米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘
寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。
■日程 2019年6月4日〜5日
6月4日、鶴岡市入り、夜友人と飲む。宿泊は鶴岡IC前「ホテルイン鶴岡」に。
6月5日、ホテル発(午前9時)〜酒田~吹浦~象潟~仁賀保~矢島~湯沢院内~米沢の自宅(午後6時着)。走行距離は約320キロ。
■行程
①吹浦;石原莞爾の墓~②象潟;青塚山砲台跡~③象潟;蚶満寺~④仁賀保;仁賀保陣屋跡⑤仁賀保;禅林寺~⑥仁賀保;山根館跡~⑦矢島;龍源寺~⑧矢島;八森城跡
○はじめに
庄内平野は四方が山に囲まれているとは言え、私の住む置賜地方に比べてとても広々と感じる。東に月山、北に鳥海山が聳えているが、置賜地方に比べ平野部の面積が広い。西には日本海が広がり、その向こうにはロシア、朝鮮半島、中国と行った国々があるという地理的なロケーションにある。
人々の気持ちには大きな違いがあるように思う。例えば、鶴岡と米沢は同じ城下町であることや、山形大学の学部があるという面で何かと比較される市同士である。米沢が「モノづくりのまち」、「上杉の城下町」を強調すれば、鶴岡は山形大学や慶応義塾大学の研究機関を抱える「ソフト学園都市」、藤沢周平や高山樗牛に代表される「文化のまち」、アル・ケッチァーノのオーナーシェフ奥田政行氏に代表される「食文化のまち」と言えるのではないか。
さらに驚くのは、庄内の道路網である。庄内空港は鶴岡市と酒田市の中間地点である酒田市浜中地区に建設された。その空港へのアクセス道路が庄内平野の縦横に巡らせてある。庄内のどこに行くにも利便性が良く、庄内のどまん中に位置する三川町の大型店のモールに行くにも大抵30分程度である。良く整備された国道7号線に加え、日本海東北自動車道が酒田市内から温海温泉まで開通している。こういった交通、歴史的、文化的な背景を考えながら、私は今日のミニ探訪を進めた。
①吹浦;石原莞爾の墓
墓前の右手奥に鳥海山が見える。残雪が山肌にへばり付いている。山の稜線が西へ流れ日本海に沈む。裾野が長い独立峰ゆえに"出羽富士"とも言われる秀峰である。庄内の人達は、鳥海山を秀峰と云い、月山を霊峰と呼び区別している。置賜盆地を形成する四囲の連峰、「吾妻連峰・飯豊連峰・朝日連峰・蔵王連峰」は屏風のように聳えているのに対して、庄内は北に鳥海山、西に月山とに区切られた平野である。西に日本海を抱いて、その平野を最上川が東から流れ入り、海に注ぐ。まさに豊穣の地と言えよう。文字通り"山あり、里あり、海あり"の良い所である。庄内100万石に相応しい土地柄と言えよう。
石原莞爾の墓は秋田県との県境に近く、国道7号線吹浦バイパス沿いにある。
(写真右=石原莞爾の墓)
鳥海山から発する吹浦川がすぐ北を流れていて海に注ぐ。吹浦港を橋の上から見ることできる地にある。この墓は新しく整備された処のようである。土饅頭形式の墓で、標柱は「南無妙法蓮華経」と記されている。石原莞爾の書とのこと。脇には碑があり、石原莞爾が唱えていた文言、「都市解体 農工一体 簡素生活」が記されている。石原は農の田舎を愛している。
石原莞爾は満州国建国で有名であるが、盟友が岩手の板垣征四郎である。石原は参謀、即ち頭脳として存在し、板垣はそれを実行に移してゆく実務者としてコンビを形成した。関東軍では、この2人の上に本庄繁が司令官としてあり、昭和6年(1931)の満州事変が2人の存在を不動のものにした。2人とも東北出身、貧しかった東北地方は、その豊かさを求めて中国東北部を志向した。2人は多分に東北の民をここに移して農を盛んにしたいという希求に駆られた。満州事変は、日本の植民地レベルから昭和7年(1932)3月1日の「満州国」建国につながった。
石原莞爾は当初「満蒙領有」を示し、これが対ソ防衛の為とした。ソ連が脅威の時代である。満蒙を日本本土防衛の砦にしようと企図した。
(写真左=石碑)
同時に日本国内の余剰人口を満蒙に移し農業開拓に従事させようとしたが、ソ連の脅威が叫ばれるに連れて、満蒙をその防衛空間へと切り替える。やがてそれだけでなく、満蒙を五族協和の独立国へと創り変える方向を見出す。こうして満州国ができあがる。だがこの満州国は日本の属国となり、傀儡政権の満州国となるが所謂、清国のラストエンペラー"溥儀"を満州国王として据えて、日本がそれをバックアップするという後見体制を敷く。だが世界はそうは見なかった。日本の中国大陸北東部への侵略であるとした。満州事変から上海事変、そして支那事変へと戦線拡大することになる。石原はその満州創業の人であった。庄内には陸軍の軍人が多く出た。満州国建国の石原莞爾、この頃の右翼思想家大川周明も庄内の出である。ノモンハン事変の服部卓四郎、らである。内陸地の米沢が海軍の軍人を多数輩出しているのとは好対照である。本来なら海の庄内から海軍軍人が出てもおかしくないのだが、陸軍軍人が多く出た、面白い。
ここで石原莞爾の生い立ちを紹介したい。1889年に庄内の鶴岡で生まれた。子供の頃は乱暴な性格だったというが、学業は優れていたようだ。庄内中学を途中で退き、仙台の陸軍地方幼年学校に入る。1905年に陸軍中央幼年学校に入学、成績はトップクラスであった。1907年に陸軍士官学校に入学、陸軍大学に入学し、戦略・戦術・軍事史などを学ぶ。1918年に陸軍大学を次席で卒業した。後にドイツへ留学する。軍隊に入ると、1928年には関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。ここで自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案した。1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行し、張学良を相手に満州の占領を果たす。だがこの事変を機に満州国の建国に就き、王道楽土・五族協和を主旨に満蒙領有論から満蒙独立論へ転向する。2・26事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、反乱軍の鎮圧の先頭に立った。石原は統制派にも皇道派にも属さず、満州派と自認していた。石原は反乱軍の安藤輝三大尉、栗原安秀中尉に拳銃を突きつけられるが、その怒りの権幕の凄さに大尉らは石原に何もできず、その後投降した。
1937年の支那事変では参謀本部作戦部長であった。中国戦線の不拡大方針を唱える。関東軍参謀長・東条英機ら陸軍中枢と対立し、関東軍へ左遷された。1941年に現役を退くが、立命館大学に勤め、国防論を教えている。戦後、極東軍事裁判では戦犯の指名からは外れているが、証人として酒田の出張法廷に出廷した。病身の為にリヤカーで行く。石原は判事に対して歴史をどこまで遡り戦争責任を問うのか、と尋ねた。「およそ日清・日露戦争まで遡る」との回答に対して、それならぺリーをあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ。」と持論を披露した。晩年は庄内の西山農場で同志と共同生活を送った。
②象潟;青塚山砲台跡
県境を越えて象潟に入る。海岸に近い所に、青塚山砲台跡がある。小高い丘になっていて、砲台特有の土塁で丘上の周囲を囲み、海の方を睨んで大砲が据え付けられていた。今は何もない。当時の石垣が残る程度である。海岸から海を望む。海の涯にはシベリア大陸があり、日本海には外国船が沿岸を航行していたことだろう。(写真右=青塚山砲台跡)
【案内板より】
寛永17年(1640)、矢島藩との領地交換により象潟を領地とした本荘六郷藩は塩越浜谷地に沖の口番所を置いて塩越湊の管理を行っていた。この番所は津波によって破壊され、天保4年(1833)青塚山山麓に新たな番所が置かれた。
幕末、異国船の日本近海への出没が頻発すると、文政8年(1825)、幕府は異国船打払令を発効した。本荘藩領でも「嘉永元年4月20日、去る15日飛嶋沖唐船相見え候に付、庄内様、吹浦、酒田、大山、鼠ヶ関御堅め人数差出候に付、此の方へも御知らせこれあり候に付、塩越、金浦両所へ大筒御遣なされ候」等の異国船への動きがあり、元治元年本荘六郷藩は塩越村の海岸警備の為、青塚山番所に大砲掛国松藤弥、鉄砲掛国松嘉太郎らを配した。明治2年廃止。
③象潟;蚶満寺(かんまんじ)
青塚山砲台跡から直ぐ近くに蚶満寺がある。羽越線踏切をわたり参道に入る。象潟の蚶満寺は2度目の訪問になるが、30年位前以来であるから随分昔のことである。
(写真左=蚶満寺山門)
しかし以前と少しも変わらない情景が広がる。象潟地震で隆起した一帯は松の小島が陸地の上にあり、ここに海水が満ちていれば、陸前の松島に準ずる景勝地になっていただろう。立派な山門(仁王門)があり、その彫刻が見事である。面白いのは仁王像が向き合っている。普通は前を見るように仁王像が並立するのが普通である。海風が山門に直撃するので、正面を塞いでいる。寺域は広いが、境内には史蹟が多い。宗派は曹洞宗である。山号は皇宮山と言う。本尊は釈迦牟尼仏。寺歴を見ると、853年に慈覚大師円仁の開創という。1257年8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼が象潟を訪れた際、ここに寺領を寄進している。親鸞聖人腰掛の石、西行法師の歌桜、菅秀才の梅、北条時頼の躑躅(ツツジ)、芭蕉の句碑等あり。
象潟地震は、1804年6月4日、津波を伴った大地震で、景勝地の象潟が隆起して陸地化した。象潟を中心に出羽国の沿岸が南北25キロに渡り隆起し、象潟では2mの隆起だった。隆起で水田が形成された。小島は低い丘として今にある。推定震度は仁賀保界隈で6から7の激震であった。津波の高さは4から5m。(写真右=舟つなぎの石)
④仁賀保;仁賀保陣屋跡
象潟から仁賀保の町中まで15分位走るだろうか。仁賀保陣屋は、今では仁賀保公園と仁賀保神社の境内となっといる。中世では仁賀保城が築かれていた。堀跡も少し残っている。白い鳥居をくぐり階段を上ると小高い丘になっている。見晴しがよい。海が直ぐ手前までかつては迫っていたのだろう。
(写真左=仁賀保陣屋跡)
上には神社社殿があり、一帯は丘城の名残りが見える。丘下の一角に「旗本 仁賀保家 陣屋跡」の標柱が立っていた。
仁賀保陣屋は寛永3年(1626)仁賀保氏により築かれた。山根館を居城に7代140年間勢力を誇った由利十二頭仁賀保氏は、関ヶ原の戦功により常陸武田5千石を領した。元和9年(1623)仁賀保挙誠は大坂の陣の戦功により旧領仁賀保1万石を与えられて諸侯に列し、塩越城を居城とした。寛永2年(1624)挙誠が死去し、所領は嫡男良俊7千石、次男誠政2千石、三男誠次1千石に分割された。直参旗本となった次男・三男所領の采地陣屋が仁賀保城に置かれた。分家旗本2家は明治まで存続したが、本家は寛政8年に仁賀保良俊の死後後嗣なく断絶した。分家誠政の家系は二千石家、誠次の家系は千石家と称された。
関ケ原合戦では、最上氏に属して出陣した。上杉景勝との戦いに功があった。
⑤仁賀保;禅林寺
仁賀保の町中から南へ院内と云う地に至る。ここに仁賀保氏の菩提寺禅林寺がある。
(写真右=禅林寺)
小奇麗な山門(仁王門)を抜けると本堂がある。境内の裏山に仁賀保氏の祖大井友挙と戦国末期の当主仁賀保挙誠(きよしげ)の墓碑がある。(写真下=仁賀保家の墓)
⑥院内;山根館
禅林寺から山の手の方へ行くと、山城がある。山根館というが、仁賀保氏の居城跡らしい。車で山の奥まで行けるようだ。麓から山裾を舗装道路が山上まで繋がっている。
(写真右=山根館主郭部)
5分ほど走ると途中に油田跡がある。秋田は油田で昔は有名だった。ここは院内油田というようだ。昔採油していた「やぐら」跡が残っていた。案内板によると、5百メートル以上掘ると、ガスと原油と水が出てくる。これを表に出して、仕訳して夫々利用するのだという。
山上に駐車場があった。地元の地理によれば、由利丘陵の中央西縁、寒沢川左岸の東から西側に張り出した丘陵突端に築かれた山城という。城の規模は東西550米、南北250米で、東端のピークに構築された主郭を中心に北西斜面に段郭群に加工した構造である。主郭は100米と50米ほどの広さで、ここに平屋の屋形が置かれていた。1468年仁賀保氏の祖大井友挙が修復して居住し、以降仁賀保挙誠が常陸国に国替えを命じられるまで7代135年住んだ城跡である。仁賀保氏は由利十二頭の一人である。主郭から見下ろす仁賀保平野は素晴らしい。城内を塩の道が通っていて、仁賀保から矢島へ抜ける矢島街道とも言っていたようだ。
⑦矢島;龍源寺
仁賀保の院内から矢島へ向かう。30キロはあるようだ。鳥海山麓の北高原に出る。牧場が結構ある。そこの土田牧場で休憩し昼食を取った。眼前に鳥海山が残雪を多く抱いて聳えた立つ。庄内川から望む鳥海山とは別の顔であって荒々しいものがある。矢島へ抜けるのにナビが林道のような道を示した。少し心細くなるが、30分位走行して矢島に出た。図らずもそこは金嶺山龍源寺の裏だった。
(写真右=金嶺山龍源寺)
本堂は桁行24米、梁間16米の大規模なものだ。山門が立派で、本堂も萱葺の豪勢な屋根を有する曹洞宗寺院である。矢島藩生駒氏の菩提寺で、裏山に初代当主生駒高俊の墓がある。この寺に生駒氏代々が埋葬されているが、土田園保警視庁70代警視総監も埋葬されている。(写真下=初代当主生駒高俊の墓)
生駒氏の讃岐初代親正は、豊臣秀吉の下で頭角を現した武将である。讃岐17万石を領し、徳川政権下でも西国の雄藩に数えられた。だが4代高俊の時、藩内を二分して家臣が対立し、その一方が大挙して脱藩するという騒動に発展した。そのため寛永17年、生駒氏は改易された。高俊には改めて出羽矢島1万石が与えられた。矢島藩と呼べるのは初代高俊の時代だけで、以後生駒氏は交代寄合旗本(大名に準じる格式)として江戸に常在した。幕末、戊辰戦争を経て矢島藩が復活する。最後の藩主生駒親敬(ちかゆき)は戊辰戦争時12歳だった。庄内藩の奇襲攻撃で矢島は陥落し、親敬は秋田へ落ち延びる。だが戦後1万5千石の知行が認められ、生駒氏は大名に列した。
⑧矢島;八森城址
龍源寺の近くに、八森城跡がある。別名は矢島城という。
(写真右=八森城址)
ここ矢島に来ると、旧矢島町は鳥海山の北側の高原にあり、標高750米という高地にある。以前、由利本荘から鉄道が引かれていたが、今は廃線になっている。本来は、由利本荘から国道108号線を南下して矢島に至ったが、今回、仁賀保から山間の林道を経て入った。辺鄙(へんぴ)な所だが、ここに江戸時代矢島藩があった。ここ矢島は由利本荘と合併し、本荘市になった。矢島小学校が八森城跡である。
【案内板より】
築城は定かではない。応仁年間に大井義久により築かれたという。大井氏は信濃の出という。この大井氏が後に矢島氏を名乗り、由利十二人となり、仁賀保氏と爭う。矢島氏が仁賀保氏に敗れて滅亡すると、仁賀保氏の家臣菊池氏が城代となった。しかし関ヶ原後、由利郡は最上義光の所領となり、仁賀保氏は常陸国武田に移封となる。慶長7年(1602)最上臣楯岡満茂が本荘城主となり、弟楯岡満広が3千石を領して八森城に入ったが、元和8年(1622)に改易となる。元和9年(1623)由利十二頭の一人であった打越光隆が常陸国新宮より3千石で入封した。しかし元和12年(1635)打越光久に嫡子が無く改易となった。寛永14年(1637)讃岐国高松藩主生駒高俊は生駒騒動で改易となり、寛永17年に矢島にて1万石の堪忍領を賜り陣屋を築いた。万治2年(1659)生駒高清は弟俊明に2千石与し、矢島藩は8千石となり交代寄合となった。
城の大手跡や堀も残している。陣屋は元来「軍営の称であった。徳川時代においては「小藩では城を城と称することができないで陣屋と呼んだ。」という。矢島の町中はひっそりとしている。この辺りで、昔秋田の安藤愛季と羽前最上義光と合戦している。この戦陣で安藤愛季が病を発症し、後に死去している。
私のミニ探訪は、ここから国道108号線に入り、湯沢市近くの院内に出て、国道13号線を南下して米沢に帰った。鳥海町から望む鳥海山は屹立しているようだ。裾野の長い鳥海山とは違う景色である。
(2020年2月7日17:30配信)