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戦国武将鮎川氏の縁で山形・新潟の歴史団体交流

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 関ヶ原の戦い後、上杉氏の米沢移封とともに越後の大場沢(現在の新潟県村上市朝日)より、米沢藩領内の玉庭(現在の川西町玉庭)へ移り住んだ戦国武将鮎川氏とその家臣たちがいます。現在、川西町玉庭に住む鮎川氏家臣の末裔である鮎川縁の会(大滝喜作会長)と、鮎川氏の出身地、大場沢の大場沢城跡保存会(高橋一栄会長)は、400年の時空を超えていろいろな活動を行っています。11月27日には、川西町玉庭にある玉庭地区交流センター「四方山館館」で、両団体の会員23人が参加して交流会を開催しました。
 はじめに、参加者らは玉庭地区にある「古舘」(ふるだて)と呼ばれる、鮎川氏が居館を築いた場所を訪れました。昭和40年代の圃場整備によって現在はその痕跡を止めていませんが、明治初期の字切図や圃場整備前に撮影された航空写真でかつての「古舘」の様子を知ることができます。
 四方山館では、大滝喜作会長が挨拶し、平成28年3月に逝去した鮎川氏当主の鮎川喜八郎氏(米沢市城南)より同会が預かった鮎川家に伝わる古文書や幟旗などを紹介し、目録のまとめが終了したことを報告しました。
 続いて、村上市在住の国史研究家、小田国彦氏が、「なぜ、上杉氏は絶家になった鮎川氏のお家再興を図ったのか?」という視点で、上杉氏と鮎川家の歴史を述べながら古文書について解説しました。小田氏は、鮎川氏の鉄砲隊が永禄4年(1560年)に行われた武田信玄と上杉謙信の戦国時代最大の戦い「川中島の戦い」や、慶長5年(1600)の東北の関ヶ原と言われる上杉氏と最上氏の戦い「長谷堂合戦」、さらに大阪冬の陣などで、上杉軍の命運を握るような大きな働きがあったからだとその理由を述べ、その証拠に、鮎川家に対して上杉家から発行された文書が多数残っていることを挙げました。そして、このような恩義から上杉家として鮎川家の存続を重要視したと結論づけました。
 展示された古文書は、鮎川系譜、手紙、書簡集、手控えなど、150通を超え、解読不能な文書も多数あることから、今後の研究で全容の解明が期待されています。
 また、布製の幟旗二点(鮎川氏紋所ー鮎川氏の家紋は「イオリノ内に桐のトウ」)、鐘馗図(しょうきず)の幟「旗指物」)は、鮎川家当主の了解の上、新潟県村上市大場沢城跡保存会に寄付保存されることになりました。(鐘馗図:中国の民間伝承に伝わる道教系の神)
 会員たちは鮎川家に伝わる幟旗や古文書を見ながら、先祖の歴史に思いを馳せていました。

(2016年12月31日14:50配信)