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竹田 歴史講座
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6 探訪 『上州(群馬県)旧小幡藩織田氏を訪ねて』

                 米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。



□︎日程 2019年3月13日(晴れ)気温16℃
□︎行程 米沢―東北中央道―東北道―北関東道―東北道―東北中央道―米沢(走行距離715キロ)

1 はじめに
 私は戦国の雄、織田信長と生駒吉乃の間に生まれた織田信雄が、1582年6月2日に起きた本能寺の変で信長の死を境にどのような数奇な運命を辿ったのか、関心を持っていた。信雄は本能寺の変から関ヶ原の戦い、そして大阪冬の陣、夏の陣を経て生き延び、織田信長に続く血脈を守った。そして江戸時代、信雄の四男信良は、現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡に小畑藩藩主として領地を与えられ、その末裔は1776年に高畠藩(山形県)、1830年の天童藩(山形県)に至り、幕末を迎えている。私の住む山形県が戦国武将、織田信長の末裔の地となったことに感慨一入である。そのようなことから、群馬県甘楽郡甘楽町を訪れてみることにした。

2 織田信長の次男として生まれた織田信雄
obata-1 織田信雄は、1558年、 父織田信長と母生駒吉乃の間に生まれる。生駒屋敷にて茶筅が結えそうな髪型をしていたので、幼名を茶筅丸とされた。
(写真右=旧小幡藩織田氏の城下町、群馬県甘楽町)

 9歳の時に母吉乃が死去。1569年、織田信長は北伊勢の大河内城の戦いで、北畠具教・北畠具房の父子に勝利すると、信雄を北畠具房の養子とさせ、大河内城に信雄が入り、信雄は具教の娘で具房の妹、千代御前を娶った。1572年に元服すると北畠具豊と称し、1575年に北畠の家督を相続した。大河内城から田丸城を本拠地とし、北畠家中の実権を掌握し始めた その後、1576年に滝川雄利・長野左京亮らに北畠氏の三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と具教の息子2名、北畠家臣14人を殺害させた。
obata-2 同じ日に信雄自身も田丸城に長野具藤ら北畠一族を饗応と偽り呼び出し謀殺した。「三瀬の変」という。こうして北畠家を完全に掌握した。
(写真左=旧城下町を流れる堰 雄川)

  この時、正室千代御前は自害した。1578年4月、織田信忠の軍勢に加わり、石山本願寺の本願寺顕如を攻撃した。同年5月、播磨の羽柴秀吉勢に加勢し、織田信忠らと共に神吉城攻めに参加した。1579年9月16日、信雄は父信長に無断で8千の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆に各地で抗戦され敗走、信長から叱責される。(第一次天正伊賀の乱)1580年、伊勢・田丸城が焼失したため、松ヶ島城を築き居城とした。1581年には、叔父の織田信包をはじめ、丹羽長秀・滝川一益・筒井順慶・堀秀政・蒲生氏郷・大和や伊勢の諸大名の加勢を受けて再度伊賀へ侵攻し、伊賀を平定した。(第二次天正伊賀の乱) 
 1582年6月2日に、信長が明智光秀によって討たれた。(本能寺の変)25歳の信雄は伊勢から出陣し、明智光秀を討とうとしたが、6月13日、先に羽柴秀吉が光秀を討ったとの報を受けて、近江甲賀郡土山にて進軍を中止し撤退した。1582年10月に、徳川家康と北条氏直の間で、甲斐・信濃の武田遺領を巡り起きた天正正午の乱では、信雄は弟信孝(信長三男)とともに双方の和睦を仲介している。清洲会議では信雄は兄信忠亡き後の織田家の後継者になろうと画策したが、秀吉は信忠遺児の三法師秀信を推し、もう一人の実力者である柴田勝家は信孝を推した為、信雄は当主候補にならなかった。織田家当主は三法師、後見役は信孝で決まると、信雄は尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を領した。
obata-3 1583年4月、賤ヶ岳の戦いが起きると信雄は秀吉に味方して、5月に弟信孝の岐阜城を攻めた。
(写真右=織田氏時代の小幡陣屋の復元図)

  柴田勝家も北ノ庄城で自害すると、信孝は岐阜城を開城して信雄に降伏。尾張に送る途中の野間御堂で信孝は自害させられた。滝川一益も秀吉に降伏し、信雄は尾張・伊賀・北伊勢を領した。前田玄以が京都所司代に任命されると信雄は三法師の後見として安土城へ入城した。だが秀吉により安土城を退去させられると以後、信雄と秀吉の関係は険悪化し、信雄は妹徳姫の縁がある徳川家康に接近し同盟関係を結んだ。1584年3月6日、秀吉に内通した疑いで家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3人を粛清した。信雄・家康は秀吉と戦闘状態に入り、小牧長久手の戦いとなる。徳川勢は羽柴勢の池田恒興や森長可らを討ち取るが、伊勢国では誅殺された重臣3人の一族が造反し、さらに秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも謀叛したため、羽柴秀長・蒲生氏郷・筒井順慶・藤堂高虎らの羽柴勢の侵攻を受けた。その結果、11月11日に、家康に無断で秀吉と和睦し、伊賀・伊勢を秀吉へ譲渡した。その為、信雄を担いでいた家康は大義名分を失い撤退。これが信雄の無能説の根拠だ。以後、信雄は秀吉に臣従し、織田家と羽柴家の主従関係は逆転した。1585年8月、信雄は富山の役の佐々成政攻めにも5千の兵を率いて参戦。同年11月の天正地震で伊勢長島城が使用できなくなり、以後は清洲城を改修し、居城とした。1590年、小田原攻めでは伊豆韮山城攻撃に参加し、信雄は苦戦しながら武功をたてた。しかし、戦後の論功行賞で父祖の地を離れたくないと家康の旧領への移封を拒否し、秀吉の怒りを買い改易された。その後、下野烏山に流罪となり出家し常真と号した。
 その後、出羽秋田、伊予と流され、1592年家康の仲介で赦免され、大和国内に1万8千石を領した。朝鮮攻めの際には肥前名護屋城に兵1500で着陣。この時、嫡男秀雄も越前亀山に5万石が与えられた。1600年、関ヶ原の戦いの際には大坂で中立の立場を取った。戦後、家康は信雄・秀雄ともども改易したため、豊臣家に出仕した。秀頼の母である淀殿が信雄と従兄弟同士だった事もあり、大坂の天満屋敷に住み、大坂城の秀頼を補佐した。1614年 大坂冬の陣の直前に徳川勢へ転身、当時信雄が豊臣勢の総大将になるという噂があったところ、徳川勢に味方した。家康はたいそう喜び、豊臣滅亡後の1615年7月23日、大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などに5万石を与えた。さらに信雄の四男信良に上野小幡藩2万石を分知して、信雄自らは京都に隠居し、悠々自適の日々を過ごした。1628年10月には将軍家光により江戸城での茶会に招待された。1630年4月30日、京都北野邸で死去。73歳。実質的な隠居料であった大和宇陀郡の領地31200石は、五男高長が相続した。

3 小幡藩の藩主たち
obata-4 天正18年(1590)奥平信昌が3万石で入封したのが始まりで、慶長6年(1601)に美濃国加納藩10万石に加増移封されと、代わりに水野忠清が1万石で入封した。
(写真右=織田氏菩提寺の祟福寺)

 その後も短期間で藩主が変わり、元和元年(1615)に織田信雄が2万石が与えられ、ようやく安定した藩政が行われるようになる。元和2年(1616)織田信良が下仁田街道の福島宿(甘楽町福島)に陣屋を構え、信昌の代の寛永6年(1629)に小幡移転が決まり、寛永19年(1642)にようやく小幡陣屋に藩庁を移し名実ともに小幡藩となる。

【小幡歴代藩主】
    初代奥平信昌 1590-1601  
    初代水野忠清 1602-1615  
    初代永井直勝 1616-1617  
    初代織田信雄
    2代織田信良 1617-1626  
    3代織田信昌 1626-1650  
    4代織田信久 1650-1714  
    5代織田信就 1714-1731  
    6代織田信右 1731-1759
    7代織田信富 1759-1764
    8代織田信邦 1764-1767
    初代松平忠恒 1767-1768
    2代松平忠福 1768-1799
    3代松平忠恵 1799-1856
    4代松平忠恕 1856-1871

obata-5 甘楽町にある旧小幡藩織田家墓所は、崇福寺(そうふくじ)境内にある。織田宗家の墓所であり、山裾の平地に初代信雄から7代信富までの墓(五輪塔)がある。初代信雄の墓が一際大きく破損が少ない。かすかに戒名が読める程度である。境内の隅に位牌堂があり、古くて黒くなった位牌が並ぶ。
(写真左=織田氏7代の墓の説明看板)

 小幡藩初代織田信雄は、織田信長の二男で、本能寺の変後、尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を領し清洲城を居城とした。秀吉との関係の中で所領を失い、大坂夏の陣後の元和元年(1615)に小幡領主となる。(ただし、小幡藩では初代としていない)寛永7年没。73歳。徳源院殿実巌常真大居士
 2代織田信良は、信雄の四男で、所領5万石のうち小幡2万石を相続する。信雄に先立ち寛永3年没。43歳。心芳院殿松岩淨清大居士
 3代織田信昌は、信良の長男で2歳のときに叔父高長を後見人として信良の遺領小幡藩を相続。領内の検地を実施するなど、藩政の基礎を固めた。寛永19年(1642)小幡陣屋が完成、福島(甘楽町)から移住。慶安3年没。26歳。
 4代織田信久は高長の四男で信昌の養子となり、用水・土地開発等、60余年藩主として民政に尽くす。崇福寺を再建し宝積寺から歴代3代の墓石を移し菩提寺とした。正徳4年(1714)没。72歳。凌雲院殿嶮巌維峻大居士
 5代織田信就は、信久の三男で兄・信盛、信知の死去に伴って嫡子となり、正徳4年(1714)、信久の死去により家督を継ぐ。享保16年(1731)没。享年71歳。乾瑞院亭厳元貞
 6代織田信右は、信就の四男で、兄の信房が廃嫡、織田信常、織田信乗が病気で相続人の地位を辞退したため、享保16年(1731)、信就の死去により家督を継ぐ。宝暦12年(1762)没。50歳。
 7代織田信富は、信就の七男で、実兄信右の長男信貴の死去にともない、宝暦7年(1757)信右の養子となる。宝暦9年(1759)信右の隠居に伴い家督を継ぐ。明和元年(1764)没。42歳。
 8代織田信邦は明和事件により隠居蟄居となり、天明3年(1783)移封先の高畠で死去。39歳。淨翁院殿黙巌了然大居士

obata-6 織田家では2系統4家が大名として江戸時代を生き残る。信長の二男信雄系は、四男信良の系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩・天童藩の大名となり、五男高長の系統が大和宇陀松山藩、後に丹波柏原藩の大名となる。そして信長の弟有楽斎系では柳本藩と芝村藩があり、明治維新後、この4家は子爵に列した。(写真左=初代藩主織田信雄の墓)
 陣屋は一般に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持った。また上級旗本も知行地に陣屋を構えた。陣屋に藩庁を置くことを無城大名、または陣屋大名と呼んだ。陣屋は城郭に比べて簡略化されており、行政・居住の機能しか持ち合わせていないものが多い。有名な陣屋は、高山陣屋(天領陣屋)・名張陣屋(名張藤堂家陣屋)・園部陣屋(小藩の陣屋)がある。

※明和事件とは?
obata-7 織田家の支配は7代に渡る。明和4年(1767)山県大弐の明和事件に連座し、当時の藩主信邦が蟄居し、後継の信浮は出羽国高畠藩へ移封された。
(祟福寺にある織田氏7代の墓)

 明和事件とは、兵学者で儒学者であった山県大弐が尊皇思想を掲げる一方、甲府城や江戸城をどの様に攻めれば効果的かという講義を行った事が幕府に露呈し、関係者が処罰された事件である。その際、小幡藩の家老吉田玄蕃が山県大弐と親交が深かった事から処罰の対象となり、藩主織田家は国主格を剥奪され、面高は2万石ながら実石では低い高畠藩に移封となった。実際、本当に倒幕運動があったかどうかは不明である。吉田玄蕃が小幡藩で重用された事を妬んだ対立派閥が、倒幕運動に加担していると信邦に讒言、その話を信じた山県大弐の弟子も幕府に密告している。さらに事態の収拾を図った信邦が玄蕃を処分したものの、幕府からはことの詳細を報告しなかった事で信邦を蟄居処分とし、実弟である織田信浮に織田家を相続させたものの、高畠藩移封となった。
 山県大弐事件による織田家への処分は高畠移封だけではなかった。江戸城に於いても大広間詰から柳の間に落とされ、諸大夫の家格として他の織田支族と同格になった。尚鍛冶橋門内の上屋敷も没収された。さらに信邦の実父織田対馬信栄まで巻き添えをくらう。高家職を奪われ、一定期間外出禁止を命ぜられている。織田家にとり誠に厳しい処分であった。

※山県大弐
 江戸時代中期の儒学者、甲斐国巨摩郡生まれ。甲斐武田氏の譜代家臣、山県昌景の子孫であるという。山崎闇斎の流れを汲む加々美光章、太宰春台の弟子である五味釜川に学び、1742年に京都へ遊学する。医術の他に儒学を修め、甲斐山梨郡山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説いた。1750年に村瀬家を継ぐが、弟の起こした殺人事件に際して改易され浪人となる。山県家に戻り名を山形昌貞と改め、1756年頃江戸へ出て医者となる。江戸幕府若年寄の大岡忠光に仕え、代官として勝浦に赴任する。忠光の死後は大岡家を辞し、江戸八丁堀長沢町に私塾柳荘を開き、古文辞学の立場から儒学や兵学を講じた。上野国小幡藩家老吉田玄蕃など多くの小幡藩士を弟子としていたことから小幡藩の内紛に巻き込まれ、1766年門弟に謀叛の疑いがあると幕府に密告され、逮捕されて翌年の1767年門弟の藤井右門とともに処刑された。山県神社の境内に墓所がある。     

※高畠藩
 織田信浮が小幡から高畠へ移封を命じられた。当時の高畠は、高畠村・小郡山村・泉岡村・塩森村・相森村・柏木目村の6村である。封地としては高畠の6村と天童など村山郡の一部、信夫郡の一部。天明の大飢饉で藩財政が悪化し、藩主は小幡への復帰を嘆願するほどであった。3代藩主信美は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を高畠陣屋から天童に移そうとした。文政11年(1828)5月に幕府からもそれを許され、信美は天保元年(1830)に陣屋を天童に移した。この為、以後は天童藩となる。
 歴代藩主 ➀織田信邦 のぶくに 従五位下 美濃守
      ➁織田信浮 のぶちか 従五位下 左近将監
      ➂織田信美 のぶかず 従五位下 越前守→天童へ

※天童藩
 文政11年(1828)に幕府から拠点を高畠から天童に移す許しを得た織田信美は、天保元年(1830)に天童に移って天童藩を立藩した。2万石の小藩で財政難に悩まされていたため、家臣の俸禄借り上げ、厳しい倹約令を施行し、安政2年(1855)には紅花の専売制を行おうとしたが、藩政改革は失敗した。明治元年(1868)1月、藩主織田信学は新政府より上洛の命を受けた。信学が病床にあったため、嫡男の信敏が代理として参内する。このとき新政府から奥羽鎮撫使先導に任じられ、織田氏重臣の吉田大八が新政府軍の奥州の道案内を務めることとなった。同年4月、吉田は奥羽鎮撫副総督である澤為量を先導して庄内藩と戦ったが、庄内藩の猛攻の前に大敗を喫し、天童城下は焼討ちに遭った。翌5月、奥羽越列藩同盟が結成されると、天童藩も同盟軍として参戦せざるを得なくなり、吉田大八は切腹させられた。やがて新政府軍の反攻に遭って9月に降伏。新政府の処断により、藩主織田信敏は弟寿重丸に家督を譲って隠居し所領2千石を没収された。しかし寿重丸は幼少であったので新政府の計らいで信敏が再任して藩主(藩知事)となる。藩知事は免職され同5年(1872)東京に引き上げた。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により天童藩は廃藩となり天童県となる。同年8月山形県に編入された。天童藩江戸留守居役であった吉田専左衛門は歌川広重と親交があったため、広重の肉筆画が天童広重と呼ばれる。祖にあたる織田信長は新政府の計らいで神号を下賜され、明治3年(1870)4月、舞鶴山(天童市)上に建勲神社が建立された。

(2020年3月7日10:20配信)