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竹田 歴史講座

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2 江戸歩き(御茶ノ水・小石川・谷中・南千住界隈)

                 米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。



■江戸歩きの日程 2019年2月13日(水)~2月14日(木) 
 2月13日曇り/寒い一日:【中央線】御茶ノ水駅~湯島聖堂・昌平黌跡~神田明神~済生学舎跡~神田上水懸樋跡~御茶ノ水碑~大久保彦左衛門屋敷跡~小栗忠順生誕地~さいかち坂~小石川見附御門跡~小石川後楽園~伝通院~菊坂~麟祥院~切通し坂~湯島天神~千駄木(泊 サクラホテル)
 2月14日晴れ/暖かい一日:谷中銀座~日暮里⁄経王寺・本行寺~谷中/天王寺跡~谷中霊園/徳川慶喜墓・大原重徳墓・岸本辰夫墓~寛永寺/根本中堂・徳川綱吉廟・徳川家綱廟~鶯谷/陸奥宗光旧宅跡・子規庵~日暮里駅前【常磐線】南千住/回向院・延命寺・円通寺【荒川都電】~王子駅~王子/王子神社【京浜東北線】東京~米沢 
 
1【湯島聖堂】
 御茶ノ水駅に出て、右手に聖橋を渡ると湯島聖堂がある。冬枯れの木立の中に中国式建築の聖堂が立つ。周囲を築地塀で囲み、一段低い表門から上へ向かい階段を上ると重厚な佇まいをした本堂の広場に入る。何やら日本の中にいるようではない風情がある。寺院ではなく、あくまでも「学校」であり、江戸幕府の官立学校であった。あちこちで見る藩校のような雰囲気はない。ここに来るときに渡った聖橋の由来が橋の袂に記されていた。即ち聖橋とはこの湯島聖堂と神田川を挟んで南の向かい側にあるニコライ堂(ロシア正教)を結ぶ、共に聖なる建物を結ぶ橋という意味で名付けられたアーチ状の橋である。神田川に架かり、一幅の絵を見ているようである。
 徳川幕府5代将軍徳川綱吉は、それまで上野忍ヶ岡の林羅山(道春)邸にあった孔子廟を元禄4年(1691)にこの地に移した。孔子の開いた儒学は、徳川幕府の思想的支柱となるものであるから、孔子を祀る廟は重厚かつ広大に造られた。巨大な孔子廟を見上げながら、入徳門(じっとく)、杏壇門をくぐると、廟というより宮殿風の大成殿がある。そこには孔子廟を中心に顔子(がんし)・曽子(そうし)・思子(しし)・孟子の四賢像が安置されている。綱吉は聖堂の西に御成御殿や学寮をつくり、自らも講説も行った。学寮にはやがて宿舎も設けられて、昌平坂学問所(昌平黌)となり、各藩士や旗本の子弟の教育機関となる。

2【昌平黌】
photo-1 講義は林大学頭や儒官による常日講と、書生が行う仰高門日講があった。前者は大名や藩士のみに聴講が許されたのに対し、後者は現在の公開講座と同じように身分が問われることなく聴講が認められていた。今も湯島聖堂では中国古典などの興味深い講座が数多く開かれている。武士の学校の最高峰であった。学問所跡は現在は東京医科歯科大学湯島キャンパスになっている。(写真右=東京医科歯科大学前にある看板)

3【神田明神】
ph-2 正しくは神田神社という。神田とは伊勢大神宮へ奉納する神田があった事に由来する。神田は御戸代、御田ともいう。
 平将門を祀るこの神社は、大手町の将門塚の地に創建されたが、江戸城の拡張のさいの元和2年(1616)湯島台の現在地へ移る。朱塗の鳥居をくぐり本殿に詣で、千貫神輿を見上げると神田っ子の心意気が伝わる。(写真左=神田明神)

 神田明神といえば、明神下に住んだとされる銭形平次が思い浮かぶがその碑が本殿脇にこじんまりとして建っている。(写真右=神田明神にある銭形平次の碑)
ph-6 江戸3大祭りとは、まず神田祭り(神田神社)がある。江戸の将軍が上覧した江戸っ子が神輿を競い合う山王祭りと隔年で行われる。2年に1回、5月開催。次に山王祭り(日枝神社)は赤坂の日枝神社で行われる。天下祭りで王朝絵巻のような巡行が見どころ。日枝神社は徳川家康の産土神である。6月開催。最後に深川祭り(富岡八幡宮)を指す。別名水掛け祭りは、幕府の命で3年に1回、8月開催。

4【湯島天神】
 本郷のこの湯島台は、江戸城の艮(北東)の方角、即ち鬼門にあたるため、怨霊を祀って封じると考えられた。本郷とは一番早く人々が住み着いた場所という意味である。平将門の神田神社もそうであるし、菅原道真を祀る湯島天神こと湯島神社、さらに不遇の死をとげて怨霊が祟るとされた崇道天皇・井上皇后・橘逸勢(はやなり)ら八霊を祀った湯島御霊社もある。湯島御霊社は、神田神社の裏の蔵前橋通りをわたり急坂となる清水坂をのぼった所の左手奥にある湯島神社は清水坂をまっすぐにいくと、突き当りにある。
 清水坂の途中の右奥には、妻恋神社というロマンチックな名前の小さな神社がある。旧湯島天神前にあったが、明暦の大火に現在地に移った。今は学問の神様として受験生の参詣で賑わい、境内には泉鏡花の婦系図で知られる湯島の白梅が多くある。

5【済生学舎】
ph-3 案内板の説明には、明治9年(1876)本郷元町に長谷川泰により済生学舎が開設されたとある。長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主、佐藤尚中(たかなか)について学び、ついで西洋医学所頭取松本良順に学んだ。佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部前身)の初代校長として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。明治8年、長崎医学校校長に赴任するも、3ヶ月後に長崎医学校が廃止となり、帰京した。佐藤尚中の座右の銘、済生(広く民の病苦を救う)の志を継いで、済生学舎を創設した。(写真右=順天堂大学前にある看板)

6【順天堂】
 江戸時代後期の天保9年(1838)、下総佐倉藩主堀田正睦が招聘した佐藤泰然が江戸薬研掘に蘭方医学塾を開学。江戸から佐倉に移住、佐倉順天堂を開設し、病院兼蘭医学塾を行う。これが順天堂大学の起源である。佐藤泰然の後を継いだのが佐藤尚中である。佐藤泰然は川崎生まれ、天保元年、蘭方医を志し、高野長英らに師事。天保6年に長崎に留学し、天保9年江戸に帰る。佐倉順天堂の治療は当時最高水準を極めていた。

※参考 佐藤泰然の養嗣子は佐藤尚中、長女つるは林洞海に嫁す。松本良甫の養子になったのが次男の良順。初代陸軍軍医総監、孫の多津(洞海の長女)榎本武揚の妻、曾孫の赤松登志子はつるの孫で、森鴎外の最初の妻。
 堀田正睦(1810-1864):江戸時代末期の大名、老中首座。下総佐倉藩の5代藩主。正時の次男。正時が死去して藩主は正愛が継ぐ。その後、正愛の養子となる。正愛は病弱であったので、藩政を牛耳っていた老臣金井右膳らは正睦を嫌い、正愛の後見を務めていた堀田一族の長老堀田正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが藩内では物頭の渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対して対立、さらに正敦が養子を出すことを拒否したため、正睦が藩主に就いた。正睦は蘭学を奨励し佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどした。
 幕政に於いては文政12年(1829)に奏者番に任命された。天保5年には寺社奉行に就く。その後老中に任命された。幕末に於いては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。阿部正弘から老中首座を譲られた。この正睦の老中就任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかったことから反対し、島津斉彬は静観した。安政3年(1856)島津家から13代将軍家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名した。前の名は正篤である。安政5年(1858)米国総領事タウンゼントハリスが日米修交通商条約の調印を求めて来ると、上洛した孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、これに反対する攘夷派公卿らが廷臣88卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
 一方、同年、将軍家定が倒れ、その後継を巡り徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡り意見が合わず、従ってその子慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていた節がある。だが京都での勅許が得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に推挙すれば一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させ勅許が得られるのではないかと、一橋派に路線を変えた。ところが井伊直弼が大老に就くと井伊は正睦はじめ一橋派の排除を始めた。安政5年に正睦は松平忠固とともに登城停止処分にされた。これにより正睦は政治生命を断たれた。桜田門外の変後の文久2年、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となる。佐倉城で蟄居を余儀なくされた。正睦は1864年佐倉城で死去した。

7【御茶水坂】
ph-4 神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前にここにあった高林寺の境内に湧水があり、「お茶の水」として将軍に献上したことから、"お茶の水"の地名が起きた。この坂は神田川(仙台堀)に沿ってお茶の水の坂という意味で「お茶の水坂」と呼ばれるようになった。(写真右=お茶の水の碑)

8【神田上水懸樋跡】
ph-5 江戸時代、この辺りには江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていた。神田上水は江戸で最も早く整備された上水と言われる。(写真左=神田川川岸にある神田上水懸樋跡)
 徳川家康は江戸への入府に先立ち、家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596-1615)に神田上水の整備に着手する。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流した。上水は小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達する。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から懸樋で流した。上水は先は埋樋で供給された。供給範囲は南は京橋川、東は永代橋より大川以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までと言われる。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようである。懸樋は万治年間(1658-1661)に架け替えられたため、俗に万年樋とも呼ばれた。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たした。この樋は懸樋と呼ばれた。この懸樋の辺りは三国志に因み、「赤壁」とも呼ばれた。今も深い堀が水道橋方面から秋葉原の方向へと続き、当時を思い起こさせてくれる。

8【駿河台西】
 元和2年(1616)、徳川家康の死後、駿府の幕臣が江戸に呼ばれ、この地に屋敷を与えられたことに由来する説がある。他にも駿河大納言と呼ばれた家光の弟、忠長の屋敷があったことに由来する説、高台のこの地から駿河国の富士山が良く見えたことに由来する説、1960年代、御茶ノ水駅から本郷通り沿いに学生相手の店舗が多くあったこともあり、日本のカルチェラタンと呼ばれた。今では「明大通り」には楽器屋がひしめいている。特に弦楽器(ギター、バイオリン、チェロ等)とトランペットやサキソホンなどの店が立ち並ぶ。

9【大久保彦左衛門屋敷跡】
 明治大学向かいの刈込の中に、大久保彦左衛門屋敷跡の碑が立つ。大久保忠員の三男として1560年に誕生。徳川家康に仕え、1576年兄忠世とともに遠江平定戦に参戦、犬居城での戦いが初陣という。天正13年(1585)の第一次上田城の戦いで全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。(写真右=御茶ノ水駿河台にある大久保彦左衛門屋敷跡)
 兄忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の後見をつとめていたが、天正13年に石川数正出奔を受けて忠教が康国の小諸城に入り真田氏に備えた。天正18年小田原征伐の後、主君家康が江戸に移封され、兄忠世、その子忠隣が小田原城主に任じられた。次兄の忠佐は沼津城主になり2万石を領していたが子が早世したので、弟の忠教を養子として跡を継がせようとしたがこれを固辞した。本家の忠隣が江戸幕府内の政争に敗れ失脚、改易となると、これに連座して忠教も一時改易された。家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領した。
ph-7 1614年の大阪冬の陣にも従軍した。3代将軍家光の代に旗奉行となった。1639年死去。大久保氏は北関東の宇都宮氏の支流とも言われる。泰藤のとき三河国上和田に住したという。のちに宇津氏に改姓した。松平信光が岩津に居城を設けたときに臣属した。忠茂のとき、松平清康の山中城攻めに軍功をあげ、民政にも手腕を発揮した。その子忠俊は清康・広忠に仕え武勇で知られた。越前の大窪藤五郎が三河に来て自分の苗字を残すべき人は忠俊しかいないとして、忠俊は大窪となり後に大久保と改めた。

10【小栗上野介忠順生誕地(屋敷跡)】
ph-8 明治大学本校、リバテータワー向かいのビルの一角に案内板が建っている。向かいの道は2・26事件でも登場する「山の上ホテル」に行く道である。(写真左=駿河台の小栗忠順生誕地)
 小栗は1827年に直参旗本の息子としてこの地に生まれた。小栗忠順は、日米修交通商条約批准書交換の為に、1860年、ポーハタン号に乗り込んで77名の遣米使節団の一員としてアメリカに渡った。この時の護衛船が咸臨丸で勝海舟も乗っていた。この際に、アメリカのフィラデルフィアで貨幣の交換比率について外国人相手に毅然とした態度でやり取りをし、ノーと言った最初の日本人として傑出した才能を見せた。そのまま世界一周をして見識を広めた。外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を歴任。時代の先端を目に持つ小栗は横須賀にドッグを造った。しかし大政奉還後、群馬県で隠居生活をしていた小栗忠順は新政府軍に捕らわれ何の罪もなく斬首された。同じ時にアメリカを見聞し、小栗と勝は全然違う路線を志向した。小栗は幕府を増強し再興する方向、勝は幕府を解体し新政府を創る方向、同じものを見てこうも真逆のデザインをすることも珍しい。後年、明治の海軍大将東郷八郎は横須賀に製鉄所と造船所を造った小栗について、日本海海戦に勝てたのは小栗のお蔭だと感謝したと言われる。真の偉人は死して後に真価が見直される。小栗が生きていればもう少し違う世界ができていたかもしれない。

11【男坂女坂】
 この辺は坂道だらけだ。駿河台2丁目11番地の端から猿楽町に下る石段の坂女坂に対して急な坂を男坂と呼称。女坂はこれに平行して緩やかな坂を言う。男坂の下り口に明大猿楽町校舎がある。学生時代、ここは知らずにいた。男坂は石段を真っ直ぐ下り、右に折れて更に真っ直ぐ下りる。かなり急だ。かつてあった神田山の急な斜面が想像できる。御茶ノ水から神保町付近の白山通りにショートカットできる地の利がある。運動にもいいかもしれない。 
 
12【梍坂】
 さいかち坂という。新撰東京名所図会には「駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて三崎町の方に下る坂なり」と書かれている。昔、さいかちの樹が多くある故に坂の名とすと。さいかちは野山に生える落葉高木で枝にとげが多く、葉は羽状形で花も実も豆に似ている。脇を中央線が走り、水道橋が目の前に見えてくる。中央線の電車がひっきりなしに走るのを間近かで見られる風景がいい。
        
13【小石川見附門跡】
ph-9 小石川門は寛永13年(1636)備前岡山藩主の池田光政が築いた。(写真左=小石川見附門跡)
 寛政4年(1792)に渡櫓門が焼失したが、2度と再建は許されない決まりであった。この門は水戸様御門とも呼ばれ、神田川に架けられた小石川橋外には徳川水戸家の藩主光圀の上屋敷(8万坪)があった。神田川を挟んで小石川門内には光圀の兄、頼重の上屋敷があった。見附門内の一帯は讃岐高松藩の松平家の中・上屋敷であった。高松藩祖の頼重は初代水戸藩主頼房の長男で本来なら水戸藩主であったが、父の頼房が二人の兄(尾張家、紀州家)より先に世継の頼重をもうけたことに遠慮して、弟の光圀に2代目藩主の座を譲った。光圀は兄頼重の長男を養子に迎え、徳川水戸家3代藩主とした。明治36年に飯田町堀留まで埋立部分の水路が再び堀削され、小石川橋が神田川と日本橋川の合流地点となる。
 明治4年(1871)明治新政府は水戸家上屋敷の庭園を除く跡地に、小銃を主体とした兵器製造工場や砲兵工科学校を設立した。東京砲兵工廠という。関東大震災でこれら建物は破壊され他所へ移されている。神田川から丁字で新川、日本橋川が開削された。この川は日本橋方面へ流れ、霊巌島から隅田川へ注ぐ。この丁字の一角に、昔の小石川見附門の名残りだろうか古い石がごろごろしている三角地がある。明治になり取り壊されて他に転用されたのであろう。この新川を少し下るとかつてあった甲武鉄道の始点がある。現在の中央線の前身である。文字通り甲斐と武蔵を繋ぐ鉄道である。
        
※参考 甲武鉄道とは?
 明治22年(1889)4月11日、後に中央線となる甲武鉄道が内藤新宿駅と立川駅間の27キロで開通した。明治27年に新宿から市街線として飯田橋駅まで伸ばした。明治36年6月、新宿・甲府間が一本の線でつながる。この鉄道を中央線と命名した。車両は英国から輸入したウイルソン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・タンク蒸気機関車である。マッチ箱の箱型客車を引いている。新宿から立川まで1時間であり、明治37年には電車化なる。 
   
15【小石川後楽園】
ph-10 小石川橋の信号を北に進むと、後楽園の東門に着く。それを左に後楽緑道と呼ぶ道を園沿いに行くと、後楽園の正門がある。更に北へ抜ける。江戸城の石垣を再利用した築地塀を右手に身ながら進む。つまり後楽園を南縁から西縁を進む半周コースである。庭園内では梅が咲き始めているらしい。ここは旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後楽園で、廻遊式築山、山水庭園である。(写真左=小石川後楽園)
 江戸時代初め、徳川御三家の一つである水戸家の祖徳川頼房は、寛永6年(1629)3代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。2代目藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国明の遺臣で我国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。後楽園は光圀が舜水に命じて選んだものである。岡山の後楽園と区別するため小石川後楽園という。東京のオアシスと言ってもいいかもしれない。傍らに東京ドームや高層ホテル、遊園地ができていて現代では喧騒と静寂が同存する独特の地区である。

※参考 水戸家とは?
 徳川家康の11男頼房を家祖とする。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをしいて、公称は35万石であった。徳川宗家が征夷大将軍を表すため、三葉を表にした表葵御紋であったのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋である。その為、正式には御三家ではなかったとする説がある。頼房が徳川姓を許されるのは1636年、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、ある時期まで、紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。水戸家は家格の点でも、徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは、徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。尾張家・紀州家が大納言だが水戸家は権中納言であった。水戸家の領地は江戸に近く、水戸家当主は参勤交代の対象外であり、江戸定府とされ、基本的には国許に帰国することは稀であった。"御三家であっても水戸家から将軍は出さない定めもあった由"、水戸家は親藩の御三家であると同時に、水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇なく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。
       
16【萩の舎】
 安藤坂を東側の歩道を上って行くと歩道にプレートが埋め込んである。「萩の舎」という耳慣れないものである。明治10年前後に設立された安藤坂にあった中島歌子の歌塾。華族や中流以上の士族の夫人や令嬢が学んでいた。明治19年の頃、樋口一葉もこの「萩の舎」で学んでいた。一葉一家はその頃菊坂下道の借家にすんでいたが貧乏だったので、一葉は「萩の舎」で住み込み女中をしながら勉強していようである。

17【安藤坂】
 坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩家老)の上屋敷があることから、よばれた。伝通院へと真っ直ぐ続いているので町人地も多く伝通院の参道として発展していったことが伺える。

18【伝通院】
ph-11 小石川後楽園から北へ安藤坂を上ると伝通院に至る。伝通院は正式には無量山寿経寺という。(写真右=小石川伝通院)

 慶長7年(1602)、徳川家康の生母於大の方(水野氏)が75歳で死去したため、ここを菩提寺と定めて法号の伝通院殿から、伝通院と呼ばれるようになり、徳川将軍家の崇敬が厚かった。この伝通院の開山は浄土宗第7世了誉聖冏(しょうげい)で、浄土宗関東18檀林の一つであった。学寮、寄宿舎などが設けられ、常時1千人の学僧が修行に励む場として芝の増上寺に次ぐ重要檀林であった。表門を入ると右手に仏足石や古泉千樫や水町京子の歌碑が立ち、墓地には於大の方、2代将軍秀忠の長女で数奇な運命をたどった千姫、3代将軍家光の御台所孝子など徳川家ゆかりの女性の墓がある。その他、幕末の尊攘派の公卿沢宣嘉、志士清河八郎夫妻、教育家杉浦重剛、歌人古泉千樫、詩人作家の佐藤春夫、小説家柴田錬三郎、画家橋本明治らの墓がある。

※参考 伝通院内にある墓の説明
ph-12《於大》家康公の生母である於大の方は、享禄元年(1528)三河刈屋で生まれた。父は刈屋城主水野忠政、生母はのちに家康公の祖父である松平清康の室となる。於富の方(華陽院)で7男8女の2女である。(写真左=お大の墓)

 天文10年(1541)14歳になった於大の方は岡崎城主松平広忠に嫁いだ。広忠は16歳であった。天文12年(1543)7月、父水野忠政が没すると於大の方の兄である信元が、今川義元から織田信秀に寝返ったからである。広忠は於大の方を今川の恩に報いるため、於大の方を離縁する。刈屋に戻った於大の方は、阿久比城主久松俊勝に嫁いだ。於大の方は俊勝の間に3男4女をもうけた。その頃、竹千代が織田氏の人質として尾張に抑留されていることを知った於大の方は、俊勝の家臣に命じて竹千代のもとに四季折々の衣服、珍しい食べ物などを差し入れたという。これは2年後には竹千代は今度は駿府に送られてからも続いたという。
 元康と名乗る家康と対面したのは、永禄3年(1560)5月17日のことで、家康19歳、於大の方33歳の時であった。上洛する今川軍の先鋒として1日早く知立に着陣した家康が、阿久比を訪ねたからである。16年ぶりの再会であった。於大の方が家康の招きで久松康元(俊勝の嫡男)、孫の定行(3男定勝の息子)に付き添われて上洛したのは慶長7年(1602)2月の事である。家康は縁の薄かった生母に親孝行したかったためといわれる。家康は事実上の天下人になった後には、於大の方が再婚しているにも関わらず、全く実家の者として迎え入れている。
 入京した於大の方は内大臣徳川家康の生母として5月15日、京都の高台院を訪ねて豊国社にも詣でている。秋になり俄かに病にかかり、8月28日、伏見城内で没した。75歳であった。葬儀は京の知恩院で行われた。その後家康は於大の方を江戸小石川の傳通院に葬った。法名は傳通院。岡崎市中町の大泉寺には於大の方の遺髪を埋めた墓がある。「傳通院殿蓉譽光岳智春大禅定尼」伝通院の墓地でも一際大きくて目立つ五輪塔の墓石である。 
           
ph-13《千姫》千姫は徳川2代将軍秀忠の長女で、母は織田信長の妹お市の方の娘、お江(ごう)。3代将軍家光は千姫の実弟。祖母や母と同様に波乱に満ちた生涯を送った。本多忠刻と死別後は落飾して天樹院と号した。千姫の血を引く子は勝姫一人。勝姫は備前岡山藩初代藩主池田光政の正室。(写真右=千姫の墓)
 慶長2年(1597)伏見城内の徳川屋敷に秀忠・お江の長女として誕生。豊臣秀吉は嫡子秀頼の将来に心を砕いていた。そこで千姫を秀頼の正室に迎えることで徳川の全面支援を得ようと考える。慶長3年、2歳の千姫が6歳の秀頼と婚約の儀を行う運びとなる。その直後秀吉は伏見城で死去した。関ケ原の戦いで勝利した家康は、その時点ではまだ豊臣の処遇を決めていない。大坂城(淀君、秀頼)には「石田三成の謀叛」と報告している。
 慶長8年2月には家康は征夷大将軍の称号を得て実質的権力を掌握するが、豊臣恩顧の大名の勢力侮りがたく、7月に7歳の千姫を秀頼に輿入れさせる。千姫と秀頼は仲睦まじく大坂城で暮していたようである。子供はない。慶長10年に家康は三男秀忠に征夷大将軍を譲る。これは秀頼に権力が移譲されないことを意味する。家康は豊臣家を潰すための算段を尽くし始め、遂に大坂冬の陣、夏の陣に至る。秀頼・淀君は自害し豊臣宗家は滅亡する。千姫は家康の命で落城する大坂城から救出された。
 豊臣家の滅亡は千姫19歳の折、家康の命か、千姫は豊臣家との縁を断つ為に満徳寺(群馬県太田市尾島)に入山して尼僧となる。実際には形式的一時入山で侍女が名代として住職を務め生涯を終える。ここで千姫は豊臣家との離縁を表明したことになる。
 翌元和2年4月に家康が没するが、9月には千姫は桑名藩主本多忠政の嫡男忠刻の元へと再嫁する。その輿入れの行列を襲う計画が露見して自害したのが津和野藩主坂崎直盛で千姫事件という。岡山城の初代城主は宇喜多秀家で、直盛は秀家の従兄弟で岡山の出身。大坂の陣の功で家康から津和野を与えられた。その際に宇喜多から坂崎に改姓していた。直盛は大坂の陣で千姫を秀忠の元に届け出た。その勲功として千姫を嫁に貰える約束ができていたとも言われるが、直盛の武士の面目によるものであった。
 千姫は本多忠刻とも仲むつまじい生活を送っている。翌元和3年、幕府は姫路城の新城主池田光政に対して幼少を理由に鳥取藩に移封を命じ、姫路城の播磨52万石を細分化して播磨姫路15万石を本多忠政に与えた。また忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石をあたえた。実際には忠刻は姫路城部屋住みの身なので忠刻・千姫の新居として城内に武蔵野御殿が設けられ、西の丸を整備して化粧櫓が建てられた。忠刻と千姫の間には元和4年に長女勝姫が、元和5年には長男幸千代が生まれた。
 千姫は領民から播磨姫君と称され、敬愛されていた。しかし、その後の千姫は妊娠するものの流産を繰り返し子供ができない。元和7年には幸千代が3歳で早世する。寛永3年5月に夫忠刻が突然死去。6月に義母(忠刻の母)熊姫が死去。9月には千姫の母崇源院が死去。千姫30歳。この年、千姫は江戸に帰る決意をし、勝姫を連れて姫路を発った。千姫は落飾して天樹院と号し竹橋御殿にて勝姫と共に暮らす。11歳の勝姫は池田光政の元に嫁ぐ。光政はその後備前に移封となる。池田氏宗家岡山藩初代藩主になっている。寛永15年、岡山池田家江戸藩邸で勝姫が光政の嫡男綱政を生んだ。
 将軍家光の側室御夏の方が家光の子を孕んだ。城外にある千姫の館で産ませ、千姫を養母にすることになった。正保元年(1644)竹橋御殿で家光の三男綱重が生まれた。千姫48歳、綱重10歳である。綱重は甲府浜屋敷を与えられているが、綱重を養育する千姫は江戸城大奥に大きな権力を持つようになった。綱重誕生は春日局逝去の翌年。この後、千姫が力を持ち始めた。千姫は北之丸様とよばれている。千姫は61歳の還暦を迎えた明暦3年(1657)、明暦の大火で竹橋御殿は焼失する。寛文6年(1666)数奇な生涯を送る。70歳。法名は、天樹院殿栄譽源法松山禅定尼、分骨は京都知恩院。 

ph-14《孝子》鷹司孝子は、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室。父は鷹司信房、母は佐々成政の娘輝子、5代将軍徳川綱吉の正室鷹司信子は兄信尚の孫である。
(写真左=鷹司孝子の墓)
 元和9年(1623)8月、家光が征夷大将軍宣下を受けるための上洛中に江戸へ下り、徳川秀忠継室のお江の猶子となる。12月に輿入れ、翌寛永元年(1624)には祝言が行われ本丸入りをする。翌年に正式に婚礼し御台所となる。慶安4年(1651)の家光の没後、落飾して本理院と号する。寛文4年(1664)に上洛し後水尾上皇に拝謁する。延宝2年(1674)に死去。73歳。法名は本理院殿照誉円光徹心大姉。
 家光との仲は結婚当初から非常に険悪で実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後程なくして事実上家光から離縁された。大奥から追放されて称号を御台所から中の丸様と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で長期にわたる軟禁生活を送らされるなど家光の在世中は終始忌み嫌われ冷遇され続け、家光との間に子供はもうけなかった。家光が死去する際、形見分けとして孝子へ与えられたのは金わずか50両と幾つかの道具類のみであった。

《亀松》亀松は徳川家光の二男。5歳で夭逝している。
     家光の家族を下記にまとめてみる。
      ・正室:鷹司孝子  本理院
      ・側室:振 自性院 長女千代姫(霊仙院 徳川光友室)
      ・側室:楽 宝樹院 長男家綱 (4代将軍)
      ・側室:まさ    二男亀松 (夭逝)
      ・側室:夏 順性院 三男綱重 (甲府藩主)
      ・側室:玉 桂昌院 四男綱吉 (館林藩主 5代将軍)
      ・側室:里佐定光院 五男鶴松 (夭逝)
      ・側室:万 永光院
      ・側室:琴 芳心院
       ・養女 亀鶴姫 洪妙院 前田利常女(母は姉の珠姫) 森忠広室
           鶴姫  廉貞院 松平忠直女(母は姉の天崇院)九条道房室
           満姫  自昌院 前田利常女(母は姉の珠姫) 浅野光晟室
           大姫  清泰院 徳川頼房女         前田光高室
           通姫  靖厳院 池田光政女(母は姪の円盛院)一条教輔室
       ・猶子 尊光法親王 後水尾天皇第25皇子
           三男綱重は甲府藩主、四男綱吉は館林藩主となり、御両典という。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相、館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、綱重の子綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは家綱に対する控えの存在としての意味合いを含む。

《於奈津》父親は伊勢北畠氏の旧臣であった長谷川藤道。兄の藤広が家康公に仕えていた関係で、慶長2年に17歳で召し出され、家康公の寵愛を受けた。又、藤広とともに外国貿易にも関与している。そんな於奈津の方は同じく金銭感覚に長けていた於梶の方とともに家康公から駿府城の金銭の出入を任され、勘定奉行の役割を担い、400万両をしまった金蔵の鍵も預けられもした。於梶の方と於奈津の方は駿府城での乱費を防ぎ、家康公の期待に大いに応えたという。家康公没後、落飾して清雲院と称し、江戸城三の丸に住み、賄料500石を与えられている。又明暦元年(1655)幕府の内意により一族の三郎左衛門藤該を養子として一家を創立している。於奈津の方は80歳で没した。4代将軍家綱の時代となっていて一人残った家康公の側室ということで晩年はたいそう大事にされたという。法名は清雲院殿心譽光質大禅定尼。
   
ph-15《清河八郎》幕末の尊攘派志士、庄内藩領清川村の郷士。1830年、庄内一の造酒屋斎藤治兵衛の長男として生まれる。(写真右=清川八郎の墓)
 18歳で江戸に出る。江戸古学派の東條一堂に師事する。昌平坂学問所を志し当時最高学府の安積艮斎塾に移る。そこで昌平坂学問所に入学するもこれに失望し、江戸神田三河町に清河塾を開いた。剣は1851年に千葉周作の玄武館に入門。1860年に免許を得る。八郎が志士として活動を開始するのは、1860年、桜田門外の変後である。その少し前、「虎尾の会」を結成する。メンバーは鉄舟、益満らで、目的は「尊王攘夷」、外国人を日本から追払い、天皇を中心に日本を一つにまとめて事にあたるというもの。虎尾の会のメンバー、益満らが米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺、八郎の清河塾は幕府に監視される。  
 1861年幕府の罠に嵌り、幕府の手先を無礼斬りして八郎は追われる身となる。妻お蓮らが連座して投獄される。虎尾の会は分散する。そして八郎の逃亡生活が始まる。文久2年(1862)将軍家茂の上洛の護衛と偽り浪士組を結成、京に着くや新徳寺にて組員に真の目的は将軍警固ではなく、尊皇の先鋒であると告げる。組員は江戸に戻る組と京に残留し将軍警固につくものとに分かれる。残留組は後で新選組となり芹沢鴨、近藤勇の二人を首魁とした。そして文久3年4月、麻布赤羽橋で幕府の刺客、佐々木只三郎らに暗殺された。首は石坂周造が取戻し山岡鉄舟の妻が保管し、傳通院に葬った後、遺族に渡したという。墓は伝通院にあり、幕府は浪士組を新徴組と改称し、荘内藩預かりとした。尚、墓は故郷庄内の清川村歓喜寺にもある。伝通院の清河の墓は、八郎・斎藤家・お蓮の3塔である。          
 傳通院は想像していた通りの寺院であった。徳川家にゆかりのある人達の墓が、それも大きな五輪塔が林立している。その中で於大の墓が群を抜いて高い。不思議なのが、真ん中から上は宝篋印塔の様式で、相輪(宝珠・九輪)・笠(隅飾)がある。しかも笠の中の隅飾の部分が外に反りかえっている。時代が江戸期を物語る。下が五輪塔の様式である。こういう形は初めて見た。黒く変色し歴史の重みを感じる。次に立派なのが千姫の墓である。於大と同じ様式だ。続いて家光正室の孝子墓等、徳川将軍家や徳川御三家ゆかりの人達の墓群が目をひく。並びに文化人などもある。佐藤春夫(詩人)、柴田錬三郎(作家)、古泉千堅(歌人)、高畠達四郎(洋画家)、橋本明治(日本画家)、杉浦重剛(教育家)、藤井紋大夫(水戸藩士)、沢宣嘉(公家、七卿落ちの一人)等と枚挙にいとまがない。東京の寺院は普通に歴史上の人物が眠っている。これが凄い。

19【菊坂界隈】
 本郷通りと春日通りとが交わる「本郷3丁目」交差点から本郷通りを北へ数十メートル進むと、菊坂と呼ばれる坂道が北西の方角へ向って延びている。本郷4丁目と本郷5丁目の境を辿って緩やかに下り、やがて言問通りとの「菊坂下」交差点へと至る。距離にして700mほどか。菊坂の案内板には「この辺り一円に菊畑あり菊を作る人が多くいたので、ここを菊坂という 坂上の方を菊坂台町、坂下の方菊坂町という。」又、「元禄9年に町屋が開かれ、その後町奉行の支配となった。町内には振袖火事の火元、本妙寺があった。」と書かれていた。

ph-16 菊坂は車両の通行も可能な道路だが交通量はあまり多くない。庶民的な佇まいの個人商店が軒を並べる、のんびりとして穏やかな佇まいの通りだ。周辺は基本的に住宅街で、古い建物が数多く残る。菊坂下道沿いに樋口一葉旧居がある。一葉が菊坂に転居してきたのは1890年。一葉が18歳の時、前年に父親が死去、長兄の泉太郎もすでに死去し、次兄の虎之助は勘当された身で、一葉は戸主として母親と妹を支えていかなくてはならない身だった。生活は苦しく、近くの質屋に通う日々が続いたという。(写真左=樋口一葉ゆかりの質屋 旧伊勢屋)
 その中で一葉は小説家を志した。生活を少しでも楽にするために、下谷で雑貨店を開業するも間もなく店を引払う。一葉は肺結核を病んでおり1896年、24歳の若さでこの世を去る。苦労の連続の最中、よく歴史に残るような小説を書けるものとあらためて思う。「幸せ」なんて一葉にあったのだろうかと思ってしまう。
 旧伊勢屋質店がある。菊坂上道沿いにあり樋口一葉が通ったという質店である。この質屋は万延元年にこの地で創業している。一葉が死去したとき、伊勢屋の主人が香典を持って弔った。昭和のレトロのような建物で何やら懐かしい。黒く煤けているみたいだ。とにかく様々な文化人が住んでいたようである。
 街路灯にはこの辺に住んでいた文化人の案内板が取り付けられている。俳人、正岡子規も住んでいた。慶応3年から明治3年まで、松山藩寄宿舎常盤舎坪内逍遥のもとに寄宿している。大衆小説家、直木三十五もいた。明治24年から昭和9年まで住んでいた。菊富士ホテルに止宿している。直木賞のゆかりの作家である。社会運動家、大杉栄も住んでいた。明治18年から大正15年である。大杉は足尾鉱山の鉱毒事件をきっかけに社会主義運動に参加する。逮捕されることも数多く、女性関係も派手であった。大震災後の混乱の中で甘粕憲兵大尉に虐殺された。

20【麟祥院】
ph-17 春日局の法名である麟祥院殿仁淵了義から付けられた寺名で、春日局の菩提寺。墓は穴が貫かれて、天に向かい屹立している。(写真左=湯島にある麟祥院)
 この墓の隣りに春日局にゆかりのある稲葉家の墓もある。春日局は主君織田信長を討って逆臣と言われた明智光秀の重臣斎藤利三の娘である。長じて小早川秀秋の家老稲葉正成の妻となった。稲葉正成は関ヶ原合戦では家康に通じて、主君秀秋を寝返らせた。家康は何故か正成の離縁していた妻に目をつけて、孫の家光の乳母として採用した。そのため正成も後に登用され、子の正勝は老中にまで出世している。外様の稲葉家の栄達には春日局の威光があったが、実のところ逆臣の重臣の娘が何故家康に目をかけられたのか分かっていない。江戸城大奥において春日局の権力は絶大であり、家光も実の母のように局を慕っていたという。家光は将軍となると、すぐにこの地を隠棲所として春日局に与えた。寛永20年(1643)局が65歳で没すると、この地はその菩提寺とされた。

ph-18 春日局の墓前に立つと四方に突れた穴の不思議さが感じられる。死後も政道を正しく見守るという意味なのか。又は江戸城に住む家光とその北東にある日光東照宮に祀られた家康の霊をつなぐものとして、自らの墓石に穴を開けたのか。春日局の墓の左隣りに稲葉正則の正室万菊の墓あり、万菊といい毛利秀元の娘である。(写真右=春日局の墓)

 稲葉正則は小田原藩2代藩主で、初代稲葉正勝の次男である。老中となり家綱の政治を担う。毛利秀元は長府藩初代藩主。父は毛利元就の四男、穂井田元清で、長く子に恵まれなかった輝元の養子となる。養父輝元に実子秀就が生まれると世子を辞退した。関ヶ原では南宮山に吉川広家と布陣する。墓域に入り、春日局の墓の手前に、佐倉藩堀田家の墓がある。稲葉正則の娘で、堀田正俊の正室になった人の墓である。堀田正俊は正盛の三男、家光の上意で稲葉正則の娘と結婚した。4代将軍家綱の死去に伴い、将軍後継人事で酒井忠清を退けて館林宰相の家綱の弟(綱重の弟)綱吉を将軍位につける。このことで綱吉の覚え目出度く出世をとげ老中となる。権勢を誇った忠清に代わり大老になる。だが綱吉との間に疎が生じてゆく。1684年、稲葉正休に江戸城内で刺殺された。51歳。稲葉正休の従甥が堀田正俊であり、淀川の治水工事から外された恨みからとも、綱吉の関与も言われた。良通、一鉄は西美濃三人衆の一人で、安藤守就、氏家直元卜全と稲葉家に仕え織田信長の配下になる

21【谷中銀座】昭和の匂いがする。東京は近未来的な先進的町があるかと思えば、ここのように前時代的な、昭和時代に戻った気がする。何故か懐かしい、子供の頃にはしゃいだ昭和の町並みと通りが目前にある。東京は様々な顔を見せてくれる。谷中は江戸も感じられる街である。

22【経王寺】案内によれば、「日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣りには大黒堂があり日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広く集めている。慶応4年(18689)の上野戦争のとき敗走した彰義隊をかくまったため、新政府軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残る」
 山門の扉を中心に小さな穴が幾つかある。来寺者が指を入れるので穴の口径が広がっているという。新政府軍はわざと根岸方面を開けておいて、彰義隊兵の逃げ道をつくっておいた。全部封鎖すると、死にもの狂いで抗戦する為である。余裕の無くなっていた幕軍は敗けが分かると根岸方面から三河島方面へと逃亡した。

23【本行寺】案内によれば、「大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)現在地に移転した。景勝の地であったことから通称月見寺とも呼ばれていた。20世の日桓上人は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、句を詠んでいる。儒学者市河寛斎、書家米庵父子、幕末、維新期に活躍した永井尚志の墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)の道灌丘碑のみ残る。

※参考 永井尚志(なおゆき)は江戸幕府の若年寄。大給松平家の出で、1854年長崎海軍伝習所を統括する。勝や榎本らと知己になる。江戸築地の軍艦操練所総督。幕臣に拘らず有能な人材を育てようとした。勘定奉行、外国奉行に、通商条約締結後、条約批准の為幕府の副使として渡米、将軍後継で一橋慶喜を推したので反対派の井伊大老に冷遇され左遷され蟄居処分になる。桜田門外の変の後、京都町奉行に就く。幕府始まって以来の旗本の若年寄になる。慶喜から信頼されていた。76歳で没。竜馬暗殺の黒幕とも噂された。

24【天王寺跡】
ph-19 谷中の天王寺はもと日蓮宗・長輝山感応寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長輝に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。最初の五重塔は、寛永21年に建立されたが、明和9年(1772)目黒行人坂の大火で焼失した。寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとして知られている。総欅造りで高さ34m、は関東で一番高い塔であった。明治41年東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていた。昭和32年7月6日放火により焼失した。残る礎石は花崗岩である。中央園路を挟んで向かいに男優の長谷川一夫の墓があった。(写真左=天王子五重塔跡)

25【谷中霊園】
ph-20 かつては感応寺(現、天王寺)ぼ寺域の一部であり、中央園路は感応寺の参道であった。江戸期にはこの感応寺で富くじが行われ、「江戸の三富」として大いに客を呼んだ。この客を当て込んで茶屋が参道に立ち並び、現在でもその名残から墓地関係者は中央園路にある花屋のことを「お茶屋」と呼んでいる。谷中墓地と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。谷中霊園は桜の名所としても親しまれている。中央園路は通称「さくら通り」とも呼ばれる。明治維新後、政府は神仏分離政策を進め、神式による葬儀も増えた。しかし墓地の多くは寺院の所有であったため埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要にせまられていた。1874年に明治政府は天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設した。1935年に谷中霊園と改称された。谷中霊園に埋葬されるいる人は、下記の人たちである。(写真右=谷中墓地)

《大原重徳》権中納言大原重尹の五男重徳(しげとみ)。1809年に光格天皇の侍童となり、文化12年(1815)に宮中に昇り、孝明天皇に重用される。文化5年(1858)には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて、老中堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられる。文久2年(1862)薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のため上洛すると、赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。江戸では薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜を将軍後見職、前福井藩主松平春嶽を政事総裁職に任命することと両名の幕政参加を老中の板倉勝静、脇坂安宅らに迫りこれをのませた。文久の改革という。京都に戻ると国事御用掛などを務める。翌年には同じく朝廷に献策していた
長州藩の薩摩藩を批判する内容の勅書を改鼠すると罪を問われて辞職する。元治元年に赦免され、慶応2年には親幕派の中川宮や二条斉敬らの追放を試みるが失敗して幽門させられる。1879年没 79歳。 

ph-21《徳川慶喜》墓前の説明板には、「徳川慶喜(1837-1913)は水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐した。慶応2年(1866)第15代将軍職を継いだが、翌年大政奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明渡した。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となった。駿府に隠棲し余生を過ごしたが、明治31年には大政奉還以来30年振りに明治天皇に謁見している。明治35年には公爵を受爵。徳川宗家とは別に徳川慶喜家の創設を許され、貴族院議員にも就任している。大正2年(1913)11月22日に77歳で没した。」
 お墓は奥方と並んである。徳川宗家の墓は日光、寛永寺、増上寺にあるが、慶喜は幕府を潰したということもあり、この正式菩提寺への埋葬を遠慮したのであろう。1代・3代は日光、2代・4代・6代・7代・12代・14代は増上寺、残りの5代・8代・9代・10代・11代・13代が寛永寺である。(写真左=徳川慶喜の墓)

ph-22《岸本辰夫》明治大学の創設者。因幡国鳥取藩士作事方吟味役岸本平次郎尚義の三男として1851年に生まれる。戊辰戦争に従軍後、1869年に箕作塾に入門、1870年貢進生として藩の推薦を受け、大学南校に入学。1872年新設の司法省明法寮に第一期生として入学、ボアソナードらにフランス法を学び1876年卒業。同年選ばれて宮城浩蔵らとともにフランスに留学。パリ法科大学でフランス法律学士の学位を取得。1880年に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師、太政官御用掛など判事のかたわら、1881年1月17日、有楽町数寄屋橋の旧島原藩上屋敷旧邸に於いて宮城浩蔵、矢代操らとともに明治法律学校を創設、初代校長となる。岸本は法学全般に通じていたが、宮城が刑事法を担当した。矢代は民事法を分担。権利自由―独立自治の建学理念を生み、明治大学の発展の礎を築く。1912年、明治大学に向う途中、腦溢血で倒れ死去。明治大学卒の小生にとり、3人の創立者の内の一人である。岸本辰夫の他に宮城浩蔵、矢代操がいる。宮城は天童出身である。まさか徳川慶喜の墓の前に岸本辰夫の墓があろうとは想像もしていなかった。(写真左=明治大学創設者 岸本辰雄の墓)

26【寛永寺/根本中堂】
 寛永寺はもともと現在の上野公園全域を含む役30万坪の広大な寺域を誇り、根本中堂は現在の噴水公園あたりに建っていた。慶応4年の上野戦争で多くの伽藍とともに焼失し、広大な境内地も明治政府により没収された。ようやく復興が許され、子院だった大慈院の跡地に根本中堂が再建された。根本中堂内には本尊が薬師如来で、脇侍として右に日光菩薩、左に月光菩薩が置かれている。隅には持国天・増長天・広目天・多聞天が置かれて本尊を守る。15代将軍徳川慶喜が戊辰戦争の江戸城無血開城までの2ヶ月間蟄居謹慎していた大慈院の部屋、葵の間は根本中堂の裏手に保存されている。創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺であったが菩提寺ではなかった。寛永寺にある徳川将軍家霊廟は2ヶ所あり、巌有院殿(4代家綱)と常憲院殿(5代綱吉)の霊廟があったが、倹約家の8代吉宗は享保5年(1720)御霊屋建立禁止令を出し、以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か零牌所が建立されるようになった。
    
《寛永寺/5代将軍徳川綱吉廟》
ph-23 綱吉は3代将軍家光の四男で、母はお玉桂昌院。正室は鷹司信子(淨光院)。長兄の家綱に跡継ぎとなる男子がなく、三兄もすでになく5代将軍の宣下を受ける。1709年に死去。63歳 綱吉ははじめ善政を行い、天和の治と讃えられたが、生類憐みの令で犬公方としても有名。又忠臣蔵での綱吉の評価を実際以上に低めているともいわれる。法名は常憲院という。宝塔は青銅製、勅額門がある。
 勅額門案内板には「元禄11年(1698)9月、綱吉により竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又それに伴い先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。綱吉の霊廟は宝永6年11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じても最も整ったものの一つであった。第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎はその廟所とともにこれらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破付、銅瓦葺」と書かれてある。(写真=徳川綱吉の墓 勅額門 常憲院)

《寛永寺/4代将軍徳川家綱廟》
ph-24 4代将軍家綱は慶安4年(1651)4月に、父家光の死によってわずか10歳で将軍の座につき延宝8年(1680)39歳で没した。法名を有巌院という。病気がちであった家綱時代の政務は、重臣の手に任されていたが、特に後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起きた由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。家綱の霊廟厳有門は後代の綱吉と同じものであり、様式も同じである。(写真右=徳川家綱の墓 厳有門)

《8代将軍徳川吉宗有徳院殿》
 御三家紀州藩2代藩主徳川光貞の四男。母は紀州徳川家の召使い巨勢六左衛門利清の娘・於由利の方(淨円院)。時代劇では暴れん坊将軍として有名。享保の改革を実行し、米将軍とも呼ばれた。寛延4年(1751)6月20日に死去。68歳。石塔の宝塔。

《13代将軍徳川家定温恭院殿》
 12代家慶の四男で、母は幕臣の跡部正賢の娘(本寿院)。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであり、しかも家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。正室は鷹司政煕の娘任子(天親院有君)や一条忠良の娘秀子を迎えたがいずれも早世し、近衛忠煕の養女敬子(天璋院)を迎えたが、実子はできず。安政5年(1858)7月6日に死去。35歳。

《天璋院殿(13代将軍徳川家定正室)》
 薩摩藩島津家の一門に生まれ、薩摩藩主島津斉彬の養女となり、五摂家筆頭近衛家の養女として家定の正室となった。安政5年に家定が急死し、同じ月に斉彬までが死去。篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月。家定の死を受けて天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切る。薩摩藩は天璋院へ薩摩帰国を申し出るが、天璋院は拒否して江戸で暮すことを選ぶ。14代家茂の正室である皇女和宮とは嫁姑関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあって、当初こそ対立したが徳川幕府崩壊の危機に直面して2人は力を合わせ徳川家存続に尽力し、江戸城無血開城を成し遂げ、その難局を乗り切った。明治になるとわずか6歳で徳川宗家を継いだ夫家定の従弟で16代家達を養育し、徳川家にその生涯を捧げ明治16年(1883)11月20日に死去。48歳。徳川将軍の墓で夫婦二人の墓が並んで建っているのは、天璋院と和宮様の二組だけである。徳川家存続の立役者だったからであろう。
 
27【陸奥宗光旧宅】
ph-25 陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷を西宮邸という。明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光の最後の住いが西ヶ原の旧古河庭園である。しかしそのような華々しい光があたる前の雌伏の時代に、宗光はこの邸宅に住んでいた。陸奥宗光は、西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁固5年の刑を受け、明治16年1月に出獄したあと、同年9月に「一邸地を購得した」のがこの邸宅である。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野山の下を鉄道が開通したばかりの頃である。明治17年4月から明治19年2月まで宗光はロンドンに留学するが、その留守中、後年、鹿鳴館の華と称された妻の亮子と子供達がこの家に暮した。そして宗光は留学から帰国して明治20年4月に六本木に転居するまでここで過ごした。この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いものの一つである。明治21年宗光は借金返済と息子廣吉のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却する。その後、明治40年頃、ちりめん本を出版していた長谷川武次郎が自らの住いと社屋として買い取る。(写真左=陸奥宗光の旧宅)
   
※参考 陸奥宗光は1844年紀州藩士伊達宗広の6男として生まれる。生家は駿河伊達家の子孫である。幼少の頃の名前は、伊達小次郎・陸奥陽之助という。父の影響で尊王攘夷思想を持つ。父は財政再建をなした重臣であったが、宗光8歳のとき藩内の政争に敗れ失脚し一家は困窮に陥る。1858年江戸に出て安井息軒に師事する。吉原通いが露見して破門される。1863年、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年の坂本龍馬の海援隊に参加する。勝と坂本の知遇を得た宗光はその才幹を発揮する。明治維新後は岩倉具視の推挙により外国事務局御用係に就く。戊辰戦争時は局外中立を表明していた米国と交渉し、甲鉄艦のストーンウオール号の引き渡し締結に成功、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し紀州に帰った。その後外務省に出仕する。駐米公使などを務める。日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を達成し、米国と同様の条約に調印、独・伊・仏などとも同様に条約を改正した。陸奥が外相のときに不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で改正を成し遂げた。

※参考 下関条約を締結した外務大臣小村寿太郎
 明治外交で、陸奥と双璧とされるのが小村寿太郎である。小村は日向飫肥藩士で、ポーツマス条約を締結し、関税自主権の完全回復を達成し、条約改正を完成させた外務大臣。日露戦争、韓国併合(1910)の頃の外務大臣である。

28【子規庵】
ph-26 旧前田候の下屋敷の御家人用2軒長屋という。明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼寄せ、子規庵を病室兼書斎と俳句の友人、門弟に支えられながら俳句は短歌の革新に務めた。 子規没後もここには母と妹が住み、句会・歌会の世話を続けたが老朽化と大正の関東大震災の影響により昭和元年に解体、旧材による重修工事を行う。昭和2年母八重没。83歳。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵建設に着工。初代理事長に正岡律が就任。昭和16年律が没。71歳。 昭和20年4月14日の空襲で子規庵は焼失、昭和25年高弟寒川鼠骨らの努力で再建される。当時の子規庵は6畳間の濡縁、8畳間があり、ガラス戸もあった。庭からは上野の山を望むことができた。今では周辺は鶯谷のホテル街になっており、文化の香りが漂っていた明治の頃の根岸とは大分趣を変えてしまっている。(写真右=根岸にある子規庵)

29【回向院】
ph-27 寛文7年(1667)本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。安政の大獄より刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ちあった。後に解体新書を翻訳し日本医学史上に大きな功績を残す。(写真左=南千住回向院 安政の大獄刑死地の墓)

 安政の大獄として執行された処罰は、朝廷、大名および幕吏に対する者を除けば3回行われている。
・第一次 安政6年8月27日の執行 水戸藩関連者に対する。
・第二次 安政6年10月7日の執行 飯泉喜内、橋本左内、頼三樹三郎等。
・第三次 安政6年10月27日の執行 吉田松陰ら。
 松陰の斬首が行われて半年後、桜田門外の変が起きて大獄を主導した大老井伊直弼が暗殺される。井伊の後任安藤信正と久世広周は公武合体路線の推進と外交方針としては長州藩士長井雅楽の航海遠略策を取り入れた。文久2年1月15日に再び坂下門の変が起きる。襲われた安藤は負傷したが一命に別状がなかったが、政権の基盤は一気に傾き、4月11日に老中を罷免された。久世も6月2日に
罷免、長井も帰国謹慎となり6月に免職し、文久3年2月6日に切腹に追い込まれている。文久2年6月7日、勅使大原重徳が島津久光と薩摩藩兵を伴い、江戸に入る。勅命を持って幕府人事に介入し、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職、同9日には松平春嶽を政事総裁職に任命させている。同月12日に松平春嶽が戊午以降の国事犯者の赦免を主張し、幕議でこれを容れることを決めている。これより殉難者の復権が見直されはじめる。

《鵜飼吉左衛門・幸吉の墓碑》
 安政の大獄で死罪となった、水戸藩京都留守居役の鵜飼父子は1843年に馬廻役に就き京都留守居役として尽力し、1844年に藩主の斉昭が幕府から蟄居の処分を受けると、公卿らの間を奔走し主の無実を訴えたことで、その職を解かれる。1853年に再び上洛をし、1856年に斉昭の意を受け、子の幸吉とともに公卿に攘夷を説き、将軍継嗣問題では慶喜を推した。その後、幕府が独自に外国との通商条約を結んだことから1858年に朝廷は水戸藩に攘夷の密勅を下命し、鵜飼吉左衛門がその密勅を受けるが、子の幸吉を江戸の水戸藩邸に走らせるが、これが幕府に発覚し父子とも捕えられる。この時に井伊大老が鵜飼父子、頼三樹三郎、吉田松陰など幕府に反する尊王攘夷派の人物を捕え処刑するのである。1859年8月27日に獄門に処された。

《金子孫二郎》
ph-29 水戸藩士川瀬教徳の次男として生まれ、水戸藩士金子孫三郎の養子となる。1829年、水戸藩主継嗣問題が起こると、父教徳らとともに徳川斉昭を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で郡奉行となる。1844年、天保の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤(せつえん;無実の罪をはらす)運動に奔走して禁固刑に処された。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となり安政の改革を進めた。1858年に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。1859年に安政の大獄が起こるとかねて計画していた大老井伊直弼要撃を企て、髙橋多一郎・関鉄之助らとともに脱藩して江戸や京都に潜伏し、1860年3月3日、桜田門外の変を起すに至った。孫二郎自身は直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて、佐藤鉄三郎、薩摩藩士有村雄助とともに大坂で後挙を謀ろうとしたが伏見で捕えられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。1804年生まれ、1861年斬罪。58歳。(写真左=桜田門外の変関係者として刑死した金子孫二郎の墓)

《関鉄之介》
ph-30 水戸藩士関昌克の子として生まれた。弘道館で学び、水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。1855年北郡奉行所与力となり、1856年郡奉行髙橋多一郎に認められて北郡務方に抜擢され、水戸藩改革派の拡大を進めた。1858年10月、髙橋の指示により井伊大老に対する諸藩の蹶起を促すため、関は矢野長九郎らとともに越前藩・鳥取藩・長州藩へ遊説に赴く。だが安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧が行われはじめていたため、十分な成果を得られず江戸へ戻った。その後髙橋・金子らを中心とした井伊の暗殺計画に参加する。1860年3月3日、桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、井伊を暗殺した。その後幕府の探索が厳しくなったことを警戒し、薩摩藩などを頼り近畿・四国方面の各地を逃げ回った後、水戸藩領へ向かい、1861年7月9日に袋田に入って桜岡家に匿われた。しかしそれでも危険が迫り、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へ逃れたが、関川村の湯沢温泉で捕えられた。水戸で投獄されたあと、江戸送りになり、1862年5月11日に小伝馬町の牢において斬首された。39歳。(写真右=桜田門外の変で実行隊長として指揮をした関鉄之介の墓)

《有村次左衛門》
 有村俊斎(海江田信義)・有村雄助・有村次左衛門の3兄弟。次左衛門は、1839年生。1858年尊攘活動に入る。後に脱藩し水戸藩士らと交流を深める。桜田門外の変で井伊直弼の籠を襲い、首級をあげた。その後井伊の臣らに斬られ死ぬ。22歳。兄の雄助は薩摩にて切腹させられた。
        
《橋本左内》
 1834年、橋本長綱の子として生まれた。家系は足利氏の連枝桃井氏の後胤。1849年、大坂に出て適塾で緒方洪庵に師事する。1854年に江戸に遊学。その後水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。福井藩主松平春嶽に側近として登用され、藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになる。14代将軍をめぐる将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。1859年、大老となった井伊直弼の安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると将軍継嗣問題に介入したことを問われた取調を受け、謹慎を命じられた。1859年伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳。

《頼三樹三郎》
 儒学者頼山陽を父に持つ幕末の重要な思想家。寛永寺の石燈籠を破壊する事件を起こした。江戸幕府に対する軽視政策に異議を唱えていた。東北から蝦夷地へ遊歴した。1849年に帰京し勤皇の志士として活動する。安政の大獄で捕えられ、後に伝馬町牢屋敷にて斬首された。(頼惟清―春水―山陽―三樹三郎)

《吉田松陰》
 井伊直弼による「安政の大獄」で処刑された有名人たちの中で最たる人物で、明治維新への精神的指導者と言われた。1830年に杉百合之助の次男に生まれる。1834年山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となる。その後叔父の玉木文之進の松下村塾で指導を受ける 9歳の時、明倫館の兵学師範に就任。子供時代、父や兄の梅太郎ちともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、他に勉学に励む。だがアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感した。江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。1852年に宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、長州藩からの通行手形の発行を待たずに脱藩。この東北遊歴で水戸の会沢正志斎、会津で日新館の見学、秋田では相馬大作事件現場を訪ねた。江戸帰着後に罪になり士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。1853年ペリーが浦賀に来航すると師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。後1854年、金子重之輔と下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に乗船しようとして拒否された。下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。その後国許蟄居処分となる。長州へ檻送されて野山獄に幽囚された。1855年に出獄を許され杉家に幽閉処分を受ける。1857年に松下村塾を開塾する。この塾で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺高蔵、河北義次郎などを教育した。1858年幕府が無勅許で修好通商条約を締結したことを知り激怒し、間部要撃策を提言する。松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度野山獄に幽囚される。1859年梅田雲浜が捕縛されると安政の大獄に連座し江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。松陰は老中間部暗殺計画を自ら告白する。結果、松陰に死刑が宣告され、安政6年10月27日、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。30歳。

《雲井龍雄》
ph-28 明治3年(1870)12月、小伝馬町の牢獄で斬首、享年27歳。ただちに龍雄の首は小塚原に曝され、胴体は解剖に回されてしまったという。梟首された後、龍雄の首は刑場隣の回向院に葬られた。その後、米沢出身の山下千代雄(後に衆議院議員)がその墓から頭骨を掘り出し、明治16年に谷中・天王寺に改葬した。昭和5年、龍雄60回忌の時に関係者により谷中の墓から米沢・常安寺へ改改葬された。(写真左=雲井龍雄の墓)
       
30【延命寺】
 回向院の隣りにあり小塚原刑場の現場そのものである。回向院から分離独立した。首切り地蔵がある。境内をJR常磐線が走る。

31【円通寺】
ph-31 南千住にある寺で、延暦10年(791)に坂上田村麻呂が開創したという。(写真右=円通寺)
 又源義家が奥州を鎮定した時、討ち取った48の首を寺域内に埋めて築いたので、この辺りを小塚原と呼ぶようになったとも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神とともに下谷の3寺と呼ばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから百観音の通称で親しまれていたが、観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊した。境内には石造七重塔、彰義隊士の墓、などがある。円通寺の寺号額は榎本武揚の書である。ph-32 上野寛永寺の黒門があるが、1868年5月15日、上野東台において彰義隊と新政府軍の激戦が展開された。その中心地に建っていたのが上野寛永寺の黒門である。黒門には無数の弾痕があり、蜂巣状で戦いの激しさを物語る。明治40年10月、皇室博物館より下賜されたもの。黒門の裏手には彰義隊之墓、戊辰戦争で亡くなった方々の死節之墓、明治以降に亡くなった旧幕府関係者の墓碑群がある。(写真左=かつて上野山にあった黒門はいま円通寺に移設された)

《彰義隊》
 1868年2月、徳川慶喜の警護などを目的として、頭取渋沢成一郎、副頭取に天野八郎らにより結成された部隊で、「大義を彰かにする」という意味の彰義隊と命名し、幕府より江戸市中取締の任を受け、江戸の治安維持をおこなった。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者みならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になり、浅草の東本願寺から上野の寛永寺へ拠点を移動した。勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の開山を促したが新政府軍と一戦交えようと各地から脱藩者が参加し、最盛期には3,000人から4,000人規模に膨れあがった。徳川慶喜が水戸へ移り渋沢らが隊を離脱すると彰義隊では天野ら強硬派が台頭し、旧新選組などを加えて寛永寺に集結した。5月15日未明、新政府軍から宣戦布告され、寛永寺一帯に立て籠もる彰義隊を包囲し雨中総攻撃を行った。アームストロング砲と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名という。逃走した彰義隊残党の一部は北陸や会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。戊辰戦争の折、慶応4年(1868)5月15日上野の山内にて戦死した彰義隊の遺体は賊軍ゆえ戦場に散乱放置したままで在ったのを、この寺の住職が斬首覚悟で供養した。その後新政府軍に拘束されたが、幸いにも埋葬供養を許すという官許を貰った結果、遂に明治時代に唯一賊軍の法要が、堂々と出来る寺として信仰を集めた。

《彰義隊墓》
 彰義隊戦死者は三河屋孝三郎の助力を得て、現在の上野公園の西郷隆盛の後方にて火葬、遺骸266体をこの円通寺に埋葬した。
 
《死節之墓》
 彰義隊の供養に尽力した三河屋孝三郎が向島の別荘に密かに立てて、鳥羽伏見・箱館・会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養していたがこの円通寺に移築された。

《松平太郎墓》
 旧幕臣、戊辰戦争が勃発した際には、旧幕府軍の新政府軍への反発を抑える役目として、陸軍総裁であった勝海舟により陸軍奉行に任命されたが、主戦論者だった松平太郎は、その後、榎本らとともに箱館に渡り箱館戦争を戦い抜いた。蝦夷共和国では副総裁に任命されている。維新後は貿易などに手を出したがうまくいかず明治42年に伊豆で病死。71歳。

《大鳥圭介追弔碑》
 旧幕臣、伝習隊を率いて江戸を脱走し、松平太郎、土方歳三らと合流し、宇都宮、会津を転戦し、仙台で榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となった。維新後は明治政府に仕え、開拓使を経て陸軍大佐、駐清国特命全権公使などを歴任。1911年に国府津にて没。79歳。

《天野八郎碑》
 彰義隊の副頭取だったが頭取渋沢成一郎の離脱により実質的な隊長となり、上野戦争にて新政府軍に敗れ逃走し捕えられ11月8日獄中で死去。38歳。
 
《三河屋幸三郎碑》
 三幸、または親分檀家などと呼ばれた侠骨の義商。円通寺に彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力した。その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力した。死節之墓は三河屋の別宅にあったものをこの寺に移築した。

《新門辰五郎碑》
 江戸の町火消の大親分。義父、町田仁右衛門は東叡山輪王寺宮の衛士で浅草十番組に所属する町火消の頭領であったため、輪王寺宮が浅草、浅草寺の別院伝法院隠棲する際、新しい通用門を新設、その門を辰五郎が守ることになり、それで新門辰五郎と呼ばれるようになった。辰五郎の娘は将軍徳川慶喜の愛妾である。

《永井尚志追弔碑》
 永井岩之丞は永井尚志の養子となり、戊辰戦争では養父とともに蝦夷地に渡り、箱館奉行となり、五稜郭に立て籠もり戦う。維新後、開拓使御用係ののち、元老院権大書記官をつとめた。1891年没。76歳。

《荒井郁之助・高松凌雲・榎本武揚の追弔碑》
 荒井郁之助は叔父の矢田堀鴻を師とし、軍艦操練所教授をつとめた。榎本らとともに箱館に渡り蝦夷共和国では海軍奉行となり、箱館戦争を戦い抜いた。維新後、榎本らとともに開拓使の役人として新政府に出仕し、開拓使学校・女学校校長をつとめ、初代中央気象台長に就任。1909年没。74歳。
 高松凌雲は榎本武揚らに合流し箱館戦争に医師として参加、箱館病院を開院した。ここで高松は戦傷者を敵味方を問わず治療したため、日本で初めての赤十字活動となる。維新後、鶯溪病院を開院、のちに貧民を無料で診察できる同愛社を開設した。ここで診察を受けた貧民は70万人とも100万人とも言われる。1916年没。79歳。
 榎本武揚は旧幕臣、軍艦奉行、蝦夷共和国の総裁となるも箱館五稜郭にて降伏の後、海軍中将兼特命全権ロシア公使、外務大輔、海軍卿、清国公使、さらに逓信、農務省、文部省、外務の各大臣を歴任。1908年没。73歳。
 沢太郎左衛門は旧幕臣。榎本らとともに箱館に渡り、蝦夷共和国では開拓奉行となり、箱館戦争を戦い抜いた。維新後は、毎年円通寺で彰義隊はじめ戊辰戦争で戦没した幕臣の法要をしていた。海軍兵学校で教授、海軍一等教官をつとめた。1898年病没。65歳。

 回向院を詣でて感じることは、今から150年前にここで犯罪人の処刑の後始末がなされていたことである。過去に大森に鈴ヶ森刑場跡を訪れたが、その持つ現場(げんじょう)感は重いものがあった。生々しい空気が辺りを覆い何とも言えぬ気持、早くその場所から離れたい衝動に駆られたことがある。これに対して小塚原刑場の跡は、回向院や延命寺など供養の寺院や普通一般人の人達の墓群もあり、普通にそこかしこにある空気が漂い、厭な感じはしなかった。周囲には高層マンションも立ち、すぐ傍らに南千住の駅も近い為、人通りもあってごく自然に入寺できるのである。回向院は本所にもあるが、ここが本院であろう。南千住の回向院は別院になっている。だが歴史の重みから言ったら南千住回向院の方が断然重い。何せ埋葬されているのが、幕末の政情混乱期に斬首の刑を受けた人達が多くいるからだ。安政の大獄関連による犠牲者、桜田門外の変における犯行の受刑者、その他とにかく為政者に対する反抗・叛乱でその罪を刑死という形で命を絶たれた人達と、枚挙にいとまがない。ただ綺麗に整備され墓群に線香の匂いや供養花を見てると少し慰められる。
 墓群の中に雲井龍雄の小さな墓を見つけた。米沢が生んだ維新期の傑材である。堂々と斬られたことは確かである。新政府の政策によって生まれた、"食いつめ士族"の「救済」を新政府に要請した。これは極めて人道的な要求であり、要求そのものが問題でなく、西国雄藩に反目し、併せて「討薩檄」で東北諸藩全体を武力蹶起させた米沢藩の藩士であったことが主因であろう。要求そのものが問題でなく、米沢藩士雲井龍雄だから極刑に処されたということである。

(2020年1月19日12:00配信)