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7 歴史探訪『応仁の乱と足利将軍、そして明智光秀』

                 米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。


     
□訪問日:2018年2月23日~25日(2泊3日)

一、はじめに
 「応仁の乱」、日本の歴史上、これくらい訳の分からない史的事件はない。だが、これ以来、永い戦国期が始まったことは確かである。足利将軍家の家督争いに加えて、三管領(細川・斯波・畠山)と四職家(京極・山名・赤松・一色)の複雑な家督争いが交錯し、より一層事件を複雑にしている。抗争の舞台は京都、近江を中心に繰り広げられた。今回の歴史探訪はその舞台となった地に足を運び、その風土を感じ事件の一端に触れてみたいと思った。

二、行程一日目(2月23日)
  嵐山城―相国寺―大聖寺―上御霊神社―山名宗全邸跡―室町幕府跡

【嵐山城】
 バスを降りていきなり山城へ登るという強行軍である。左手に桂川を見てその土手沿いの道をバスは嵯峨の嵐山まで来た。渡月橋を渡ると小渡月橋のある北詰に至る。嵐山の急峻な斜面が眼前に飛び込む。その麓に法輪寺があり、その傍らから山上へ登ることになった。
ounin-1 モンキーパークの看板が目に入る。登山道が無いために、一行20人弱が一斉に山腹に這いつくばって山上を目指す。下を見ると恐怖心が湧いてくる。落ちたらどうしようと思いながら冷や汗をかきかき20分位だろうか、必死で上を目指す。何せ掴まるものがなく木の根などを掴みながらやっとの思いで登った。
(写真右=桂川)

 山上には石垣程度のものしかないようだが、山上本丸まで行けずに引き返す。眼下を見れば保津川と堰と桂川が一望できる。対岸の向こうには天龍寺の伽藍の屋根が手に取るように見える。遠く嵯峨野の清凉寺の屋根も望むことができる。のっけから大変な探訪になったものだと思いながら、滑り落ちるような急な山の斜面を麓に向かって降りて行く。これも危険であったがやっとの思いで無事に下りた。
 保津川の流れが穏やかであった。人出もそうない。だが外国人の観光客がやたらと多いのにはびっくりした。下から山上を見上げると凄いところに挑戦したものだと感じる。今までは紅葉の山としか見ていなかったのだから、不思議な気がする。

 嵐山城は明応6年(1497)、山城下五郡の守護代であった香西元長の築城とされる。香西元長は管領細川政元の家臣であったが、永正4年(1507)に政元を暗殺し、都の実権を握った。だが百々橋の合戦で澄元を支援した細川高国等に敗れ討死した。元長の死が嵯峨野に伝わると香西の悪政に耐えていた農民が蜂起して嵐山城へ押し寄せ、留守居の武士らを皆殺しにしたと伝わる。
 香西元長は室町幕府の実権を握る細川家臣団の中でも権勢を誇った実力者で、細川政元には実子が無かった為の家督争いが起きる。それは細川政元の養子澄之を擁した香西元長と細川高国が擁した政元の養子澄元との勢力闘争である。
 永正4年(1507)6月、丹波守護が澄之側に付き、薬師寺長忠らと共に主君の管領細川政元を討ち、都の実権を掌握するが、同年8月には摂津守護の澄元を擁した細川高国等の攻撃を受け、京都遊初軒にて敗れて討死した。僅か40日余りで崩壊し政権に終止符が打たれる。元長の悪政・酷使に耐えていた西岡衆(向日市や長岡京辺りの国人衆)が蜂起して嵐山城に乱入し落城した。その後、嵐山城は細川晴元らが在城して断続的に使用した。

【相国寺】
ounin-2 嵯峨の嵐山から相国寺に向かう。京都御所を右手に見て、御所の北に隣接する同志社大学のキャンパスの中を北に進むと相国寺山門が見えてくる。
(写真左=相国寺)

 この寺も京都では余りにも有名である。京都五山の一つにして第2位にあり、臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号は萬年山、正式名は相国承天禅寺という。開基は足利将軍3代の義満である。開山は夢窓疎石で、足利将軍家や伏見宮家、桂宮家ゆかりの禅寺である。金閣鹿苑寺、銀閣慈照寺は相国寺の山外塔頭である。
 永徳2年(1382)、室町幕府3代将軍足利義満は「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。10年後に着工している。応仁元年(1467)には応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失した。(相国寺の戦い)天文20年(1551)にも細川晴元(澄元の子)と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失した。
 天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職になり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立された。法堂は慶長10年、豊臣秀頼の寄進により再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。法堂は桁7間・梁5間の2層の大きな建物で、白漆喰に覆われ黒い柱が立ち並び、側面に花燈窓が3基あり、黒と白のコントラストが見事なその壁面はとてもシンプルで、どっしり感が人の心を惹きつけてやまない。この一つが全てを表わすのが相国寺である。
 しかし何と外国人の参拝が多いのか。日本人が西南欧の教会に憧れるのと同じなのであろうか。仏教とキリスト教の違いは「人は死ぬと仏教では仏になる。だがキリスト教では神の下にすがれるが、神にはなれないという絶対的な違いがある。禅宗は自分の為のものであり、他人は入れない、入ってはいけない世界である。キリスト教は多くの人々を集める。「個の仏教・衆のキリスト教」と云えるのでないか。この仏教の本山の隣に同志社大学というキリスト教系の大学がある。考えようによってはかなり異質である。日本は宗教に無頓着故にこのような異質な風景が存在する。
 京都はその意味で何でも呑みこむ怪獣の様に思えてくるのは小生だけだろうか。これで足りずに日本古来の神道の本山の朝廷御所が同在している。仏・神・切支丹・同舟地が京都である。世界では見られない光景であろう。日本人の無節操さと無造作が際立つ所が京都かもしれない。日本人の生命力の根源でもあると言っても過言ではない。境内には足利義政が墓もある。「応仁の乱の張本人」と言ってもいいだろう。並んで歌人の藤原定家の墓もあるようだ。  

【大聖寺】
 臨済宗系の門跡尼寺で「御寺御所」とも呼ばれる京都の門跡尼寺の最上位に位置する由緒ある寺院である。室町時代の将軍足利義満の「花の御所跡」であり、今は石碑が立つのみである。開山は日野宣子で無学祖元の弟子意翁円淨に参禅して出家、義満が大聖寺を興している。北に隣接するのは同志社大学寒梅館という7階建てのレンガ造りの洋館の建物である。境内には人の気配は全然感じられない。車寄せのようなやけに大きい玄関が不調和のようにある。当時は足利将軍家の中枢になっていたであろうが妙に静かなのが気になる。
   
【上御霊神社】
ounin-3 今回の歴史探訪の一番のハイライトである上御霊神社に行く。以前から来てみたいと思っていたがなかなか来れずにいた。まさに「応仁の乱」が勃発したその地である。
(写真右=応仁の乱勃発地の石碑が立つ上御霊神社境内)

 感動した。史跡廻りをしていてもそうは感動などしないものだが、この度は違っていた。何故だろうか。京都は何回も訪ねているが、この地は自分を室町時代に連れて行ってくれるような気がするのである。
 上御霊神社は相国寺から意外と近くにあった。その小ささに相国寺の大きさと比べて驚くばかりである。だがその歴史的価値は相国寺の比ではない。圧倒的な迫力で迫ってくる。戦国時代より少し前のことで、歴史嗜好的にはマイナーであろう。多分関心を持つ人も少ないであろう。小生は前から大変関心を持っていた。だがこの時代を理解しないと次の戦国時代は見えてこないのである。
 神社の神門前に小振りな「応仁の乱勃発地」の石柱が立っている。本殿にて向拝した。神社は古びている。創建は貞観5年(863)であり、祭神は8柱あるが崇道天皇(早良親王、光仁天皇の皇子)・井上大皇后(光仁天皇の皇后)・他戸親王(光仁天皇の皇子)・藤原吉子(桓武天皇皇子伊予親王の母)・橘逸勢・文屋宮田麿・火雷神・吉備真備である。
 桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして貞観5年5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時慰霊された御霊は上記の8氏であった。
 文正2年(1467)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた。御霊合戦という。この戦いは「応仁の乱」の前哨戦となり、その乱発祥の地とされるに至った。          

【御霊合戦】
 応仁元年1月18日から19日にかけて、畠山義就軍と畠山政長軍がここ上御霊神社にて衝突したこの合戦を言う。享徳3年(1454)から始まった畠山氏のお家騒動は、室町幕府8代将軍足利義政の介入もあり、1度は畠山義就が当主となった。しかし義就は義政の命令を無視して大和への軍事介入を繰り返したため次第に信頼を失い、反対派が管領細川勝元の支援で畠山政長を擁立したので立場が危うくなっていった。
 長禄4年(1460)6月、紀伊根来寺と紛争を起こした義就は京都から紀伊へ軍勢を向かわせたが、軍事的空白に加え義政から見限られていた所を勝元につけこまれ、9月に義政から政長への家督交代を言い渡された。憤慨した義就はこれを拒絶して領国河内へ逃れ、嶽山城で政長ら討伐軍を迎え撃ち徹底抗戦した。その後、吉野へ逃れた。義就に代わり当主になった政長は翌年に管領に選任され、政長を中心に畠山氏を取りこんだ細川勝元の勢力は増大した。
 一方、斯波氏も畠山氏と同じくお家騒動で混乱していた。斯波義廉は幕府公認の鎌倉公方足利政知の執事渋川義鏡の息子という縁で義政から斯波義敏・松王丸父子に代わり斯波当主の座に収められたが、実父が政争を起して失脚したせいで義政から見捨てられることを恐れ、家臣の朝倉孝景とともに山名宗全ら諸大名と結び義政の妨害に動き出した。義就もその中の一人に選び、1465年頃に朝倉孝景を通して義就と提携、1466年には宗全の養女と婚約して派閥結成を進めていった。同年に斯波義廉が幕府の命令で当主を義敏に替えられると諸大名がこれに反発、宗全と勝元が結託して9月6日に文正の政変を起こし、義政の側近伊勢貞親らを追放した。
 宗全・義廉らはこれにとどまらず義就にも挙兵を促し、応じた義就は政変に先立つ8月25日に大和壺坂寺に出頭、9月に河内にも進出して政長方の諸城を落して回り、10月に大和で義就方の大和国人越智家栄・古市胤栄らが挙兵するまでになった。 その後、大和の争乱は十市遠清の仲介もあり収まるが、河内の義就はそのまま留め置かれ、12月25日に宗全の要請で河内から上洛、千本釈迦堂に待機した。危機感を覚えた政長は屋敷の防備を固めた。
 開けて1467年1月1日の椀飯は政長が無事に務めたが、翌2日に予定された義政の政長邸訪問は中止、代りに義就が義政と対面して畠山氏当主は実質的に義就に替えられた。5日に宗全邸を借りた義就が義政を饗応、翌6日には政長に屋敷を明け渡す命令まで届くに至り、命令を拒否した政長は家臣の神保長誠らとともに屋敷の防衛を強化したが、8日には管領を罷免され義廉に交替させられるなど立場が悪化していった。政長の管領罷免は義廉の家督保持を目的とした一連の工作であり、宗全ら山名派は主流派として幕府の権力を握るに至った。
 15日に宗全が椀飯を務める一方で花の御所を与党の軍勢で固め、対する政長の幕府襲撃の噂が絶えなかった為、義政は調停に動き、17日に勝元に政長の援助中止を命令、勝元も宗全の義就援助中止を条件に承諾した。義政が山名派に取られ、勝元の支援も打ち切られて追い詰められた政長は、18日午前に屋敷を放火、北上して京都郊外の上御霊神社に陣取った。上御霊神社は西が川、南は相国寺の藪大堀が引かれていたため、攻め口は東と北だけであった 
 政長と家臣の遊佐長直らは必死に義就方と戦い、19日午前まで持ち堪えたが孤立無援の不利な状況に変わりはなかった。拝殿に放火して勝元の屋敷に逃げ延びた。御霊合戦は義就の勝利に終わる。だがその後も両派は抗争を止めず大乱へと拡大してゆくのである。 

【山名宗全邸跡】
ounin-4 「応仁の乱は11年にわたり東軍と西軍が戦い、京都の町は壊滅的な状態となった。現在の京都市上京区の堀川上立売の辺りには山名町という地名が残る。ここに西軍を率いた山名宗全の邸宅があったことで知られる。民家の敷地に山名宗全の邸宅跡を示す石碑と京都市の案内板が置かれている。
(写真左=山名宗全邸址に立つ石碑)
                   

○案内板より
ounin-5 山名宗全は応永11年(1404)に生まれ名を持豊という。後に宗全と号した。赤ら顔であったので赤入道とも言われた。但馬をはじめ数か国を領し、強大な勢力を有していた。子供が無かった将軍足利義政は弟義視を後嗣にしようとしたが、その後義政の夫人富子に義尚が生まれた為、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、「応仁の乱」に発展した。義尚を擁する宗全はここの邸宅を本陣として室町今出川の「花の御所」に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間におよぶ戦いを繰り広げた。この為京都の町の大半は焦土と化した。この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)陣中で没した。宗全が幕府の西に陣を布いたので西陣と呼ぶ。この地で織られた織物は西陣織として発展し名前だけが今に生きている。

【室町幕府跡】
 幕府跡は東西を烏丸通と室町通、南北を今出川通と上立売通の囲まれた長方形の敷地であった。足利義満が造営した室町第のあった遺跡である。義満がこの地にあった光明院の御所の跡地を賜り、さらに菊亭公直の第地をも併せて、永和3年(1377)に造営に着手し、永徳元年(1381)4月に落慶供養の式をあげているので、工期は前後5ヶ年を要した。
 荘厳な寝殿造りのたたずまいの建築群のある広大な敷地には、賀茂川の水を引き入れ一町余りの池や石組みなどの王朝風の庭には四季の花を数多く植えたところから「花の御所」と呼ばれた。尊氏が幕府を開いた三条坊門の第から移って、ここで政務をみた。
 室町第の造営は南北朝内乱の統一の結果、幕府としての組織が確立し、新時代の到来を天下に誇示する意味を持っていた。三管・四職以下の諸大名や武家の屋敷もその附近に建てられ、又当時の皇居たる東洞院土御門内裏にも至近の距離にあるので、公家・貴族の邸宅も多く集まり、このため京都の町も北の方へ膨張するようになった。 さらに義満は殿舎の東に隣接して広大な規模で相国寺を建立し、晩年には北山に山荘を構え(北山殿)、その権威の象徴のように金閣を営み、ここで花咲いた文化を北山文化と称されている。
 義満はこの室町殿を子の義持に譲り、1398年からはこの北山で政治を執った。6代義教の代、永享3年(1431)、室町第は増築され、上立売を超えて広がったという。その後「応仁文明の乱」には天皇・上皇が乱を避けてこの第を仮皇居とされ、寝殿が清涼殿がわりに使われたが、やがて文明8年(1476)近くの土倉が放火され類焼してしまった。
 室町今出川の南の辻を総門の辻といい、今出川に南に面して室町第の総門があった。西の方に堀出し町の町名から、町は室町第の鎮守の八幡宮のあったところと見られる。今立っている所の南の北小路室町の西側は義政造営の北小路殿という別殿日野富子のあとで、文明8年には仮皇居にもなった。
 衣棚通今出川上る畠山町の東側は、管領畠山持国など数代の第地で、邸内には畠山ノ井があった。なお室町頭町の民家には金竜水という井戸があり、京の名水の一つである。畠山町の西側は伊勢貞宗の第がある。堀川上立売下西にある山名町は管領山名宗全の第跡である。「応仁の乱」の発祥の地の御霊の森は相国寺の北、上御霊神社にあり、足利幕府末期の将軍義輝・義昭の第(勘解由小路第)あとは、室町下立売下るにある。

【通り名】
 今出川通➭京都市街地北部の主要な東西の通りの一つ。東は左京区銀閣寺町の銀閣寺門前附近から、西は嵐電等持院駅の西側にある踏切付近までを称した。
 名称上立売通➭京都市街地北部の東西路。東は寺町通から西は千本通まで、通り名は商品の立ち売りに由来する。
 烏丸通➭京都市街地中央部の南北幹線路。北は今宮通から南は十条通南まで。平安京の烏丸小路にあたる。 
 室町通➭京都市街地中央部の南北路。北は北山通から南は十条通南まで。東本願寺、京都駅で中断。平安京の室町小路にあたる。

三、行程二日目(2月24日)
  千本釈迦堂―船岡山―瓜生山勝軍城―朽木旧秀隣寺―大溝城

【千本釈迦堂】
ounin-6 四条大宮のホテルを出て、上京区今出川通七本松上るに至る。今日の最初の訪問地は千本釈迦堂、別名大報恩寺である。参道を抜け山門を潜る。
(写真左=千本釈迦堂)

  鎌倉時代に造られ穏やかな勾配を持ち、入母屋造りの檜皮葺屋根の本堂が正面に見える。その質素で華麗な本堂は人の心を癒してくれるに違いない。拝殿に上がり思わず頭を垂れてしまう。仏教建築物のやさしさに触れる時である。
 本堂は応仁の乱などの度重なる災害にも焼けることなく残り、京都市内では最古の仏堂建築である。又本堂は国宝で檜皮葺、寝殿造りの由緒あるものである。藤原秀衡の孫にあたる求法上人義空によって創建されたという。上人は19歳の時、比叡山にのぼり天台密教を会得し、10数年後に寄進を受けたこの地に諸伽藍を建立したという。内陣には本尊の釈迦如来が祀られている。
 「応仁の乱」の際、この付近は西軍の中心部であったが、西軍と東軍の特別な計らいで庇護を受け、本堂が残された。本堂内の太い円柱には当時のものと思われる刀や槍によりつけられた痕がある。境内には北野経王堂がある。これは「明徳の乱」で戦死した山名氏清を弔うため、応永8年(1401)、足利義満が内野に建てたが、後にここに移した。「明徳の乱」とは山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。

【船岡山】
ounin-7 千本釈迦堂から近くに船岡山がある。幾度となく京都を訪れているが、船岡山は来たことがなかった。近くの大徳寺や北野天満宮には来ているが、この船岡山には縁がなかった。今回来てみて山頂からの眺望は予想以上であった。
(写真右=船岡山)

 北から南方面へ遥かに望み、西に双ヶ丘や仁和寺の五重塔を遠望し、そのずっと奥に嵯峨の嵐山を望むことができる。勿論、北東の山麓には大徳寺の伽藍がよく見える。改めて京は三方を山に閉ざされている状況を確認する。
 秀吉は天下掌握の為にこの京を押えた。天正19年(1591)外敵の来襲に備える防塁と、川の氾濫から都を守る堤防として土居が築かれた。一方で朝廷を押える為か京の町に土居を巡らすが、聚楽第と内裏を中心に総延長22キロに及んでいる。秀吉は北にこの船岡山を巡らすようにお土居を築き、北の天満宮の西側に今も土居跡が残る。最北部は鷹ヶ峯の方まで伸びている。東は鴨川の左岸沿いに築き、南下して九条辺りで下辺を形成している。昔の京都の賑わい部分を囲んで網羅している。平安京の左京区だけが人が住んでいたその部分を土居でガードした形である。
 右京区は湿地帯で人が住めなくて左京区に居住民が移動したのだという。都市改造は秀吉が大々的に行った。大して大きな丘ではないが、中には沢山の歴史が詰まっていて、京の重要ポイントであることは間違いない。

〔歴史ポイント〕
1保元の乱(1156)、保元の乱に崇徳上皇に味方して敗れた源為義の息子達は、後白河天皇方について勝利を得た嫡男義朝と伊豆大島に流罪となった為朝を除き、9名の兄弟がこの船岡山にて兄義朝の手により斬首された。
 崇徳上皇(敗者)vs後白河天皇(勝者)
 藤原頼長・源為義・平忠正vs藤原忠通・源義朝・平清盛

【平治の乱】では源義朝vs平清盛
 平家が台頭し、武士達が力をつけてゆく。                               
2応仁元年(1467)、山名宗全持豊が率いる西軍の拠点
 応仁2年(1468)、東軍の細川勢の攻撃で落城。
 
3永正の乱(8年、1511)足利政権抗争
 足利義澄入京、足利義稙は一時丹波に逃走。義稙は軍勢を集めて入京し、義澄軍を船岡山で破る

船岡山考 地元誌より
 千本通の真北、蓮台野の東に位置する標高112m、比高40mの孤立した丘陵である。長い地質学の歴史上、京都盆地に置き忘れられた丘である。山としてはすこぶる小さい。頂上から市街を一望することができる。衣笠山から竜安寺の森を隔てて仁和寺の五重塔、さらに兼好法師ゆかりの双ヶ丘(ならびがおか)の展望は煙雨の時など見事な水彩画を見る心境なり。清少納言をして「丘は船岡」と言わしめ、この丘は王朝貴族の遊宴の地とされていた。
 又古来清浄の地として祭祀が行われ、古くは貞観元年(859)陰陽寮に命じて五穀を食い荒らす害虫を払う祭りを行われたことがあり、今宮神社の疫神もはじめは船岡山に於いて祀られたものである。大文字の送り火の夜、この山は最も多くの人で賑わう。五山のうち、鳥居だけが見られない。岩盤は2億年前に堆積した硬い岩石チャートであり、双ヶ丘と同じ地層である。水晶が採集もされている。山頂の露岩は盤座信仰を偲ばせる。

〔船岡山の起源〕
 山の形が舟を伏せたように見えることから呼び名がついたという。実際は一向に似ていない。今宮神社通りからの登り口北側から東にかけて、昔は池があり、舟が浮かんでいるように見えたという。又、堀川の源流はこの山の南斜面の湧水という。
 古来より葬送の地や刑場であった。古より都の3大葬送の地は東の鳥辺野、西の仏野とここ蓮台野であった。船岡山は火葬の地として知られ、多くの人々が此の山周辺で火葬された。現に今でも歴代天皇・皇紀の御陵が点在している。無数に立ち並ぶ卒塔婆に因んで千本という地名もついたとも言われている。(上品蓮台寺・十二坊)千本通りは平安京の朱雀大路だから蓮台野は平安京の背中の部分にあたる。それと紙屋川の流域でやや低地になっているのも、葬送の地になった理由であろう。低地であり蓮が生えていて地名の由来になったのだろう。
 平安中期頃から末期に至る160余年間葬送の地であり、明治3年に廃止になり竜安寺に移されたが、その後金閣寺裏蓮華谷に移された。千本通りには千本閻魔堂や引接寺釘抜き地蔵、上品蓮台寺など葬送関係の施設が残っている。
 又、船岡山は刑場でもあった。中でも保元の乱に崇徳上皇に味方して敗れた源為義の息子たちは、後白河天皇方について勝利を得た嫡男義朝と伊豆に流罪となった為朝を除き、9名の兄弟がこの船岡にて兄義朝の手により斬首されている。

〔四神相応の地 玄武〕
 山頂に盤座があり、古くは信仰の対象であったと言われる。船岡山を大内裏のうしろ、北にひかえる玄武として位置づけて、船岡山を基点にその正面の方向に朱雀大路を定めたという考え方がある。

【船岡山城跡】
 中世室町時代以降の船岡山は、特に戦略の場として用いられた。応仁元年(1467)の応仁の乱に大内政弘、永正8年(1511)には細川政賢、天文22年(1553)には足利義輝らがそれぞれ陣を置いている。
 「応仁の乱」には山名宗全の率いる西軍の拠点となり、乱後は永正8年(1511)8月には前将軍足利義澄が入京して来たため、将軍義稙は細川高国などと一時丹波に逃げ落延びた。軍勢を集めて入京するや船岡山に義澄軍を破るという戦いがあるなど、大変な歴史を背負った山である。建勲神社裏西側の神域には今でも堀切・竪堀・横堀・竪土塁等が残る。

【建勲神社】
 明治天皇は織田信長の業績を追賞して社殿を創建させた。はじめは天童藩織田家邸内にあったが、明治13年、船岡山の東麓に移し、次いで現在の山上に遷したものである。本殿には信長を主神とし、その子信忠を配祀している。社には太田牛一の信長公記や桶狭間の戦いで使用した旨の金象眼がある刀や鎧の紺糸威胴丸がある。建勲神社は御所に向かって建っている。織田木瓜の家紋が鮮烈である。

【瓜生山勝軍山城 北白川城本丸跡】
ounin-8 室町将軍直轄の城で、応仁の乱時点では細川高国・六角定頼らが拠点とした。15代義昭も拠点とする。一條寺下り松の史跡ポイントから更に上に行くと詩仙堂が右手に見えてくる。秋の紅葉で有名である。今は人出が無く静寂である。
(写真左=瓜生山勝軍山城に向かう)

 もう少し上ると狸谷不動院がある。ここは初めてだ。比叡山の西山麓にあたるのだろうか、行く先は瓜生山である。そこに不動院の奥院があるが、応仁時代はそこが勝軍山という古城跡である。不動院までは石段を250段ほど上がるというきつい上りである。登り口に御払い殿が新造されていた。
 階段の始めには歌舞伎の中村錦之介らの石柱が沢山あった。ここは災難除けの不動として知られる。芸能関係に御利益ある不動尊なのであろうか。勝軍山という名前もあり、阪神タイガースの石碑も立っていた。小生にも守り本尊である。有難い所である。250段をやっとの思いで登り切ると不動院がある。清水寺のような懸造りの小振りの様式である。崖の上に舞台が突き出た寺院である。早速、お参りした。ここから100m程上ると山上である。これもきつい。
 山上には遺構が残る。堀切・竪堀・切岸・曲輪など結構ある。山上に不動尊の奥の院がひっそりと佇む。ここから西へ京の町を遠望する。いい眺めである。"京は盆地なり"と実感する。

○案内板より 「瓜生山頂」の説明

 日本列島がまだ現在の形におさまらない遥かな昔、この瓜生山の下へマグマが貫入してきて比叡山より高い山が出来た。隣の大文字山北側や比叡山お裏側では高熱の為、特殊な変成岩ができた。貫入したマグマは冷却して花崗岩となった。上に冠った古代層が流れ下り、露出した花崗岩も又太陽熱と雨水に浸食された。
 この地白川扇状地は今から1万年前も昔、縄文時代の原始人にとって好適な生活の根拠地となった。この山が埋蔵する花崗岩は白川石として極めて良質であったから、平安時代以降、宮殿や寺院建築建材に、また石仏や石燈籠など工業的に利用され、千年の都人の生活を豊かにした。更にこの瓜生山上には室町時代になると再々城郭が築かれ、南の如意ヶ岳とともに足利将軍家、細川管領、三好長慶、松永久秀らが攻防を繰り返した。近江の戦国大名六角定頼がここへ改遷したという勝軍地蔵は、江戸時代に入っても京の人々の守りとして信仰深く続いた。
 瓜生山は左京区北白川の北東にあり、標高294m 勝軍地蔵山とも。応仁の乱後、将軍足利義晴が籠った古城跡である。細川高国が1527年に築城した。山頂から比叡山、大文字山が見える。

【朽木氏館跡 旧秀隣寺】
ounin-9 今から20年前にこの地を訪れたので今回で2回目である。前回は小和田先生とともに「元亀・信長覇業の道を訪ねて」というテーマであった。
(写真右=旧秀隣寺庭園)

 鯖街道の熊川宿から京都へ向う途中にこの朽木に立寄り、興聖寺に入り足利庭園を鑑賞するとともにご住職の法話に耳を傾けた。つい最近の如く思われるが20年も前の事である。小生も53歳と若かった。今回は雪の中に寺があった。何故か物凄く侘しい感じを受けた。当時より寺勢が落ちているのかもしれない。ご子息の住職さんの奥様が説明してくれたが、インパクトが弱い。
 かつての足利庭園の石庭は当時のままであるが、紅葉シーズンでもなく美しさは拾えない。借景の比良山系も雪を得て寒い景色だけが目に飛び込んでくる。当時は5月で新緑が生えそろい本当に美しく感じたものである。案内板も時が経過して文字も読めない。朽ちている。朽木という所だが木地で栄えたという。安曇川を山から伐り出された木材が流れ下り、琵琶湖に集められやがて京へ運ばれるのである。安曇川だけが昔のまま清い流れであった。

ounin-10 近江源氏の流れを持つ朽木氏の館跡、細川晴元と対立した足利義晴が避難した所。
(写真左=朽木陣屋跡)

 朽木は守護不入の地(将軍直轄地)であり、朽木氏は六角氏に属さず将軍の配下であった。だが六角氏は朽木氏にあれこれ命令する。朽木氏からはクレームが出ている。将軍の疎開先は近江内でも自分の直轄地に入ることを原則とする。しかし六角氏の軍事力が無ければ疎開自体は成り立たない。京で三好氏らに追われて将軍はたびたび近江に逃げる。朽木谷や観音正寺に疎開幕府を置くが、いずれも六角の勢力範囲であり、六角氏に支えられて室町幕府は存続したのである。かつて上洛した上杉謙信の本陣も六角の勢力範囲だった。
 上杉謙信と上方を繋ぐのは(取次)、六角氏の重臣河田氏の仕事。河田氏は細川氏との取次も行っている。河田氏は南近江の在地領主である。薬師寺領の別当を務める。だが河田氏は六角氏とともに消える。近衛家の取次も河田氏かもしれない。琵琶湖の南部又は全部の水運権を持っていた家であろう。守山近くの川田郷の出身である。水運は一向宗と関連が深い。守山と坂本の間は東山道の渡し場。信長が上洛した時点にもここを通過し、守山に宿泊。坂本の目代(幕府代官)に船橋家がある。謙信が上洛した時点に船橋家目代屋敷を本陣にした。近衛前久はここで謙信と初対面。坂本は六角の勢力範囲ながら守護不入の地である。

 六角氏➭将軍家や近衛家と婚儀を進め、周囲の守護家とも同盟婚を進めた。謙信の上洛には加賀・越前・若狭・近江の通行権が必要であるが、六角家のネットワークがそれを助けている。六角は近衛家の取次的機能を持っていたのかも知れない。プランがあっても実行者がいないと、事は進まない。近衛前久が地方へ行動を起すとき、貴人のルート確保は至難。これをやってのけるのは六角氏であり、実行は六角の家臣が動く。前久はこの形で確保できたルート以外は動けない。

旧秀隣寺➭12代将軍、足利義晴が三好元長の京への乱入を避け、朽木氏を頼り此の地に移る。その居館に造られたのが庭園である。今の寺名は興聖寺であるが、以前は秀隣寺といった。 

【大溝城(高島城とも)】
ounin-11 湖西の府、高島に入る。朽木を安曇川沿いに琵琶湖を目指すと、高島の市街地に至る。市街地の南方に大溝城跡が残る。
(写真右=大溝城跡)

○案内板より
 大溝城遺跡は比良山地と琵琶湖との間に広がる高島平野の南端に当り、琵琶湖北西岸にせり出す白髭明神崎の北側に位置する。大溝には古代北陸道が通るとともに、湖上交通の拠点として知られた勝野津が比定されるなど、古くからの交通の要衝にある。
 天正6年(1578)、高島郡支配の拠点を目的に築かれた大溝城は、天下統一を目指した織田信長による琵琶湖掌握を目的に築かれた4城郭〔安土城・長浜城・坂本城・大溝城〕の一端を担う拠点の城のひとつである。甥の織田信澄(信行の子)を城主とし、城の縄張りは明智光秀と伝えられている。安土城と同じ文様の瓦を使用していることから、築城には信長の影響を大きく受けていたと考えられる。信澄が築いた大溝城の全貌は明らかではないが、現在天守台の石垣が乙女ヶ池に隣接して残ることから、内湖を巧みに利用した水城であったことが分かる。天正10年(1582)、織田信長が明智光秀に攻められ本能寺で自害すると、光秀の娘婿であった信澄は織田信孝・丹羽長秀に襲撃され大坂城で自害する。
 信澄以後、大溝城は丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次、織田三四郎(織田氏の一族)、岩崎掃部佐らが城主となる。文禄4年(1595)頃からは大溝城は取り壊され、その部材は甲賀の水口岡山城に移されたという。
 元和5年(1619)、分部光信が大溝藩主として、京極氏に替わり伊勢上野より2万石で入封し、織田信澄が築いた大溝城西側一帯に大溝陣屋を構え、城下の整備に務めた。廃城後、本丸や天守の主要施設は解体、移築された。天守台はほぼ現状を保つ形で残され現在に至る。城郭を画した本丸石垣や堀(内湖)は埋め立てられ、周囲一帯は市街化および耕作地化が進み、現在に至る。
 余談であるが、京極高次の正室となったお初(浅井長政次女、長女は秀吉の側室茶々姫、三女はお江、秀忠正室)はここ大溝城で結婚生活を送ったという。関ヶ原に際し、お初は姉の淀君方に属し、家康の側室阿茶局と交渉につく。何と言っても織田信澄がここでは有名。信長が殺した弟信行の遺児である。信澄は池田恒興が育てる。信長は後に取り立て高島郡の将磯部員昌の養子に入れる。信長に家督を信澄に譲れと命じられ、これを拒否した員昌は追放された。員昌が出た後に城主となる。だが光秀の娘を妻にしていたため難に遭う。
 
 バスを降りると大溝城跡の石柱が出迎えてくれるがこの辺はかつては城内三ノ丸であったろう。老人ホームの西北側に荒れた原野、二ノ丸にあった。その奥に苔むした天守の石垣が崩れながら現存し、大木に破壊された野面積みの石垣が史を感じさせる。北に堀(内湖)があり今も水量が豊富で、当時は琵琶湖と水上的に繋がる水城であった。この様な城は他に光秀の坂本城、信長の安土城、秀吉の長浜城等があり、近世では井伊家の彦根城も琵琶湖と繋がるというまさに、琵琶湖湖岸に築かれた城は全て船の出入が可能な水城であった。即ち琵琶湖の湖水を城内に取り入れていた。内陸にある佐和山城でさえも山麓から細い堀で琵琶湖と繋がるというものであった。
 高島地域は古くは磯部氏が支配し、その後に織田信澄が支配した。湖西の高島一帯は北陸の気候に似て、湖南が晴れていても湖北は曇天という明らかな差がある。朽木には残雪が未だ多くあり、安曇川を下ると視界が急に開ける。高島の対岸は米原辺りになる。いつの日か磯部氏の居城新庄城にも足を入れてみたい。

四、行程三日目(2月25日)
  雄琴温泉―坂本城跡―尾山城跡―守山本願寺―園城寺

【坂本城跡】
ounin-12 ここにも20年前に訪れた。この辺りは光秀ゆかりの史跡が多々ある。
(写真右=坂本城跡)

 後背の比叡山は信長に命じられて火を放った有名な焼討ち事件の舞台であるし、この行賞で光秀は坂本の地を与えられ、湖畔に坂本城を築き一国一城の主となった。長い流浪の前半の生き様から見れば、例え信長の冷たい仕打ちに遭おうとも、己の器量・才覚を重用してくれて評価してくれる信長はやはり最良の主君であったに違いない。
 だがこの10年後には本能寺に信長を急襲し討っている。この間にどのような心の変化があったのだろうか。坂本城から少し北へ西教寺という光秀の菩提寺があり、そこには光秀の一族の墓がある。本当のところは一体何だったのか、光秀に聞いてみたいが境内は静寂さに溢れ、下司の思惑など一顧もないに等しい。坂本城周辺は以前と比べかなり整備され歴史公園になっていた。本当は湖底に沈む石垣跡などが見れる筈だが一向に分からない。

○坂本城の前後の経緯
 元亀元年(1570)6月、織田信長は北近江の浅井、越前の朝倉の連合軍と「姉川の戦い」で辛勝した。浅井・朝倉軍はその後も抵抗を続け、8月には宇佐山城攻めで守将の森可成を戦死させ、信長の弟信治をも戦死させた。そしてその9月には琵琶湖南岸の比叡山に籠城した。信長は比叡山に中立・開城を呼び掛け、浅井・朝倉軍を匿うならば焼討ちにすると通牒した。
 この年は正親町天皇の勅命により一旦和睦し双方とも撤退した。翌元亀2年(1571)9月12日、信長は比叡山に向けて突如侵攻を開始、比叡山の門前町である坂本の町を焼き、学僧・僧兵をはじめ比叡山に逃げた住民など4千名を斬殺、約3千あったという堂塔伽藍は悉く焼き尽くされた。
 この後、坂本の治安と近江から京への街道確保の為、信長は明智光秀に志賀郡5万石を与え、宇佐山城から移り新たに坂本城の築城を命じた 坂本城は当時来日していた宣教師、ルイス・フロイスの日本史の中でも安土城に次ぐ美しい城と礼賛されている。
 天正10年(1582)、安土城に伺候した徳川家康饗応のため、安土城に居た光秀は信長より備中高松城攻めの羽柴秀吉に対し、援軍として出陣することを命じられた。
 5月17日に坂本城に戻った光秀は、5月26日、坂本城を進発し、丹波亀山城で軍備を整え、6月1日夜半に出陣したが、そこで軍を京都に進め、翌6月2日早暁、わずかな供廻りしかいない信長の宿所、本能寺を急襲、信長・信忠父子は自刃した。 変の後、光秀は坂本城入城、安土城や近江の諸城を接収し、近隣の土豪や自らの与力大名衆、反信長勢力に協力を呼び掛けたが、細川藤孝、筒井順慶など頼みにしていた武将達の援軍が得られず、その間に毛利氏との講和をまとめ、備中高松城から転進した羽柴秀吉と、6月13日山城の山崎付近で激戦となった。
 敗れた光秀は勝竜寺城に籠り、夜間に坂本城を目指して間道を撤退中、伏見郊外の小栗栖の森で土民に襲撃され落命した。光秀の甥秀満(光春)は安土城でその報を聞き、6月14日坂本城を目指して撤退を開始したが、陸路は羽柴軍に抑えられていたため、琵琶湖の浅瀬を騎乗で渡り、坂本城に入城した。
 しかし羽柴軍の武将、堀秀政らに包囲され、6月15日、秀満は明智家の重宝を目録ともに寄せ手に渡した後、光秀の妻子らを刺殺、城に火を放ち自らも自刃した。落城した坂本城は後に修復されて、丹羽長秀に与えられたが、天正14(1586)、大津城築城にあたり破却され、用材は大津城に移され坂本城は廃城になった。

【尾山城跡】
 坂本城跡を発ち北上し堅田から琵琶湖大橋を渡るとそこは守山である。大津を迂回してここまで来れば結構時間がかかる。その意味で琵琶湖大橋は便利な橋である。勿論戦国時代にあった訳ではなく、橋は昭和39年に架けられている。あっという間に対岸の守山に入ることができる。
 守山から琵琶湖の東岸沿いに北上し近江八幡市に入ると、長命寺山の南に港があり、その更に南の窪んだ入江の陸地に、この岡山城がある。山は3つの頂きになり、その真ん中の主峰に城跡がある。比高90m程である。山上まで直登で挑む。正式には水茎岡山城という石柱が立っていた。
 城内に入ると竹が一面に生え土は乾燥している。大形の土塁が北西側にぐるりと廻され、その下に曲輪跡が続いている。堀切と竪堀も施され、高貴な人の住居跡が見られる。足利将軍ゆかりの城とのこと。造りもしっかりしていて六角氏が将軍の為に築城したようである。11代将軍義澄がここで死に、その子義晴が生まれたという。実に歴史的な古城なのだが余り表には示されていないという。(藤井先生談、今後城郭史で公表すべきだろうと)
 南北朝時代、近江南部を治める佐々木氏が琵琶湖の水上警備の為に築城した。本格的な築城は永正5年(1508)、室町幕府11代将軍足利義澄が城主九里信隆(六角氏被官)を頼り、都落ちし水茎岡山城に入った頃に行われた。永正7年(1510)、幕府軍3千に城を包囲されるも信隆はこれを退けている。永正8年(1511)には当城で後の12代将軍足利義晴が誕生した。又同年、足利義澄は帰洛を果たせぬまま当城で病没した。
 永正11年(1514)、信隆が六角高頼に謀殺され、永正17年(1520)信隆の子淨椿は六角高頼・細川高国の連合軍に敗れ落城した。1525年には九里氏の残党が城に立て籠もるも敗れ、九里氏は滅亡した。
 築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。今は陸続きになり周辺は美田に変わっている。近くに近江富士の三上山がある。絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。
                                   
【守山本願寺】
 河田氏は六角家の重臣である。その拠点は琵琶湖に流入する野洲川の左岸にある川田部落であるという。ここから北東に右手に観音寺山、左手に八幡山を望むことができる、近江平野の中心にあたる。この集落に本願寺があり、そこが河田氏の居館があったのではないかと藤井先生は推察していた。
ounin-16 琵琶湖には100位の大小の河川が流れ込み、たった一つの川、瀬田川(宇治川)が琵琶湖水を外へと吐き出している。昔は水位が今より1mほど高く、その為に湖岸周辺は溢れた水で苦労し湿地帯が広がっていたという。明治以降に水位を下げる土木工事が施され現在のような琵琶湖ができたという。それ故に琵琶湖も今より大きかったとも。
(写真右=大庄屋諏訪家屋敷)

 同時に湖岸には水城として、多くの城が築かれることとなった。守山本願寺の隣に大庄屋諏訪家の屋敷があり、これを守山市が長く保存する為の改修工事をしていた。萱葺屋根の文化財であろう。屋敷内にある古い墓も室町時代ものとされ、相当の歴史を有した屋敷であることが分かる。この屋敷の前に堀があり、琵琶湖に繋がっていたようだが、今では水位が下がり舟の往き来もままならずだが、当時は物資の搬入出に賑わっていたのかもしれない。
ounin-13 本願寺も東西別院が隣り合わせに建てられている。京都西本願寺の流れを汲む赤野井別院があり、伽藍の一角に太鼓楼を有しているという本格的なものである。太鼓楼は戦いの際に太鼓を乱打し、信徒に集合をかける為である。一向宗徒は信長と対立したが、その襲撃を予想しての備えなのであろうか。
(写真左=赤野井別院)

 それと予想外の収穫があった。それは境内に教如の墓があったことである。 これはとても歴史探訪的には意義あるものであった。ouninn-14教如は父顕如が信長と和睦し石山本願寺の地を離れたことに抗議し、信長に反旗を翻した。顕如は教如を追い、その弟の准如を後継者に立てた。こうして西本願寺は続いてゆくが、秀吉はこの西本願寺を後援した。だが家康は西本願寺の勢力が強くなることを恐れた。こうしてできたのが東本願寺であり、ここに教如を配した。
(写真右=教如上人の墓地を示す石碑)

 東西本願寺どうしで牽制し合うやり方を考えた家康もまた凄い政治家と云えよう。道をはさんで東本願寺の流れの大谷派本願寺がある。本堂はほとんど同じだ。何れも本願寺系の寺は屋根が大きいことである。他宗派の寺とは大きな違いである。蓮如の布教拠点はあくまでも前の西本願寺であった。
ounin-15 蓮如は京の大谷から堅田に移り、その後は越前吉崎に行く。戻って山科に入り、さらに大坂へ移動し石山に本願寺の拠点をつくる。こうして石山本願寺ができるのである。この石山を信長が狙って本願寺との抗争が各地で10年続くことになるのである。蓮如は若い頃から守山に京都から足を運んでいたという。
  その為、琵琶湖東岸周辺は本願寺門徒で溢れたらしい。この時できたのが赤野井別院である。蓮如の六男蓮淳が初代住職を務めた。
(写真右=教如上人の墓)

【園城寺】
ounin-17 旅の最後は大津の三井寺、別名天台宗園城寺である。正式名は長等山園城寺という。ここも幾度となく来ている。京や奈良とは違って広大な敷地を有し、鄙びた伽藍の集まる園城寺である。「三井の晩鐘」という近江八景の一つになっている。
(写真左=園城寺山門)

 本堂は国宝で金堂とも言われる。本尊は弥勒菩薩だが、寺伝によれば天智天皇の御念持仏ともされる。667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれた。672年に天智天皇の没後、大友皇子と大海人皇子が皇位継承を巡り壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔う為に、田園城邑(でんえんじょうゆう)を寄進して寺を創建し、天武天皇から園城という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされている。
ounin-18 三井寺と呼ばれるのは天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり、御井の寺と呼ばれていたのを後に智証大師円珍がこれを利用した。智証大師円珍は園城寺を天台別院として中興されてから、東大寺・興福寺・延暦寺とともに本朝四箇大寺(しかだいじ)の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきた。
(写真右=園城寺内に展示されている信長の単袴の複製)

 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、993年、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し、天台宗は二分された。
                                        
(補)足利将軍
 1   2   3   4   5   6   7   8   9
 尊氏――義詮――義満――義持――義量――義教――義勝――義政――義尚
 
   10  11  12  13  14  15
 ――義稙――義澄――義晴――義輝――義栄――義昭
                  

義稙の改名➡義材よしき →義尹よしただ→義稙よしたね
義澄の改名➡義遐よしとお→義高よしたか→義澄よしずみ

(2020年3月23日17:00配信)