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米沢市万世町堂森にある善光寺で、6月4日、前田慶次(慶次郎)の墓石開眼供養と413回忌供養祭が行われました。
前田慶次は現在の愛知県に生まれ、加賀城主となった前田利家の兄、利久の養子となったことから利家の甥にあたります。慶次は越中(現在の富山県)の阿尾城に5000石を与えられましたが、型にはまった生活からか言行が変わり、やがて天下御免の「傾奇者」として知られるようになります。利家は慶次の奇行を快く思わず、慶次は家を離れて京都に出て、慶長3年(1598)、そこで直江兼続を知り、上杉景勝の家臣となるために会津に向かいました。
慶長5年(1600)9月、東北の関ヶ原と言われた最上軍と上杉軍の戦いである「長谷堂合戦」では、直江兼続を助けて活躍しました。晩年は堂森に屋敷を構えて、苦しみのない庵という意味で「無苦庵」と名付け、慶長17年()6月4日、享年70歳の生涯を閉じ、同地で死去したとされます。
堂森善光寺では、毎年6月4日に供養祭を執り行っていますが、今年は2021年に発見された前田慶次の墓所に、善光寺、大阪の石材店、米沢市内有志などの手により墓石を建立することになり、その開眼供養と除幕式が供養祭に先立って開催されました。
墓石に刻まれた文字は、善光寺住職より指名された米沢市のおしょうしな観光大使を務める角田信朗さん(かくだ・のぶあき、元格闘家・タレント・俳優)が書いたものです。読経が行われる中、参列者は焼香を行い、墓石に手を合わせていました。
その後、前田慶次413回忌が前田慶次供養塔前で行われました。会場では、太鼓演奏、角田信朗さんの挨拶やライブなどが行われたほか、お菓子などの県産品や各種グッズを販売するお店が並び、全国から集まった人たちで賑わいを見せ、前田慶次の聖地、米沢を全国に発信しました。
慶次は文武両道の人で、「無垢庵記」、「道中日記」(慶長6年10月24日京都伏見を出発、11月19日米沢着)を書き残しているほか、直江兼続が現在の高畠町亀岡の亀岡文殊で開催した亀岡百首の中に和歌3首を残しています。