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直江兼続400回忌墓前祭、記念講演会を開催


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 米沢藩初代藩主上杉景勝の執政として活躍した直江兼続の400回忌墓前祭が、9月1日午後1時30分より、米沢市の春日山林泉寺(菊池道喜住職)本堂で行われました。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、上杉家は米沢に移封され、直江兼続の元で新たなまちづくりが行われました。直江兼続は、元和5年(1619)12月19日、享年60歳で江戸鱗屋敷(現東京警視庁)において死去し、米沢の徳昌寺町(現米沢市徳町)にあった徳昌寺に葬られました。
 この墓前祭を主催したのは、米澤直江會(河野由一会長)で、当日は直江兼続生誕地の南魚沼市などを含め、大勢の市民が参列しました。墓前祭では、はじめに吟道岳鷹会上席師範宍戸岳荘氏によって詩吟上奏が行われました。続いて、主催者を代表して米澤直江會河野由一会長、来賓として米沢上杉家第17当主上杉邦憲氏らがそれぞれ挨拶を行いました。読経の中で参列者は次々と焼香を行い、直江兼続の遺徳を偲びました。墓前祭終了後、参列者は直江兼続夫妻の墓で手を合わせていました。
 午後4時から東京第一ホテル米沢において記念講演会が開催され、米澤直江会理事の今福匡氏が「直江兼続はいかに語られてきたか」と題して1時間余り講演を行いました。この中で、今福氏は歴史上の人物が改名した場合、最後の名前で記されるのが一般的であるとした上で、兼続の最後の名前「重光」が普及しなかったのは、徳川幕府が誕生し、大名間での交信が減少し、政権窓口(取次)を介するようになり、他家の情報が限定されたからと理由を述べました。
 また、元禄16年(1703)に完成した『景勝公御年譜』では、兼続を「秀吉、家康、秀忠に拝謁、恩遇も諸家の臣に超越す」と評価し、米沢藩内で排斥やタブーの対象とはなっていないと述べ、新しい視点を提供しました。また明治以降の米沢において直江会発足の動きや、300年祭執行の記録を米沢新聞に掲載された記事などを丹念に拾い上げ、解説しました。
 さらに直江兼続400回忌、米澤直江會40周年記念誌「龍師火帝」が発行されました。

(2018年9月2日15:15配信)