盟軍)の戦死者に触れることを禁止したからということです。しかし、腐臭を発したりすることなどから戦死者をそのままにしておくことはできず、人々は密かに埋葬したということでした。(写真左=奥に「招魂社」跡)

nagato-9 次に新潟縣護国神社を訪れる予定でしたが、施設の改修中(上棟式)で「戊辰の役殉難者墓苑」は入ることができないということで、今回は残念ながら訪問は叶わず車中より鳥居を見る形になりました。(写真右=車中より見た新潟護国神社の鳥居)

 昭和20年、護国神社が現在地に移転遷宮された際、護国神社の一隅に旧招魂社の地より新政府軍の墓碑を全て移設し、「戊辰の役殉難者墓苑」を建立しました。また戊辰戦争から120年の年には、「戊辰役東軍慰霊碑」が建立され、両軍が一緒に慰霊される場所となっています。
 以前に筆者が訪問した際には、墓碑が整然と並び、戊辰戦争で命を落とした兵士たちの霊が語りかけてくるような荘厳な雰囲気を覚えています。

nagato-10 最後に、新潟市中央区にある「にぎわい市場ビアBandai」で買い物や美味しい海鮮料理などを楽しみました。バスは午後6時半に米沢市役所に無事に到着し解散となりました。
(写真左=店内は海産物などのお土産品がずらりと並ぶ「にぎわい市場ビアBandai」)

◆参考文献 青木昭博「色部長門顕彰と新潟の歴史を探る旅」平成30年6月3日

(文・写真:米沢日報デジタル社長 成澤礼夫)

(2018年6月7日17:50配信)