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第147回火種塾 「米沢藩の江戸廻米」をテーマに



hidane147 鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衛門会長)は、3月3日、米沢市の我妻榮記念館で第147回火種塾を開催し、米沢市教育委員会文化課宮田直樹氏が「米沢藩の江戸廻米はどう行われたか」と題して約1時間にわたり講話を行った。宮田氏は、平成20年度よりスタートした宮城県岩沼市の市史編纂事業の中で、阿武隈川舟運に関わる部分を担当している。(写真右=講話をする宮田直樹氏)

 宮田氏は、江戸廻米が必要になった理由として、「徳川家康によって江戸幕府が開かれ、江戸に全国の諸大名・職人・商人・寺院などが集まった結果、人口100万人を超える世界最大級の巨大消費都市となり、全国の諸藩は年貢米や買米を江戸の市場に移出し(廻米)、藩財政の基盤を支えた。内陸部に位置する米沢藩は、江戸や大坂などへの廻米は大きな労力を要した。寛文4年(1664)以降、米沢藩は置賜郡屋代郷、越後国岩船郡、出羽国村山郡に預所(諸藩等に支配を委任された幕領)を持ち、御城米(幕領の年貢米)の廻米を行う必要があった」と述べた。
 abukumagawaその廻米に利用されたのが阿武隈川で、福島県西白川郡甲子山中より発し、県の中央を通り宮城県荒浜に至り、太平洋に注ぐ全長225㎞の長さがある。近世においては、上流では雑貨、下流では年貢米の輸送を行ったが、道路の改修と明治23年(1890)の東北本線が開通すると舟運は大きく衰退した。
(写真左=宮城県丸森町付近を流れる阿武隈川)
 阿武隈川下流(福島〜荒浜)の水運は、寛文4年に江戸商人である渡辺友以が手がけ、寛文10年(1670)、幕府の命を受けた江戸商人河村瑞賢によって本格化した。米沢藩は荒浜に江戸廻米のための蔵を建てた。阿武隈川で使われた船は、福島・桑折から水沢・沼の上までは小鵜飼船(22石積)、そこから荒浜までは艜船「ひらたぶね」(44石積)で、信夫・伊達地方の御城米はこのルートを使用し、山形県村山地方の幕領米は笹谷峠を越えて、玉崎から艜船で荒浜に運ばれた。山形県置賜地方の米は、二井宿峠を越え七ヶ宿街道を経て、阿武隈川河口に行き荒浜まで運ばれ、荒浜に集積された米は、千石船に積み変えられて江戸に運送されるというルートを辿った。

 宮田氏は、置賜郡屋代郷よりの江戸廻米の量とコストについて説明を行い、天明5年(1785)に行われた江戸廻米3,985俵のうち、580俵が途中で刺米・腐米(検査や腐った米)となり、荒浜から出た千石船のうち1艘は破船、1艘は途中で150俵を打米(航行の安全のため米を廃棄)するなるなど、実際に商品になったのは2,120俵程度(元の53.2%)で、利益は400〜500両出るものの、輸送コストは約382両かかる計算で効率が悪かったと述べた。
 阿武隈川舟運の廻米制度では、寛政元年(1789)の「御城米方御條目永留」という規則で、廻米の際にトラブルが発生した場合(船の破損・瀬懸)は細かな規定が有ったと述べ、弘化3年(1846)に米沢藩の廻米船が破船した時の処理を説明した。破船した場合は、地域社会で人足を出動させて対応し、破船処理(濡米等の補償)は艜船主たちの連帯責任となったことなどを述べた。
 上記の内容は、一部を『岩沼市史第6巻資料編Ⅲ』(平成31年3月末日刊行予定)に掲載する予定となっている。

(2019年3月14日13:55配信)