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竹田 歴史講座

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10 寒河江市・大江町の大江氏史跡(館・寺院)巡り

          文・写真  米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。


一、はじめに

 令和4年のNHK大河ドラマは、源頼朝の妻政子の弟北条義時を主人公とする『鎌倉殿の13人』という鎌倉幕府草創期の歴史を紹介した。源頼朝の右腕となり、宰相役を務めた人物が鎌倉幕府初代政所別当となった大江広元である。
 文治5年(1189)、源頼朝は奥州藤原氏を大軍で攻めて滅ぼし、全国制覇を成し遂げて武士による初めての政権である鎌倉幕府を樹立した。頼朝は、論功行賞として家臣に奥羽の各地を与えた。
 羽前国寒河江の庄(現山形県寒河江市周辺)と長井の庄(現山形県長井市・米沢市周辺)が広元に与えられ、後に広元の長男親広が寒河江の庄、広元の次男時広が長井の庄地頭職となり、山形県には大江氏と関わりのある地域が生まれた。実際には時広は鎌倉にいて、長井の庄に来ることはなかっただろうが、親広は承久の乱後、寒河江に来て住んでいる。私は鎌倉時代の理解を深めたいと思い、令和4年6月から7月にかけて、寒河江市や大江町にあった大江氏支配地を巡り歩いた。

二、大江氏のルーツとは

s-00 大江氏は源平藤橘の4姓に、菅原家の菅家、大江家の江氏の2氏を加えて6姓ある云われる中の名族で大江音人を先祖として、大江匡衡、大江匡房らを経て広元にいたる学者の家柄である。奈良時代、古代の氏族である土師氏が源流とされ、桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791)に縁戚関係にある大枝の姓を与えた。平安時代、866年には大枝音人が姓を改め大江音人となる。(写真右=鎌倉幕府があった場所(鎌倉市):写真 米沢日報デジタル)
 大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。大江匡衡の曽孫に平安時代屈指の学者であるとともに河内源氏の源義家に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。鎌倉時代、元暦元年(1184)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は、大江匡房の曽孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢にまで昇りつめた。
s-01 広元は⎾守護地頭制⏌を頼朝に進言するなど、鎌倉幕府の基礎を固めた功労者で、文治5年(1189)、奥州征伐の論功行賞で長井荘並びに寒河江荘の地頭職に任じられた。寒河江荘の地頭職は広元の長男親広が相続、初めは広元の妻の父である多田仁綱が目代になって寒河江に下向していた。このことから大江広元の系統は武家の大江氏としても毛利氏をはじめとする武家の祖となる。(写真左=大江広元の墓(鎌倉市):写真 米沢日報デジタル)
 1247年に大江広元の四男の大江季光が鎌倉幕府に対し謀叛を起こした三浦泰村に味方したため、武家大江氏の嫡流は衰退する。その後、大江広元の後裔は各地方で武家として活躍、安芸国出雲国の毛利氏、三河国の海東氏・酒井氏・芦沢氏、越後国の越後北条氏・安田氏、出羽国の寒河江氏・長井氏、上野国の那波氏などを生んでいる。
                大江氏系譜
      1      2   3   4   5    6   ※7     
大江広元――親広――――/高元―広時―政広―元顕――元政―時茂
     |―時広/長井             |―懐広―直干―時干
     |―宗元/那波             | 柴橋 
     |―季光/毛利             |
     |―忠成/海東             |―顕広
     |―重清/水谷               高松
         
※7
(時茂)――茂信/溝延――家広
     |       ―政広/白岩 
     |―元時/左沢――氏政
     |       ―冬政/萩袋
     |  8       9    10  11  12   13  14   15※
     |―時氏/寒河江――元時―――元高―高重―為広―知広―宗広―孝広
            | ―元詮/高屋 
 ※15    16  17  18
 (孝広)―広重―兼広―高基 

三、大江親広が居城を構えた寒河江城(寒河江市丸内1-3-11)
 
sa-1 現在の寒河江城のある地域に最初に館を建てたのは大江広元の嫡男大江親広だったとされる。親広は承久3年(1221)、承久の乱において後鳥羽上皇の側に付き、敗れると寒河江荘に潜居したという。
 貞永元年(1232)、御成敗式目が制定され鎌倉幕府の勘気が解かれると寒河江荘内楯に館を建てたという。寒河江城を城として整備したのは寒河江大江氏として初めて寒河江を名乗ったのは寒河江時氏とされる。築城年代は南北朝時代末期から室町時代初期にかけてであり、当初は方形単郭の平城であった。
sa-2 その後、城の拡大に合わせて二の堰の開削が行われると二の丸・三の丸が築造され、天文3年(1534)制作の古絵図によれば、三重の堀を持つ連郭式平城となった。この時の規模は三の丸東西400m×南北550mというもので、堀の内回りには土塁が築かれていた。堀は幅の広いところで12間あり、二の丸、三の丸には重臣の屋敷を配し、二の丸の東北隅の鬼門には惣持寺を、三の丸のそこには薬師堂を配置した。
 戦国期の永禄3年(1560)、最上義守・義光に攻められるが撃退する。最上氏の拡張戦略はこの敗北で一時頓挫する。しかし天正2年(1574)、最上氏の内訌である、最上氏当主義光と隠居した父義守との間で起きた内乱である⎾天正最上の乱⏌に巻き込まれた寒河江氏は、天童氏・白鳥氏・蔵増氏・野辺沢氏、さらには同族の白岩氏・溝延氏・左沢氏により攻められ、本丸を残して攻め崩されてしまう。
 天正12年(1584)、寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると、当初は義光の直轄地であったが、文禄年間嫡男最上義康に与えられた。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、城主義康が伊達氏への救援要請や米沢からの上杉軍主力との対決のため留守にし、長崎中山氏が守る庄内が上杉軍により攻め落とされる。
 一方、直江兼続別働隊が白鷹から八沼城を落とし左沢に進出後、山野辺で本隊と合流している。9月29日、関ケ原の敗報に触れた本隊は、10月1日撤退を開始し、寒河江城の庄内勢も引き上げた。
 その後、慶長7年(1602)頃から弟の家親が城主となり、慶長14年から15年頃、家親が山形城に移ると、旧寒河江氏家臣の寒河江肥前が2万7千石で在城した。慶長19年(1614)、最上義光が病死し寒河江肥前が殉死すると、最上氏蔵入り地となった。この後、寒河江肥前は山形南館7千石となる。殉死した肥前の息子であろうか。元和8年(1622)に最上氏が改易になると、鳥居氏の預かりとなるが、元和9年(1623)から翌寛永元年(1624)にかけて本丸を残して堀を埋め、土塁を崩した。現在は跡地の大分が寒河江小学校と住宅地になっており、三の丸にあった辰巳門が澄江寺の山門として移築されている。

寒河江氏歴代城主は次の通りとなる。
初代 寒河江時氏 寒河江城を整備した
2代 寒河江元時 1401年、伊達氏刈田城攻めに兵を送る
3代 寒河江元高 
4代 寒河江高重
5代 寒河江為広 高重の弟 伊達氏の侵攻を菖蒲沼で撃退
6代 寒河江知広 大寧寺末寺として澄江寺建立
7代 寒河江宗広 娘は中野氏に嫁ぐ 大寧寺末寺で法泉寺建立
8代 寒河江孝広 妻舘岡義輔娘 陽春院開基 1521年伊達氏の侵攻
9代 寒河江広種 孝広の腹違いの兄
10代寒河江兼広 妻吉川政時娘 白岩宗広娘 白鳥長国娘 福泉寺建立
11代寒河江高基 妻兼広娘 吉川宗家より入る 最上氏に攻められ自害

最上氏
初代 最上義康
2代 最上家親

家親以後
初代 寒河江肥前

支城群➡
溝延城   溝延氏 一門
左沢楯山城 左沢氏 一門
白岩城   白岩氏 一門
小泉楯
柴橋楯   柴橋氏、橋間氏 一門
高松楯   高松氏 一門
高屋楯   高屋氏 一門
本楯
貫見楯
新田楯   公平氏
長崎楯   中山氏

四、大江広元の妻の父、多田仁綱(のりつな)を目代に築いた本楯館

sa-3 寒河江市本楯に「本楯館』と言われるものがある。最上川左岸の河岸段丘先端(比高10m)に築かれた平城城で、規模は東西450m×南北400mほど、縄張りは主郭を外郭で囲む単純な輪郭構造で構築されている。主郭の規模は東西190m×南北170mほど、周囲を土塁と濠で囲った方形郭と思われる。石碑が建つ。築城時期は不明である。
 通説では鎌倉初期⎾寒河江荘⏌の地頭職に任ぜられた大江広元(幕府政所別当)が舅の多田仁綱(のりつな)を目代として寒河江に派遣し本楯を築いたとされる。その後、大江氏は1285年の霜月騒動後の大江元顕の代に寒河江荘に下向し、この時、元顕は本楯に拠したと伝えられる。そして南北朝期の大江(寒河江)時氏の代に大江氏は本楯から寒河江城に拠点を移し、その後、本楯には大江氏の一族、家臣が在城し寒河江城の外郭として機能したものとされる。
sa-4 多田仁綱は、大江親広の外祖父にあたる。摂津国多田郷吉川村の出身で、源満仲の弟、源満成の長男左近将監満信の後胤であるという。文治5年(1189)、娘婿大江広元が出羽国寒河江荘の地頭に任じられた際、広元の目代として寒河江に下向し同荘本楯、次いで吉川(西川町)に居館を構えて統治にあたった。
 その後、承久の乱で京方に与して敗れた孫親広が寒河江に落ち延びると、これを吉川の館に匿い保護したとされる。嘉禄元年(1225)、広元が死去すると、父の死を悼んだ親広は吉川の館内に阿弥陀堂を建立して広元の遺骨を源満仲の念持仏とともに祀ったとされ、仁綱も間もなく出家して正阿源宥と号し、この堂の別当を務めたという。現在、跡地に親広と仁綱の墓が残る。

五、寒河江氏の支城

 次に寒河江氏の支城をいくつか紹介する。
sa-5まずは①高屋楯である。場所は寒河江市高屋にあり、熊野神社に石碑が建つ。
石碑の碑文には、
「室町時代、寒河江大江氏の一族高屋元詮は山形最上氏の侵略に備えてここに楯を築き、大江氏防備圏の一翼を担った。楯の規模は東西126m、南北82mで面積約1ヘクタール。堀幅は21m、古代条理制の地割を利用した最上川段丘上の楯であった。高屋氏は家臣団を上屋敷、下屋敷、新屋敷に置き、東方に熊野神社、光明寺、北方に極楽寺を祭り、この楯を高屋開発の拠点とした。天正12年(1584)6月、9代にわたって栄えた高屋氏は最上義光に敗れた寒河江大江氏と運命を供にし、その楯も消滅した。高屋楯は高屋氏興亡2百年の歴史を語る貴重な遺跡である。」と書かれてある。
sa-6 次は、②「高松館」で、寒河江市柴橋にある。最上川左岸の微高地に築かれた平城である。現在、周囲は水田、果樹園、集合墓地になっているので遺構などはない。案内板には、規模は東西80m×南北100mほど、幅9mの濠で囲まれた単郭の方形舘であったと記されている。
 説明板には、
「鎌倉末期、鎌倉での政争に嫌気をさした鎌倉御家人大江元顕は寒河江荘に下向して土着した。元顕は三男の顕広に高松を分知し、顕広は高松館を築いて高松氏を称した。南北朝期、寒河江大江氏は南朝方に加担していたが、14世紀中頃、出羽按察使として村山郡山形に下向した斯波兼頼と対峙する。そして延文4年、大江元政は対峙する斯波勢との戦に敗れ、弟の柴橋懐広、高松顕広等とともに討死したと云われる。その後、寒河江大江氏は鎌倉府に和を請い所領安堵の御教書を受け、室町から戦国期村山の有力国衆に成長する。高松氏は顕広討死後も家系は高松館に拠し、寒河江嫡流家に出仕したとされる。天正12年(1584)山形城主最上義光の攻撃を受け寒河江氏は滅亡するが、後に高松氏の当主と思われる高松左門は最上氏に仕官している。」とある。

sa-8 次は、③柴橋館で、寒河江市柴橋にある。最上川北方の飛行10mに満たない段丘上の南縁部に築かれたらしい。遺構は完全に潰滅しており、アパート脇に城址標柱と石碑が残るだけである。説明板には、
「柴橋館は寒河江大江氏の支城である。現地標柱は柴橋楯と称される。南北朝時代に大江氏6代元政の弟懐広が築いたとされる。1356年足利氏の一門で奥州管領であった斯波家兼の次男兼頼(最上氏の祖)は出羽按察使として山形に入部すると、南朝方であった寒河江大江氏は北朝勢の進攻に備えなければならなくなった。そして大江氏7代時茂は、本拠の寒河江城を中心に白岩、柴橋、左沢、溝延、小泉、高屋、荻袋、見附などに城塁を築かせたと云う。柴橋氏は懐広から室町末期の8代頼綱まで続いた。頼綱は大江氏18代高基の弟で橋間勘十郎と称し、剛勇の誉れ高く、兄高基の筆頭家老となった。1584年、白鳥氏を滅ぼしたばかりの最上義光は寒河江大江氏を攻撃した。この時、頼綱は谷地・寒河江連合軍を指揮して谷地城で戦うも敗れ、鉄砲隊の銃撃を受けて皿沼の地で絶命したと云う。」と記載されている。
 柴橋氏は、南北朝時代の寒河江氏当主大江元政の弟懐広を初代とし、柴橋楯を居城とした。柴橋は長岡山の西方約1キロに位置し、楯は比高差約10mの最上川河岸段丘上にある。平安時代に栄えた落衣とは塩水・内の袋の湿地帯を挟んだ対岸に位置した。南下すると高松楯・最上川の牛前河岸の渡しを経て平潮へ至り、北上すると鹿島神社(慈恩寺の南の結界)の門前町鹿島へ至る地点であった。懐広は元政と共に南朝側として戦い討死したという。子の直宇も又、応安元年(1368)⎾漆川の戦い⏌で一族60数名とともに自害した。
 その後、橋間氏を名乗るようになり、天文6年(1537)、橋間伯耆守が郷目貞繁に依頼し、釈迦出山図・花鳥図を寒河江本願寺に寄進している。最後の当主は出羽吉川氏大江元綱の三男頼綱が入り、橋間勘十郎頼綱と名乗った。
 頼綱は寒河江氏17代寒河江兼広の執政を務め、男子のなかった兼広死後、兄である高基を兼広の女婿とし18代とした。
 最上義光と寒河江兼広の間には、最上義康を後継とする約定があったため、義光は怒り、両家には確執が生じることになる。天正11年(1583)最上義光が庄内武藤氏征伐に向かうと、寒河江高基は武藤氏救援の軍を自ら率いるも、救援到着前に武藤氏は自刃。天正12年(1584)、姻戚関係であった谷地城主白鳥十郎が誘殺され、最上氏が谷地城を攻めると柴橋頼綱が救援に向かった。しかし救援の甲斐なく谷地城が落ちると、最上氏は寒河江攻略の軍を寄せ、柴橋頼綱は白鳥氏旧臣を旧号して最上川を越え、中野まで攻め込むが鉄砲隊の伏兵に遭い落命した。

sa-9 次は柴橋代官所である。これは江戸時代の役所で、宝暦5年(1755)山形盆地に置かれた、天領の代官所の一つである。初代代官は天野市十郎、宝暦10年(1760)に小田切新五郎代官が陣屋を構築した。代官所には手付、手代が置かれ、この地の年貢、戸籍、治安などの行政を行った。明和4年(1767)頃には支配高は48ヶ村で7万4千石で、代官は柴橋と寒河江の両方の代官を兼務した。通りには郷宿が7軒あり、官庁街のような佇まいだったという。役所は南に正門、北に居宅、東西に米蔵を備えていた。
 時代は下り幕末、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸市中取り締まりなどの庄内藩の幕末時の功労に報いるために、荘内藩に出羽の寒河江柴橋代官所管轄の幕府領7万4千石の管理を命じ、柴橋陣屋で保管していた年貢米21000俵を庄内藩に与えることにした。そのため庄内藩は藩兵をこの地に送り領内の警護を行い、陣屋の年貢米を川船に積み込み庄内に運んだ。
 新政府は奥羽諸藩に一方的に会津藩、庄内藩征討を命じ、九条道孝を総督とし薩長を中心とした鎮撫軍が仙台に入り、さらに仙台より出羽に入った。当時は新政府軍の財政基盤は確立しておらず、戦費を賄うために太政官札の発行や、大坂商人の資金提供を頼りとしていた。新政府軍は天童藩を先導役として天童に本陣を置いていたが、柴橋陣屋の年貢米の情報を入手した新政府軍は、年貢米の押収を企図し、4月2日、先遣隊が柴橋を襲撃した。しかし、この時は既に庄内藩が年貢米を運び出した後であり、守備兵もおらず倉庫は空であることを確認し先遣隊は引き返した。(柴橋事件)このことは新政府軍にとり大きな痛手であり、これが朝廷の公領を侵害したとして、庄内征討が決定される一因になった。この後、奥羽鎮撫軍は4月23日まで新庄まで進出し、庄内藩との緊張は高まり、清川口の戦いが起こることになる。

六、寒河江氏に関連する寺院

 各寺院の本堂の棟には、大江氏の家紋「一文字三星」が取り付けられている。
sa-15①澄江寺 13代寒河江知広菩提寺(寒河江市本町3丁目 TEL0237-84-3764)曹洞宗   
 創建は1489年、寒河江知広が父為広の死去に伴い、両親の菩提を弔うために開山。当初は大寧寺の住職が叔父にあたる全岩東純だったことから、大寧寺の境内に支院として設けられたが、明応3年(1494)に知広が死去すると、当地に境内を移して知広の法名⎾澄江寺殿高嶽棟公⏌に因み、寺号を澄江寺と改めた。境内には大江知広夫妻の墓、五輪塔がある。山門は三間1戸の薬医門で、寒河江城三の丸の辰巳門(東南方)であった。

sa-16②法泉寺 14代寒河江宗広菩提寺(寒河江市本町3丁目 0237-84-3856) 曹洞宗 法名は法泉寺殿悦巖喜公第居士
 1484年、父の死により寒河江氏を継ぐ。同年、最上満氏も死去し、最上義淳が跡を継ぎ、伊達尚宗は領内の騒乱のため芦名氏のもとへ逃れている。姉妹も中野義建に嫁いでいる。最上義淳が左衛門左で、宗広は左京大夫を称した。

sa-17③陽春院 15代寒河江孝広菩提寺(寒河江市本町2-7-1 0237-86-5595) 曹洞宗 
 創建は1620年、信濃国須坂の興国寺9世桂岸頼察和尚により開山された。ここに、もともと寒河江考広が帰依した将軍延命地蔵堂があったとされ、孝広没後にここに葬られたという。法名は陽春院大運永公大居士

sa-26④福泉寺 16代寒河江広種菩提寺(寒河江市本町2-7-19 0237-86-2605)曹洞宗
 創建は1528年、大江氏16代当主広種が澄江寺の2世、象外東玄禅師を招いて開山した。寒河江広種は14代当主宗広の五男で、もともと仏門に入り法華院光栄を称していた。1527年、15代当主孝広が死去したので、光栄が還俗して寒河江氏の家督を継いだ。尚、広種の代に寒河江城が三重の濠を持つ巨大な平城に拡張整備されたという。法名は福泉寺殿陽春公第居士

sa-28⑤長念寺(寒河江市丸内2-4-19 0237-86-0016)真言宗智山派
 寒河江城址三の丸地内にあり、鎌倉期に寒河江初代城主大江親広により祈願所として建立された。大江氏は想持寺という末寺約40ヶ寺を持つ中本山の寺格の広大な寺院を創建したが、長念寺はその末寺筆頭として室町期より知事役を務めていた。だが明治3年、明治維新政府の神仏分離令、廃仏毀釈や寺院経済の破綻などから惣持寺は廃寺となり、寺格をはじめ貴重な仏像、仏具等の大部分が長念寺に譲渡された。

⑥極楽寺(寒河江市高屋344 0237-84-2782)曹洞宗
 16代広種寄進所

⑦満福寺(寒河江市本楯1-86 0237-84-3921)曹洞宗
 初代親広の庵

⑧本願寺(寒河江市本町2-1-35 0237-84-3925)浄土宗
 11代高重菩提寺

⑨長松寺(寒河江市西根1-5-21 0237-84-4055)真言宗智山派
 7代時茂菩提寺

⑩徳蔵院(寒河江市中央1-4-36 0237-86-2180)曹洞宗
 18代高基弟広隆開基

⑪裕林寺(寒河江市七日町4-51 0237-84-4029)曹洞宗
 11代高重長男広重開基 16代広種夫人菩提寺

⑫西運寺(寒河江市本町3-1119 0237-86-8456)浄土宗
 5代元政夫人開基 

⑬常林寺(寒河江市六供町1-719 0237-84-3838)曹洞宗 
 18代高基夫人開基
  
⑭観音寺(寒河江市柴橋落衣2494 0237-86-4308)曹洞宗
 18代高基娘達姫開基

⑮柴橋寺(寒河江市柴橋760 0237-84-4570)真言宗
 さいきょうじ

⑯八幡宮(寒河江市八幡町 0237-86-62580
 貫治7年(1093)、源頼義・義家父子が前九年の役の戦勝に感謝して京都男山八幡宮の分霊を勧請。その後建久2年(1191)、地頭で初代大江親広が鶴岡八幡宮の分霊を勧請して現在地に社殿を創建。寒河江総鎮守

⑰正覚寺(寒河江市本町3-6-2 0237-86-3263)浄土宗
 創建は江戸時代初期の慶長8年(1603)に、最上義光の夫人の実家である大崎氏を弔う為、夫人を開基とし義光が堂宇を造営、岌讃専阿和尚を召還し開山したとされる。秀次事件に連座した娘、駒姫を失った大崎夫人は娘の後を追うように亡くなったとされる。

七、南北朝の騒乱に備え築いた白岩城(寒河江市白岩2007)

 白岩の地は寒河江川上流に大江広元宗廟吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分つ要地であった。斯波兼頼との争いで父大江元政を失った時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男溝延茂信の子政広を配した。
 白岩氏は、4代満政を溝延から迎えると両者は関係を深めながら次第に自立性を高め領主権を拡大するが、戦国時代末期、寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り、松根光広を養子として迎えた。慶長出羽合戦では、庄内から六十里越街道を経て侵入した下秀久(上杉軍)に攻め落とされた。元和8年(1622)、最上氏が改易になると白岩には旗本酒井忠重(庄内藩主酒井忠勝の弟)が入部した。
 しかし、忠重は苛政を布き、寛永10年(1633)には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった。これが原因で、寛永15年(1638)に酒井忠重は改易された。その後、白岩領は幕府領となり代官の支配下に置かれた。
sa-18 現地は白岩小学校の直ぐ西の丘陵にあり、白岩公園になっており、八幡神社が建つ。白岩城の標柱があり、北方に主郭がある。規模は東西600m、南北450mの方形であり、5つの楯を有する山城である。稲荷山楯を中枢とし、南に上楯山・八幡楯、西は複合郭型式の新楯で防御した。八幡楯は六十里街道を抑える役割を果たした。
白岩氏:初代城主政広、2代明代、3代広茂、4代満教、5代満広、6代宗
広、7代広隆、8代広教
          最上氏:松根光広
          酒井氏:酒井忠重

sa-20 寒河江市白岩の誓願寺境内に「白岩義民碑」という供養碑がある。
 元和8年(1622)、最上山形藩57万石が改易になると、その領地は分類されて、村山郡白岩郷8千石が庄内藩主酒井忠勝の弟にあたる旗本酒井忠重に委ねられた。しかし、酒井忠重の支配は苛烈で百姓を相手に米などの押し売りや高利貸しをし、百姓の女房を城に召し出して美醜で選んで留め置いたり、人馬を不当に徴発したりで、苛政の結果、白岩では餓死者や身売りの者を1,454人も出した。
 この忠重の苛烈な支配に耐えかねた領民は、寛永10年(1633)、俗に白岩状、白岩目安と呼ばれる非法23ヶ条を記した訴状をもって幕府に直訴するに及んだ。しかし、幕府はこれを取り上げることは無く、直訴に及んだ者たちは処刑された。
 それでも寛永15年(1638)には、忠重は改易され庄内藩に預けられ、領地は幕府直轄領となり、代官小林十郎左衛門が置かれた。しかし、その支配も以前とほとんど変わらないもので、その3ヶ月後、領民はまたも一揆を起こした。代官小林は山形藩主の保科正之が対応したが、幕府の対応は強硬で山形藩主が訴えを聞くからと農民を宥めて、総代らを山形城下まで出向かせ、山形に直訴に訪れた36人は残らず捕縛され、全員が山形城下の広河原で磔刑に処せられた。
 この前年には九州で小西行長残党による島原の乱があり、続いてのこの出羽の一揆は改易された最上藩の残党と結びつく可能性を幕府は考えたのかもしれない。その対応は苛烈であった。この地の碑は、笠石型の大きなもので元禄年間の建立と推定されており、施主として⎾白岩8千石大庄屋和田庄左衛門 惣名主総百姓⏌の名がみられる。正面には南無阿弥陀仏と大書され、その脇に犠牲者38人の法名が刻まれている。

八、西川町にある大江氏、寒河江氏関連史跡

 寒河江市の隣町である、西川町にも大江氏、寒河江氏の関連史跡がいくつかある。
①吉川阿弥陀堂は、嘉永元年(1225)、鎌倉幕府の創設に関わった大江広元が死去すると、当時⎾承久の乱⏌に敗れ寒河江荘に蟄居していた広元の嫡子⎾前京都守護⏌民部少輔、大江親広は鎌倉にいる嫡子の左近将監左房に命じて、阿弥陀如来像を造り、その胎内に広元の遺骨を納め、外祖父多田仁綱の祖源満仲の念寺仏とともに、吉川館の邸内に建立した阿弥陀堂に安置したとされる。
sa-33 多田仁綱は清和源氏源経基を祖とする摂津源氏の出身で、親広の外祖父にあたる。そして仁綱は大江広元の目代として、⎾寒河江荘⏌に入部し、当初は仁綱は本楯に拠していたが、後に吉川に居を移し、承久の乱に敗れた親広を吉川館に匿ったとされる。
(写真右=西川町吉川にある大江親広と多田仁綱の墓)

 そして天福2年(1234)、仁綱が死去すると、仁綱の遺骸は阿弥陀堂脇に葬られ、仁治2年(1241)、阿弥陀堂は吉川館の鬼門とされる館の北東縁に移築され、同年、親広が死去すると親広もまた阿弥陀堂の傍らに葬られたと伝えられる。
 親広死去後、吉川大江氏は、親広の次子高元、親広の三子木工助広時、広時の嫡子政広と続き、政広の嫡子元顕が鎌倉末期に寒河江荘に下向して吉川に土着したとされる。そして元顕以降、大江氏は元顕の嫡子元政の嫡子時茂と続き、南北朝期大江氏は南朝方に加担していた。
 だが応安元年(1368)、時茂のあとを継いだ嫡子の大江茂信の代には、大江氏は北朝方の羽州探題斯波兼頼、奥州管領大崎直持連合軍との戦いで壊滅的な大敗を喫して、茂信以下一族60余名が自害する危機的状況になった。(漆川の戦)
 このため時茂は生き残った四子の時氏に幕府に和を乞い降伏することを厳命して死去した。時氏は嫡子の元時を鎌倉府に人質として送り、本領安堵の御教書を受け、自身は寒河江に拠して寒河江氏を称した。この際、吉川には兄茂信の嫡子家広が残され、以後、家広の家系は吉川氏を称し阿弥陀堂の別当をつとめる。 
 家広以降、吉川大江氏の当主は備前守を称して、家広―元家―教広―頼元―頼俊―政周―広政―政時―元綱と続き、この間政周は左沢政勝の三男で吉川大江氏に養嗣子として入り、その次の広政は白岩満広の三男で政周の娘婿として、吉川大江家の家督を継いでいる。
 天正6年(1578)、寒河江兼広が嗣子なく死去すると吉川元綱の嫡子高基が兼広の娘婿として寒河江氏の家督を継ぐ。そして高基の弟隆広が吉川大江氏の家督を継ぎ、三弟の柴橋頼綱が寒河江氏の執政を務めた。
sa-22 天正12年(1584)、山形城主最上義光は谷地城主白鳥長久を山形城に招いて謀殺すると、すぐさま谷地城を攻撃する。このため高基は白鳥家家臣団を支援したが、谷地城は陥落し最上勢は寒河江領に侵攻した。そして橋間勘十郎が寒河江勢の指揮をとり最上勢と対峙したが、勘十郎は討死し高基は隆広とともに貫見に遁れて御館山で自害した。
(写真右=御館山城にある寒河江高基墓)

 寒河江氏滅亡後、阿弥陀堂の衰退を危惧した吉川大江氏の旧臣は最上義光に阿弥陀堂の再建を直訴する。義光はこれを了承して阿弥陀堂を再建し180石の御朱印を発給した。吉川隆広の遺児良光(安中坊寿斎)を吉川に戻して別当とした。
 慶長5年(1600)、良光は義光の嫡子義康の家臣団に組み込まれ、慶長出羽合戦に僧体で出陣したという。だが1602年頃から義光と義康の関係が悪化し、1603年、義康は庄内で暗殺され、良光、広道も討死した。その後、阿弥陀堂の別当は良光の次子広長―三男吉長が継ぎ、1624年、阿弥陀堂は天海僧正の命により金仲山無量寿院と称する真言宗寺院に改修され幕末まで存続した。
 明治になり解体され山門は溝延の聞徳寺へ、本堂は吉川学校に転用され、現在山形の常念寺客殿になっている。
 大江親広は鎌倉幕府創立の功臣で宿老として常に幕府の中枢にあり、幕府の重要な役割を担った大江広元の嫡男で、早くから将軍側近として重要された。又、北条義時の娘を妻にするなど北条氏とも密接な関係を築いた。
 将軍、実朝の死後には出家して蓮阿と称した。その後、京都守護に任じられた伊賀光季と共に上洛、洛中の警固にあたった。承久の乱に際しては後鳥羽上皇の命に従い京方として近江国供御瀬に出陣、敗れて京都に戻った。吾妻鏡の6月14日条には⎾親広は関寺辺において零落すと云々⏌tおあり、この記事を最後に親広は吾妻鏡から消えることとなる。元幕府の重臣であった親広について追及の手がなかったとは乱後の幕府の処置に照らして言えない筈であるが、乱後は自身の所領である出羽国寒河江荘に落ち延びて潜居したとされ、同地で仁治2年(1241)没した。大江親広の墓は、多田仁綱の墓とともに建立されている。(西川町大字吉川字中1365-2)

九、大江町にある寒河江氏関連史跡

sa-25 大江町貫見地区には大江一族が古くからこの地で勢力を養っていた。天正12年(1584)、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江城は落城、城主の寒河江氏18代高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、12家臣が防戦している間に高基は御館山城に登り、3家臣と共に自刃した。御館山城は標高438m、比高238mの御館山に築かれている。(写真右=光学院より望む御館山城、山上に高基の墓がある)

 遺構は不明瞭で山頂の平場にはここで自刃して果てた大江高基と3家臣の墓が建てられている。高基の墓は五輪塔である。御館山城は寒河江城を本拠とした寒河江大江氏滅亡の地である。
  御館山城に対する根古屋、又は居館であったと推測されているのが貫見楯である。1292年に大江政顕がこの楯に住したという。1584年、山形城主最上義光の攻撃により寒河江大江氏の18代当主高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、家臣達が防戦している間に高基は御館山城に登って自刃した。楯は小清川東岸の丘陵上の高台に築かれている。近くに大江高基を庇って最後の防戦をして討死した12人の家臣の墓がある。
sa-31 大城は寒河江高基の弟隆広が築城した。高基が最上義光に攻められ自害した際に隆広も大城で自害したという。尚、隆広の子良光は寒河江家臣団の嘆願により寒河江氏の名跡を継ぎ寒河江城主となっている。城址のある高台は往時、蛾端がばと呼ばれ、この地に1581年、徳蔵院が創建されていた。開基は寒河江高基の実弟隆広と伝えられている。蛾端に隆広は居住していた。月布川の中流域、南から北方向に半島状に張り出した丘陵上に築かれた平城である。規模は東西80m、南北170mほど、丘陵続きを掘で断ち切った単郭の城館と推測される。左沢から貫見に繋がる道が城の縁部を通るよう繋がっていて軍事的、関所的な性格があったようである。
sa-23 光学院は、大江町貫見にある曹洞宗寺院。寒河江城主寒河江高基の菩提寺である。光学院には高基や家臣の遺品が蔵されている。明王堂には高基の位牌が祀られている。山門の脇に⎾寒河江城主寒河江高基菩提寺⏌の石碑が立つ。ここから御館山が望見できる。


  寒河江高基は、大江氏宗家出羽吉川氏の吉川元綱の長男で、当初は吉川家を相続したようだ。寒河江氏17代当主寒河江兼広の執政となった末弟、柴橋頼綱が兼広の娘と長兄である高基の縁談を仲介し、高基が寒河江氏18代を継ぐことになる。
 しかし寒河江氏当主の座は寒河江兼広と最上義光の間で義光の子、義康を婿として同氏を継がせる約束があった事により、両家の間には両家の間には確執が起り、さらに同族である左沢氏や溝部氏からの反発も招いた。尚、吉川宗家は弟隆広が継いだ。
 天正9年(1581)から同10年(1582)にかけて、最上義光は新庄を中心に大宝寺氏(武藤氏)と争う。その後、義光は武藤氏攻略を目指し、武藤氏の家臣前森氏を調略し、前森氏(東禅寺義長・東禅寺勝正)は武藤氏の居城尾浦城(現鶴岡市大山)を取り囲む。高基は自ら六十里越えを通り、縁戚関係にあった大宝寺義氏の救援に向かうが、到着前に武藤氏は滅亡した。
 天正12年(1584)6月7日、最上義光が寒河江荘北方を領する白鳥城主白鳥長久を誘殺し、間髪を入れず3千の兵で白鳥氏本拠谷地城に攻め込む。寒河江から柴橋頼綱も救援に駆けつけ、白鳥氏との連合軍2千の兵で当たらせるものの破られ、数日のうちに谷地城は落城した。時を移さず、義光が寒河江城攻撃の態勢を整え押し寄せると、柴橋頼綱は白鳥氏旧臣を糾合して最上川を越えて最上氏の陣に攻め込み、須川を越えて中野の出城、中野城まで到達した。
 義光は策を巡らせ偽りの退却と鉄砲隊の伏兵により頼綱は討ち取られた。その翌日、最上軍が寒河江に討ち入ると、寒河江氏家来衆は態勢を立て直す余裕もなく最上軍に下り、高基は貫見楯に逃れたものの、6月28日、3名(高屋・入間・溝谷)の忠臣と共に自害し果てた。又、弟隆広や家臣12名も貫見楯で自害している。

系譜 父 :吉川元綱  民部少輔 法名恵林院殿円智公大居士
   叔母:寒河江兼広の室
   叔母:白鳥長久の室
   正室:寒河江兼広の娘琴姫
家臣 柴橋頼綱:末弟 家老 別名橋間勘十郎
   小野家勝:弟に勝則、則道、全員合戦にて討死
   渡辺顕広:下目付
   羽川義久:柴橋頼綱に従い最上義光と戦い討死。兄は公平氏になる。
   入間勝則:高基と共に自害。
   松田彦次郎:高基没後菩提を弔う。
系図
  天童頼貞――天童頼澄――――娘
       |―最上義光室   |
  吉川政時――吉川元則―――吉川隆広
       |―白鳥長久室 |―柴橋頼綱
       |―貴志光英室 |―寒河江高基
       |――娘      |
         |       |
  寒河江広種―寒河江兼広――娘琴姫
         |
  白岩宗広―――娘
       |―白岩広隆

(2023年2月1日13:45配信)