米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘
寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。
■日程 平成31年4月21日(日)天候晴れ 気温15度
米沢(7:40発)~会津若松IC~磐越道~安田IC~安田城跡~鉢盛城跡~浦城跡~池之端城跡~笹岡城跡~水原城跡~村松城跡~五泉城跡~安田IC~会津若松IC~米沢(18:00着)
米沢から車で2時間足らずにある越後下越(新潟県・五泉市周辺)に日帰りでミニ探訪に出かけた。米沢から国道121号線を会津方面に向かい、八谷街道、大峠街道を通る。近年、大峠街道は喜多方から会津若松間の道路が整備されて、新潟市や、新潟市以南の新潟県エリアに行くには国道113号線を通る小国、村上経由よりも時間的に早く到着できる。今回のミニ探訪では、磐越道の安田IC沿線にある城跡であることから、磐越道経由で訪問することになった。
はじめに訪れた安田城跡は新潟県阿賀野市の安田ICから下りて10分ほどで着く。(写真右=安田城址)
この跡は越後下越の地にあって、上杉謙信旗下の安田長秀ゆかりの城である。25年前位に一度訪れた事があった。その時は荒れたままの平城で、ただ水堀は残っていた。今は城址公園としてある程度整備されていて、中世の城郭の雰囲気が残っている。堀に囲まれた場所に本丸があり、堀外に曲輪がある輪郭式の様である。周囲には公共施設や学校があり、かつては曲輪の一角であったろう。堀は水堀だがヘドロのような状態だった。もし戦国時代にこのような堀であったら、攻めるには唯の水堀よりも厄介だったかもしれない。柏崎の大江安田氏と区別するために、蒲原大見安田氏と云う。
鎌倉時代初頭、鎌倉幕府の御家人である大見氏はここ白河庄の地頭となり、大見時実の代に安田条を支配して安田氏を称した。そして揚北衆でも有力な国人領主となる。戦国時代、上杉謙信に仕えた安田長秀が有名であるが、特に永禄4年(1561)の川中島合戦で奮戦した。後に色部勝長・中条藤資らとともに謙信から、血染めの感状を賜った。上杉氏の会津移封に伴い、米沢に移る。妻は米沢藩初代藩主上杉景勝の父、長尾政景の妹である。安田長秀の墓は米沢の常安寺にある。
次に鉢盛城跡を目指して、国道290号線を北へ走る。新潟県阿賀野市と阿賀町の間に連山として聳える標高9百米ほどの山に五頭山がある。(写真右=鉢盛城址を望む)
山腹には五頭温泉郷(出湯・今坂・村杉の3湯)がある。これを右手に見て走ると女堂という所に至る。ここが上杉家の家老千坂氏の居城、鉢盛城があったところである。ここは山城で標高200米ほどであるが、比高で150はあるだろう。だが登城口が見つからない。写真で確認しながら麓から見上げて城跡を遠望する。麓には女堂集落があり、昔では根古屋と云うのだろう。城の案内板もなく、上杉家では名家なのにこのあたりがよく分からない。
千坂氏は長尾氏などと同じ上杉氏の根本被官である。鎌倉時代に上杉氏に仕えた。上杉禅秀の乱(上杉禅秀が応永23年《1416年》に関東地方で起こした戦乱)の後に、越後上杉家の家臣として、越後国蒲原郡白河庄女堂村の鉢盛城を本拠とし、千坂景親は謙信の重臣となった。謙信没後は景勝に仕える。会津移封後は陸奥国大沼郡に5,500石を受領し、関ヶ原の戦いの戦後処理では、京都にあって徳川氏との折衝役を務め、その後、米沢藩の初代江戸家老となった。江戸時代は藩の重職を務め、赤穂事件で有名になった江戸家老千坂高房や、七家騒動で上杉治憲に竹俣当綱や莅戸善政らの免職を要求して隠居閉門に追い込まれた千坂高敦、戊辰戦争の際の藩司令官であった千坂高雅らが著名である。菩提寺は米沢市東寺町の日朝寺である。ここに一族の墓がある。
車でそのまま北上すると、やがて新発田市に入る。左手に月岡温泉が見えてきた。新潟県を代表する温泉で有名である。海もなくこれと言った山もなく、まさに田園にできた温泉である。ここから少し行くと浦という所に至るが、ここにあまり名が知られていない浦城がある。(写真右=浦城址を望む)
ここは新発田氏関連の古城である。今は新発田城カントリークラブというゴルフ場がその城跡である。標高100米ほどの小高い山に築かれている。歴史を見ると、天正9年(1581)、新発田城主新発田重家が織田信長と結び、上杉景勝に叛いた「新発田重家の乱」で、重家の臣である山田源八郎が旧城を修築して拠点としたという。天正11年(1583)には西麓の「放生橋の戦い」があり、上杉景勝が新発田重家にあわや討ち取られそうになるという事があった。
浦から西へ10分ほどで池之端城跡に到着した。部落の中に突然池之端陣屋跡が出てきた。
(写真左=池之端陣屋跡)
ここは中世の池之端城と近世の池之端陣屋の2つが同在する平城である。陣屋跡は部落の公園になっていた。城跡は住宅が建ち並び面影はない。ここは羽越本線と白新線が交わる地点近くにある。歴史を見ると、城主は新発田城主新発田氏の被官で、池端氏という。天正10年(1582)に勃発した新発田重家の乱で池之端城は、五十公野城とともに新発田城の重要拠点として機能した。そして新発田城落城後に上杉勢の猛攻を受けて陥落、城主池之端鴨之助は平林城主色部氏を頼り落延びたと言われる。近世には新発田藩溝口氏がこの地に支藩陣屋を置いた。
池之端から20分位走ったろうか、笹神という所に来た。ここ旧笹神村は平成7年4月に起きた新潟北部地震で甚大な被害が出た所として記憶していた。住宅が壊れたりした。今は阿賀野市になっている。やっと城跡らしい所に来たという感じだ。笹岡城址である。(写真右=笹岡城址本丸跡)
平山城だが、大手道を登ると直ぐに平場の主郭になる。大手登り口に天然記念物の十郎杉という巨木が立つ。その根本に城の見取り図・案内板がある。一応二の曲輪や三の曲輪が主郭の周りにあり、それは土塁で隔てられている。諏訪神社が主郭の裏手にあり、又、十郎杉は「舟繋ぎの杉」とも呼ばれ、古くは城の周囲は湖水であったらしい。歴史を見ると、中世の弘治年間頃に、山浦源吾国清(村上義清の嫡子)が城代として入城したという。天正10年、上杉景勝が川中島を制圧し、国清が北信に戻ると今井源右衛門が在番として入城している。新発田重家の乱では、上杉景勝軍の前線基地として機能した。天正13年(1585)には笹岡城は新発田治長(五十公野治長)に攻められて落城した。
山浦源吾国清は、天文22年(1553)、父村上義清とともに武田晴信に追われて越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼りその猶子となり、謙信の養女を娶る。山浦上杉家を継いで山浦国清と名乗る。初め客将として謙信に仕え、謙信に従い各地を転戦。謙信死後は景勝に仕えて御館の乱の軍功により景勝から一字をもらい山浦景国と名乗る。天正10年には海津城主となり父の旧領を回復する。その後、越後に戻り根知城主になる。山浦家は後に景勝の側室桂岩院の実家四辻家(公家)出身の山浦玄蕃光則が家名を継いだ。この山浦玄蕃光則は、米沢藩第2代藩主上杉定勝とは従兄弟の間柄だったが、キリシタン公家であり、後に幕府の命令で米沢の極楽寺の大庭において斬首された。
次に水原城跡に赴く。水原城は上杉謙信の旗下、水原親憲ゆかりの城で「すいばら」と読む。越後のこの辺りは江戸時代も豊かな田園地帯で、米が多く獲れた。水原城の地、白河荘下条付近はかつて広大な湿地帯に面した平城だったが、現在では遺構らしいものはない。(写真左=水原城址に立つ石碑)
現在復元された代官所が観光施設として整備されている。町も城下町の風情が少し残る程度だ。近くに鳥飛来地として有名な瓢湖がある。歴史を見ると、水原氏は戦国期に上杉謙信に仕え、御館の乱では景勝に味方した。天正9年(1581)新発田重家・五十公野道如斎が「御館の乱」での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵、水原満家は景勝に味方したが、天正13年(1585)9月、新発田城の包囲を解いて退却する途上の放生橋付近で新発田重家らの追撃を受け、泥田の中で水原満家は殿軍として奮戦するが討ち取られ、水原城は新発田方の手に落ちた。天正12年(1584)8月、水原城を景勝方の藤田能登守ら8千が攻めた。新発田勢は劣勢に立たされたが、水原城は落城せず景勝は水原城の抑えに笹岡城番の酒井新左衛門を置いた。天正13年(1585)6月、景勝は笹岡城、雷城の丸田周防らに命じて水原城を攻めさせたが、城兵らはよく凌いだ。景勝は城内に内通を誘い、水原城は自火を放ち落城した。(写真右=水原代官所跡)
景勝は水原城に大関弥七を入れ水原常陸介親憲と名乗らせた。この親憲の時に、宗家の安田城主安田氏が1,232石に対し、3,414石を領し、下条には分家の下条采女1,734石を独立させるなど、揚北では平林城主色部氏に次ぐ第2の勢力になった。慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封で水原氏も同道し廃城となった。江戸中期の延享3年(1746)には水原城跡地に代官所が置かれ、慶応4年(1868)に会津藩預かりとなるまで続いた。水原親憲は優れた武将で、長谷堂合戦や「大坂冬の陣」でも鉄砲隊を率いて活躍する。「大坂冬の陣」での「今福の戦い」に於いて、佐竹義宣隊が木村重成や後藤又兵衛らに苦戦するところを鉄砲隊で救援に向かい、敵を蹴散らして将軍秀忠から感状を賜る。
時代は下がり、幕末の「桜田門外の変」に於いて、首謀の一人、関鉄之介が逃亡の途次、ここ水原に立寄る。水原村の喜三郎という商人に水戸藩の金を貸していたので、その金を返して貰う為であった。関は事変前、徳川斉昭から蝦夷出張の任を与えられ、その準備のために代官所にある越後国水原村に行っていた。ここ代官所に立寄っている筈である。関はここから近い関川の湯沢温泉で捕えられた。水戸で投獄された後、江戸送りとなり文久2年5月11日、日本橋小伝馬町の牢において斬首された。墓は小塚原回向院にある。
五泉城跡は、上杉景勝の臣、甘糟景継ゆかりの城跡で、水原から五泉に入る。余り馴染みがない所だが、この辺りは蒲原平野の中央東部である。五泉市はここから10分ほど東にある村松と合わせてできている。五泉地区に八幡宮があるがここが五泉城のあった所であり、村松地区には村松城がある。八幡宮はかなり立派な造りである。旧五泉城の本丸跡にあるのだという。平城だが遺構は見えない。一角に「甘粕備後守の城跡」の碑があった。(写真左=五泉城址)
上杉景勝の時代、五泉城主として活躍したのが甘粕備後守景継である。景継は坂戸城主長尾政景の臣登坂加賀守清高の長子で、はじめ藤右衛門清長と称した。景勝に従い春日山城に移り、御館の乱では直江兼続とともに景勝の勝利に大きな活躍をした。天正5年(1577)甘粕継義が討死のため、上杉謙信の命で甘粕家を相続した。天正9年(1581)11月景勝の命で護摩堂城主となった。これは新発田重家討伐に備えてのものであった。天正11年に五泉城主となった。このとき景勝の一字を賜り、名を景継と改めた。(写真右=「甘粕備後守の城跡」の碑)
天正14年(1586)5月20日、景勝は豊臣秀吉の招きで上洛の途についた。その際、景継は本庄繁長らと春日山城の留守を預かった。景勝は帰国するとすぐ新発田重家討伐に向かった。天正17年(1589)6月、景勝の佐渡攻めに従軍し、先陣として功名を挙げた。文禄2年(1593)10月景勝から庄内酒田城代に命じられ、1万2千石ならびに町役舟役を賜った。慶長3年(1598)景勝の会津移封に従い、白石城代2万石に移った。慶長16年(1611)5月米沢で死去。自害したとも言われるが定かではない。墓は米沢市林泉寺にある。
村松城は、蒲原平野、阿賀野川の支流早出川左岸に築かれた平城である。今は城址公園として市民に親しまれている。大手口から城に入ると桝形があり、当時の様相を偲ばせてくれる。一角に郷土資料館がある。ここに駐車して城内を見て回る。一応整備されている。
(写真左=現在は五泉市の城跡公園になっている村松城址)
堀跡は水が張られていない。歴史を見ると、もともと菅名荘の支配拠点、会津蘆名氏に備えた「境目の城」として築かれ、上杉謙信の時代には被官千坂摂津守が城代を務めたという。寛永16年(1639)越後村上藩主堀直寄は次男直時に蒲原郡3万石を分知して安田藩を立藩させる。その後、寛永21年(1644)直時のあとを継いだ嫡子直吉は領地替えで安田から村松に拠点を移し、中世、村松城址に陣屋を構えた。幕末期には堀家中は尊皇派と佐幕派に分裂して対立し、戊辰戦争では藩主直賀を中心とした佐幕派が奥羽越列藩同盟に参加して米沢に逃れ、尊王派は直央の三男直弘を擁立して新政府軍に降伏して村松藩の所領を安堵された。
五泉市には他に雷城(村田秀頼・丸田周防守高俊)、本堂山城(丸田周防守高俊)などがあるが、他日の探訪に廻したい。
(2020年1月25日19:45配信)