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米沢藩足軽、小汐山五右衛門の化粧廻しが生家に戻る


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 第9代米沢藩主上杉鷹山(1751〜1822)の治世に、玉庭村(現在の川西町玉庭)に生まれ育ち、当時の江戸相撲最高位である大関を破ったと伝わる初代小汐山(おしおやま)が使用した化粧回しが、8月24日、生家である川西町玉庭の吉村敏明さん宅に戻りました。
 初代小汐山は米沢藩下級武士(足軽)で、本名を吉村五右衛門(1769〜1797)といい、身長は五尺三寸(1㍍61㌢)と決して大柄ではありませんが、「腕及び股に異常なる力瘤あり」と歴史にとどめています。
 五右衛門は、天明8年(1788)、第10代米沢藩主上杉治広の参勤交代に従い、江戸に上り、足軽辻番組の役目で藩主が住む藩邸警備に当たりました。江戸角力を見た五右衛門は角力が取りたくなり、藩主治広から飛入り参加への許可をもらい、天明8年(1789)、江戸四谷塩町で開かれた江戸相撲九日目の勧進相撲に参加しました。(一説には恵比寿講角力が催された回向院境内)
 五右衛門は幕下から始まり次々と相手を打ち破り、小結と関脇との対戦では、相手の臍の部分に自分の額を当てて相手を投げ飛ばし、当時最高位である大関の谷風との対戦では、芝際(土俵淵)まで押し出して勝利したと伝えられています。
 この勝利に喜んだ藩主治広は、褒美として五右衛門に化粧廻しと陣太刀一振りを与えました。化粧廻しは幅が二尺五寸(75・8㌢)、長さが七尺三寸(2・2㍍)の大きさで二枚折りです。
 五右衛門は、会所(現在の日本相撲協会のような組織)より小汐山という「しこ名」と、「代々江戸相撲世話係」の名称が与えられ、相撲古実書授与、領内に二階土俵(土俵の淵に置く俵を二つ重ねた高い構造の土俵)を作ることを許されました。(映像の中の写真は松尾神社)
 吉村敏明氏宅の過去帳によれば、五右衛門は寛政9年(1797)7月5日、数え29歳の若さで病いのために亡くなりました。

 初代小汐山が使った化粧廻しは、その後、小汐山を襲名した玉庭村の家が継承、保管してきましたが、時が過ぎ世代が変わるにつれて、次々と人手に渡りました。南陽市に住む小形芳美さんは、獣医師として玉庭地区を担当している時に小汐山のことを知り、その化粧廻しが骨董商を通じて県外に流出すると聞いて26、27年前に買い求めました。それ以来、小形さんは小汐山のことを調査し続けました。今年9月15日に「米沢藩力士譚 小汐山夢ふたつ」(株式会社文芸社)を出版するのを一区切りとして、化粧廻しを生家の吉村敏明さんに戻すのが一番良いと考え、8月4日に吉村敏明さん宅を訪れ、吉村さんから引き受けたいと言う回答をもらいました。8月24日、小形芳美さんより「化粧廻し」と「小汐山遺品譲渡経過」と書かれた文書の2点が吉村敏明さんに渡されました。
 化粧廻しは、赤の生地に黒色で小汐山と刺繍が施されています。一部綻びがあるものの保存状態はまずまずです。吉村敏明さんは、小汐山の没後220年余りにして、化粧廻しが生家に戻ったことを大変に喜び、今後、玉庭地区のために役立てて行きたいと語っています。

(2018年8月25日19:10配信、8月27日19:40最新版)