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米沢市上杉博物館 特別展「戊辰戦争と米沢」9/15~



boshin1 今年は慶応4年(1868)の戊辰戦争から150年になることから、米沢市上杉博物館(佐藤広明館長)では、9月15日(土)〜11月18日(日)まで、特別展「戊辰戦争と米沢」を開催します。
 治安維持を図る京都守護職となり「朝敵」とされた会津藩を救うため米沢藩は奔走しますが、和平への提案が新政府軍に聞き届けられないとわかると、仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の結成へ主要な役割を果たしました。東北各地で戊辰戦争が始まると、米沢藩は秋田、磐城、そして越後を主戦場に新政府軍と激しい戦闘を繰り広げ、米沢藩士284人が戦死しました。(写真右=雲井龍雄と討薩檄)
 この特別展では、幕末から明治初期に至る米沢藩の動きを、上杉家文書、鉄砲、錦絵、古写真など、91点の史料を展示しています。9月14日に開催された内覧会で、同館学芸員の佐藤正三郎氏がギャラリートークを行いました。
boshin2 展示1では、朝廷と幕府の間に立たされる米沢藩の姿を紹介します。まず上杉斉憲が文久3年(1863)に将軍徳川家茂に供奉(ぐぶ)して上洛したところから始まり、朝廷から上杉斉憲が拝領した陣羽織が攘夷の決行を促しています。米沢藩士の浅間翁助(おうすけ)は、高島流(オランダ式に基づく西洋流砲術)を学び、米沢の鋳物師鈴木清兵衛が鋳造した西洋式の青銅製臼砲の発射試験に成功するなど、米沢藩の軍政改革を実行しました。浅間家に今に伝わる史料は、幕末に米沢で大砲や西洋銃を製造する技術があったことを物語ります。(写真左=ミニエー銃(上)とスペンサー銃(下))
 佐藤学芸員は、「下級藩士の西洋銃隊化、上級藩士部隊への大砲装備が決まったものの、経済的負担が大きく、藩士は調練と内職の両立と質素倹約を強いられた」と述べました。
 
boshin3 展示2では、戊辰戦争を扱っています。奥羽越列藩同盟の結成から、戦場で藩士がどのような生活や戦闘を送っていたかを甘粕継成の軍務日記や藩士小山礼蔵の手紙などで紹介するとともに、奥羽越列藩同盟の思想的支柱となった雲井龍雄の「討薩檄」草稿、「官軍会議所」などの木札、親戚藩だった土佐藩からの降伏勧告の書状など、戊辰戦争当時の厳しい局面の雰囲気が伝わってきます。色部総督、千坂総督所用の陣羽織は、鮮やかなデザインと色調で目を引きます。(写真上=スネルより入手の西洋皿)
 浅間家に保管されてきた西洋皿は、慶応4年閏4月に、浅間甚三郎が銃の購入のために、横浜でスネルと会食をした記念に入手したもので、米沢藩とスネルの関係性を具体的に物語るものと言え、初公開ということです。
 戊辰戦争での軍備や軍装では、前から玉込めを行うミニエー銃や7連発のスペンサー銃など、当時使用されたであろう本物が展示されています。(写真左=弾薬の製造方法を図示したもの)
boshin4 また戦いの中で米沢藩の藩医や村医者らが行った外科治療や健康管理が日記帳に記されています。戦場で捕虜にした新政府軍の兵を残酷に処刑したことなども綴られています。戦争は藩士だけでなく、農民からなる隊も結成されました。また、口田沢村の戊辰戦争関係帳面では、資金、労働力、物資の供給や分担を記録したもので、上納金や草履などの物資の上納、また人夫として、越後、新庄、会津に従軍して物資輸送、陣地構築に当たりました。
 展示4では、米沢藩が新政府への謝罪を模索していたことや維新後に東京に移住した上杉斉憲と家族、イギリス留学をした上杉茂憲、千坂高雅などの古写真が戊辰戦争を経て、明治という新しい時代を上杉家がいかにたどったかの歴史を見せます。
 特別展を記念して、10月28日14時〜16時、東京大学史料編纂所所長保谷徹氏の講演会「戊辰戦争の社会史ー軍隊と民衆ー」が同館で開催されます。

(2018年9月14日19:00配信)