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竹田 歴史講座


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4『奥州街道・白石城周辺のミニ探訪』

                 米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。


■日程 2019年3月26日(火)天候:晴れ
ルート:米沢北IC〜東北中央道(福島西IC経由)〜白石IC〜宮宿〜伊達政宗陣立場〜世良修蔵墓〜白石城・町場〜白石IC〜東北中央道(福島西IC経由)〜米沢北IC

1. 奥州街道宮宿

 平成29年11月4日、東北中央自動車道(福島大笹生〜米沢北IC間)が開通し、米沢市から東北自動車道へ高速道路が接続した。従来、米沢市から福島市に車で行くのは、かなりの勾配と曲がりくねった道の国道13号線を通る必要があった。冬季間は雪のためにしばしば通行止めになるなど交通の難所であったが、東北中央自動車道の8972メートルの新栗子トンネルを通れば、米沢市と福島市はあっという間に行き来ができるようになった。この開通により、米沢市から仙台市に行くには、山形市経由で行くよりも福島市経由で行った方が時間的にも短くなった。
 今回、白石方面に行くに当たっては、開通した東北中央自動車道から東北自動車道に入り、それを北上し白石ICを下りた。国道4号線を仙台方面へ向うと、間もなく蔵王町役場方面に左折する場所がある。この辺りを「宮」と言い、奥州街道と羽前街道の分岐点である。かつては奥州街道の宿場として、仙台藩伊達家が参勤交代の際に宿泊した所で本陣もあった。江戸中期には78軒の町屋が並んだという。そのまままっすぐ行くと遠刈田温泉に至り、さらにそこを抜けて蔵王山の稜線を越える蔵王エコーラインに通じている。
shiroishi-1 「宮」の町に入ると宮小学校があり、学校の入口に「宮宿」の説明板が立てられてあった。(写真右)
 それには「江戸時代には59番目の宿場として栄えた奥州街道と羽前街道の分岐点にあり、刈田嶺神社(白鳥神社)があった事から、古くから"宮"と呼ばれた」と記されている。そこから少し車で走ると刈田嶺神社があった。拝殿と本殿があり、拝殿は桁6間・梁3間の入母屋造りで、明治28年創建のものであった。向拝には緻密な彫刻が彫られていて凄い芸術的な建物であった。この辺から眺める蔵王連峰は実に綺麗だ。山上はまだ残雪が白く残り、麓の青さと相まって見事と言える。
                (写真左=刈田嶺神社) 
shiroishi-2 羽前街道は、蔵王町宮を基点とし、永野~猿鼻~四方峠~川崎~今宿~笹谷~笹谷峠~山形に至る街道で、古くから利用されている東北横断道の一つである。笹谷峠を越えることから笹谷街道とも言われたが、この街道がいつできたかは不明である。有耶無耶の関、阿古耶の松などが街道筋にある。明治になって羽前街道と名付けられた。この羽前街道は川崎町を抜けるが、そこは慶長遣欧使節として、伊達政宗によりローマに派遣された支倉常長ゆかりの里である。この羽前街道については私の認識にあまり無かった。
 江戸初期に羽州街道を参勤交代で下ってきた日本海側の諸藩は、その後、米沢藩領内の板谷峠越え、上山藩領内の金山峠越え、そして山形藩領内の笹谷峠越えなど利用してきたが、金山峠道が1656年に再整備されると、金山峠から七ヶ宿、小坂峠から桑折という道筋が参勤交代で使われるようになった。それは板谷峠や笹谷峠ほど、勾配が急峻でないことや、降雪量が他に比べて少なく通りやすかったからであろうと考えられる。

2.  伊達政宗が白石城攻めで置いた本陣
 
shiroishi-9 伊達政宗は慶長5年(1600)7月24日、当時上杉氏が支配していた白石城を攻囲した。それは徳川家康の会津征伐と呼応した作戦だった。伊達政宗は白石川河岸の「陣場」という場所に陣を敷いた。現在、そこは白石市福岡小学校になっている。
(写真右=伊達政宗陣場跡)
 校庭の外縁部には、かつての土塁跡が残している。ここから南へ1キロほどの所に白石川を越えて白石城があり、天守閣を望むことができる。(写真左=白石城を望む) 
shiroishi-10 ここは白石川が造った河岸段丘であり、白石城のある丘と同じ高さであった。上部の幅5間の土塁を70間ほど造成した。その下に削平地を設け、兵を置くともに白石城を攻囲させた。福岡小学校にはその土塁が残るがかなりだれていた。何せ400年も前の話である。この丘から白石川を見ると河川敷には陸上トラックがあり、運動公園が整備されている。
 伊達政宗にとっては、白石城はかつての自分の城であった。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置きにより、政宗は会津黒川城から岩出山に移封されてしまった。東北の覇者となる一歩手前のことだった。その後、白石城には蒲生郷成が入城し、そして慶長3年(1598)には、上杉氏が会津120万石になる、上杉景勝は白石城に甘糟景継を配した。
 甘糟景継は、上田長尾家譜代の家臣登坂清高の子、登坂清長という。上杉謙信の命により甘糟継義の名跡を継いだ。上杉氏の越後時代は、甘糟景継は護摩堂城主から五泉城主、その後、庄内の酒田城代となる。上杉景勝が会津120万石になると、慶長3年(1598)には白石城代2万石に配された。
 慶長5年(1600)7月、甘糟景継は軍議のため会津に出張り留守だった。留守を守るのは甥の登坂勝乃である。その隙を狙うように伊達軍は白石城を猛攻し、登坂勝乃は降伏し開城した。上杉景勝はこれをとても怒り、以後、景継を近づけることが無かったとも言われる。そのような中で、1611年、甘糟景継は死去した。悩んだ甘糟景継は自害したという。1633年に書かれた甘糟家先祖書には、故あって自害とある。甘糟氏の6千石は上杉藩に取り上げられた。しかし、米沢藩第2代藩主上杉定勝の代に200石で復帰する。景継の次男といわれる甘糟右衛門信綱は当時禁教だったキリシタンで、寛永5年(1628)12月18日、米沢北山原で家族やその使用人らととともに斬首されたが、キリシタンになったのは父親である甘糟景継の悲劇な死が影響しているとも言われる。2007年に、日本におけるキリスト教殉教者187名の一人として列福された。ちなみに、戦前に満州で有名になった甘粕正彦はこの甘糟氏の子孫である。

3. 奥州鎮撫総督府下参謀・世良修蔵の墓

shiroishi-3 この地にもう一人歴史上で有名人がいる。戊辰戦争の時の官軍側、奥州鎮撫総督府下参謀・世良修蔵である。ここに世良修蔵の墓がある。
(写真右=陣場山にある世良修造らの墓)

 世良修蔵の墓のある丘の前の道路は鎌先温泉に行く道である。蔵王山麓には遠刈田温泉、青根温泉、蛾々温泉、そしてこの鎌先温泉と山岳秘境の温泉が多々ある。その山里に位置する白石は片倉氏の城下町として昔の顔と、新白石駅界隈のニュータウンを持つ近代の顔とが同居する米沢とは違った魅力のある町だ。城下の中心は白石城であり、小高い益岡に天守が聳えランドマークとなっている。(写真下=世良修造の墓)
shiroishi-4 世良修蔵は、周防国大島郡出身で、奥州鎮撫総督府下参謀として仙台に赴いた。その時、奥州諸藩より会津・庄内両藩の謝罪嘆願を受けたが、退けた上、仙台藩や米沢藩を仙米賊として、奥羽皆敵と見て進撃の大策を致すべきという密書を同僚の大山格之助宛出したところ、その密書を携えた密使が捕まり密書の内容が暴露されてしまったのである。憤激した仙台藩士姉歯武之進らは、慶応4年(1868)閏4月19日夜、福島の妓楼金沢屋に宿泊していた世良修蔵一行を襲撃し捕えた。そして翌20日に世良修蔵は斬首され、首は白石市森合の月真院に葬られた。明治3年に現地に改葬し、明治8年に宮城県が墓碑を建立した。翌9年の明治天皇御巡幸の際、旧交のあった木戸孝允は歌一首と石灯籠一基を献じた。石柵の中には2基の墓碑があり、向かって右が長州藩士世良修蔵、左は同藩士勝美善太郎、松野儀助、従者繁蔵の墓である。世良の墓は福島市の稲荷神社の境内裏側にも立派な石碑が建立されいる。
 後日譚がある。世良修蔵は阿武隈川河畔で斬られ、首と胴は離れてしまった。首は仙台藩本営に送られたが、但木土佐が「そんな首など川に捨て置け」と発言して、世良の首は白石の傑山寺に埋葬しようということになったが、傑山寺は世良の首の埋葬を断った。結局、傑山寺の末寺である城下の森合にある真田幸村の菩提寺、月心院に埋葬されることになる。その後、陣場山に改葬された。そのきっかけは明治天皇の東北巡行コースに白石が入っていたため、急遽、世良の墓を改葬する必要性が生じ、明治9年、世良の首は白石郊外の陣場山に移されることになった。

4. 白石城周辺

 車を白石駅前の駐車場に入れて城下の散策と白石城に行く。駅から西を向くと道の先に天守が見えた。何やら姫路城と同じアングルだ。姫路駅には展望台があり、そこからメイン道路の先に姫路城がくっきりと浮かんで見える素晴らしい景観であるが、それをミニサイズしたものが白石城とも言える。昔の城下小路だろうが、かつての外堀の痕跡が残る。
shiroishi-6 白石も水には不足しない。白石川はじめ蔵王山麓から流れ出る河川が城下に引かれ、白石城の周囲を防禦する機能を果たしている。
(写真右=白石の城下を流れる旧堀の跡(小川))
 城への道がクランク(桝形)になっていて城下特有の姿を見せてくれる。市役所脇からも城内へ入ることができる。「城来道」と書いて「シロクロード」と洒落ている。白と城もかけているのだろう。大手道にあがる。天守を支える石垣が魅力的だ。下の方の積み石(築石とも)は古く黒く、大きくて横長に積まれている。蒲生時代のものともいう。二の丸門を抜けると本丸広場である。かなり昔に家族で来た記憶がある。
shiroishi-8 本丸広場に高い木碑が立ち、片倉小十郎景綱の文字が見えていたのだが、今は立派な石碑塔になり、片倉小十郎景綱の文字は当時と同じだ。(写真左=片倉小十郎景綱の石碑塔)
 築城当時、天守の前の広場には藩主らの殿舎が建ち並んでいた。白石城は三層三階で白い漆喰で覆われている。小ぶりだがシンプルでいい。天守にある破風はない。3階には花頭窓がはめられ、楼閣で人が天守最上の廻りを歩くことができる。層塔型天守の2階には格子窓がはめられている。天守とはいわず櫓の方がいい。城内の入口に行く階段が妙に急である。天守を載せる石垣が二重構造になっていて、古い石垣は蒲生時代か新しい石垣は近年修築されている。
shiroishi-12 天守の大きさのわりに石垣がしっかりしている。石垣に魅力を感じる安山岩だろう。野面積み工法だ。本丸の周囲は土塁がめぐり隅に未申櫓や、裏手門、辰巳櫓などの遺構がある。土塁も高く上辺の幅も広いが、本来ならこの土塁の上に塀があったはずだ。白石城はこの天守で名を売っている。伊達家の藩領の南を守る要衝である。(写真右=天守台の石垣で、蒲生時代のもの)

 白石と米沢は、伊達、蒲生、上杉の歴史を通じて切っても切れない関係がある。特に片倉小十郎は政宗の右腕として活躍したが、それは上杉景勝、直江兼続と同じような主従の関係にあった。白石城は江戸時代における片倉家の城と言った方がいい。だが実際には城主は多くいた。城下には有名な寺院も多く、特に傑山寺は片倉家の菩提寺で、小十郎景綱の墓がある。それと当信寺である。ここは真田幸村ゆかりの寺院である。 
shiroishi-11 白石城城主の変遷を纏めると次のようになる。
・刈田経元が築城
・伊達政宗が会津黒川城にあった時、白石宗実が城 主に
・蒲生氏郷が会津黒川城にあった時、蒲生郷成が城 主に
・上杉景勝が会津黒川城にあった時、甘粕景継が城 主に
・伊達政宗が岩出山にあった時、石川昭光が城主に
・伊達政宗が仙台城にあった時、片倉景綱が城主に

 白石氏のルーツは、藤原経清の二男刈田経元ともいう。白石に居住して白石氏を名乗った。戦国時代、白石宗綱の代に伊達稙宗の旗下となり、伊達家の重臣となる。伊達天文の乱の際は、宗綱は晴宗に加担し戦功を挙げた。宗綱は一族から一家に昇進し、中野宗時の謀叛(1570)の時には、中野は相馬へ逃亡したが、このとき白石宗利(宗綱の子)はこれを止めず逃亡を助けたため、伊達輝宗の怒りをかったが、高畠城主小梁川盛宗とともに後に赦された。宗利の子が宗実で、宗実は政宗に属し政宗の傍らにあり、多くの戦功を挙げた。そのため宗実は父祖代々の居城の白石城から宮森城に居を移し、摺上原の合戦(1589)で大活躍をした。その後、政宗が岩出山に移封されると、胆沢郡水沢1万5千石を与えられ水沢城主となる。京都伏見で47歳にて没。宗実に子がなかったので、稙宗の八男宗直が婿養子になる。和賀の乱(和賀忠親が南部利直に抗して兵をあげた)で、宗直は政宗の命を受けて和賀忠親を支援した。この件が徳川家康に露見しそうになり、政宗は和賀忠親を謀殺した。実質責任者の宗直は罪を得て、登米寺池城に移された。宗直の子には宗貞がいたが、宗貞にはいなかったので、忠宗の子宗倫を養子に入れた。

 ここで蒲生氏郷の領国支配を見てみる。
 蒲生氏郷は本拠地を黒川城(会津若松城と改名)におき、氏郷の子郷安を長沼城(3.5万石)から米沢城(7万石)に移した。郷成は白石城から二本松城(4万石)へ、郷可は中山城(1.3万石)へ、関一政は白河城(5万石)へ、田丸直昌は三春城(5.2万石)へ、町野繁仍は猪苗代城(3.8万石)へ配置した。氏郷の死去後、秀行の代になると、郷安の専横ぶりが顕著になり、郷可・郷成らと対立し、蒲生家は会津若松城を追放された。

(2020年2月7日17:30配信)