米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘
寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。
●日 程
2019年7月29日~7月31日
●目的地
《加賀・吉崎・丸岡・福井・一乗谷・大野・郡上八幡》
●行 程
米沢〜小国経由〜荒川胎内IC〜(北陸道)〜加賀IC〜大聖寺城址〜吉崎御坊〜丸岡
城・称念寺〜福井市;福井城址・北ノ庄城跡〜一乗谷朝倉氏館跡〜越前大野市;大野城・朝倉義景墓〜(九頭竜街道)〜郡上八幡市;八幡城・城下町〜郡上八幡IC〜(東海北陸道)〜小矢部JC〜(北陸道)〜新潟JC〜(磐越道)〜会津若松IC〜喜多方経由〜米沢 走行距離1,240キロ
久方ぶりの越前探訪である。過去に2度探訪して以来であるが、1回目は1991年に敦賀から今庄方面へ、2回目は1992年に福井、越前方面だったが、何せ30年近く前のことであり、史跡そのものが大きく変わっていた所と、そうでない所に分かれているのではないかと予想する。わくわく感で気持が昂ぶる。
米沢から一気に北陸道の加賀ICまで走り、ここで下りて探訪を開始する。今回の旅の目的は3つあり、1つには以前から行って見たいと考えていた吉崎御坊跡、つまり浄土真宗の名僧蓮如「ゆかりの地」をこの目で確かめてみたいということ。2つには空白域であった越前大野と美濃郡上八幡に行って見たいというものであつた。3つにはかつて30年近く前に訪れた、丸岡城、福井城、北ノ庄城跡、一乗谷朝倉氏館跡がどのように変わっているのだろうか、ということを確認したいという思いがあった。
びっくりしたのは福井駅と駅前の変貌であった。駅からすぐの福井城址への道がきれいに整備され、城内の旧本丸跡に福井県庁と県警本部が新しいビルに建て替えられていたこと。又福井駅舎も北陸新幹線の福井延伸に合わせて新しくなっており、壁面には福井の特徴である恐竜の絵がダイナミックに描かれていたことであった。
(写真右=福井駅前)
また駅前広場には大小の恐竜模型が設置されていたことである。"福井に来た"ことが直ぐ分かるというインパクトがある。果たして山形駅や福島駅とか、旅人に訴えるインパクトのあるものが備えられているだろうか、と自問してしまう。
北陸3県は明らかに東北の諸県より「ある種の豊かさ」を感じることができる。それは果たして何故だろうと思う。北陸と言えども古くは大和朝廷の支配下にあり、古代律令制下における五畿七道の一つ、北陸道"ほくろくどう"として呼ばれていた。関東や東北などは東山道として"十把一絡げ"され低く扱われていた。東北とは格がそもそも違っていたことが要因としてある。「越前福井・加賀石川・越中富山・越後新潟」はそれ故に東北とは一味も二味も違う文化圏を形成していた。
加賀と越前の国境にある吉崎には"蓮如"ゆかりの仏教、浄土真宗の一大布教の聖地があった。日本には古代から朝廷・武門・宗門の3大権威があり、民の上に厳として存在していた。だが戦国期になると朝廷の力は衰え、武門と宗門が幅を利かせるようになる。
(写真左=蓮如の像)
中でも浄土真宗の一向一揆は大きな武装勢力として台頭し、越後の上杉謙信、尾張の織田信長、三河の徳川家康らがその対応に大変苦慮した。甲斐の武田信玄だけがこの勢力を巧く利用した。だが信長だけは違っていた。「胡乱臭い宗派と決めつけ、武力をもってこれに対決し、宗徒の「皆殺し」という手段で撃滅した。
この「一向一揆」を大きく強力にせしめたのが第8代宗主蓮如である。蓮如は布教地点を京都の大谷から近江の堅田に移し、さらに越前の吉崎に移して飛躍への足掛かりを得た。北陸のこの辺りには当初、宗徒を押える強力な武門がいなかったからである。そのため浄土真宗を広めるには好都合の地であった。蓮如はここ吉崎に4年ほどいたが、又移動する。
次は京の山科だった。最後が摂津石山であり、ここで浄土真宗は最盛期を迎える。"石山本願寺"という「一向一揆の総本山」が生まれるのである。
そして、武門にとって「憎っくき存在」となる。「浄土真宗中興の祖」と呼ばれる蓮如に興味があり、彼の布教軌跡を確かめたいと思い来たのだが、どういう訳か御坊一帯が深と静まりかえっていて観光客もほとんどいない。浄土真宗特有の豪勢な寺院等が厳として林立していた。当寺は城郭寺院が築かれていたというから、武門にとり侮りがたい存在として認識されていたのであろう。吉崎山の一角に蓮如の布教活動ポイントがあり、そこに蓮如像が立っていた。小高い山であったが前には北潟という大きな池がある風景だ。この辺りは日本海に近く、"潟"という湖沼が多数存在していた。風光明媚な土地柄である。
感動したのは越前大野城と郡上八幡城である。どちらも2百から3百メートルの小高い山上に天守が築かれおり、城下のどこからでもその天守を眺めることができると言うことである。
(写真右=越前大野城)
「城下町の原点」とでも言うべきか、市民はいつでも城と共ににあり、そして生きているということを実感として感じた。米沢にはない景観であり、"羨ましい"とも思った。特に郡上八幡城は標高350mの山上に天守があり、その真下の城下町は長良川の支流で清流吉田川の河岸段丘上に作られ、決して広いとは言えないが、その町は昔のままの家並と小路が時代に取り残されたかのようにあって、人々がそれに溶け込んでいる。寧ろ"時代に取り残しておいてくれ"とさえ訴えているかのように思えた。
天守から見下ろす郡上八幡の町は険しい山々の重なりの麓に、大小の川と町が混在して窮屈な感じさえする。だが水の瀬音が至るところで聞こえ、軒下の狭い水路でさえ清く澄んだ水が勢いよく流れ下る。大河長良川の上流にあり、兎に角澄んだきれいな水が町中に溢れている。あちこちの城下町を見て回ったが、ここ郡上八幡は噂通りの良い町で、妙に懐かしい風情を持っていた。当然道は狭く不便だが、家並には卯建のようなものが設けられ、防火の備えもあるようだ。又有名な宗祇水という清水が湧くスポットがあり、昔のまんまの姿で生きていた。環境省が全国名水百選の第1号に選んだのが、この宗祇水で放浪の連歌師として知られる宗祇がこの地に3年ほど滞在していた時、この湧水を愛飲していたことで名前が付けられた。
街のあちこちに水舟という木製の2槽からなる水槽が置かれていて、上から下に流れる仕組み。最初の水槽はきれいな水で飲用できるが2槽は洗い用となっている。水を大切に利用し合理的に扱う生活習慣が今も脈々と息づいている。少し賑やかな通りには「郡上踊り」の大きな提灯がぶら下がり、今が丁度その時のようである。盆には徹夜で踊るという。「天守閣と城下町と盆踊り」はまさに古の日本の姿の原点を見出した思いがした。とにかく「奥美濃」は甚だ水がきれいだということであり、郡上八幡は町屋と水路が調和した古い町並みが素敵であった。
やはり標高250mの山上に立つ大野城も印象的である。福井から九頭竜街道を東へ、途中に九頭竜川沿いに車を走らせ、美濃の険しい山岳地帯を抜けると突然、大野盆地に出る。直ぐに山上に立つ大野城が目に飛び込んでくる。東北地方にはこういう景観は少ない。早速麓の駐車場に車を停め、登城につく。比高は100mほどで適度な高さがある。本丸は細長い曲輪になっていて、感動したのは見事な「野面積み石垣の天守台」であった。時間の経過で色が変化しているも中世の石垣の手本のようなものであった。
城下はきれいに整備され、近代的な町になっていた。城下町特有の街路の狭さや曲線は、中心部は見事に縦横に整備されてあり、「越前の小京都」と呼ばれる所以である。少し町中に入ると昔のまんまの不便さが残る。この越前大野の町もあちこちで湧水があり、町中を流れる川も澄んでいてきれいだ。やはり城下町特有の寺町もあった。16寺が並んであった。
大野も清水が至る所で湧き、その一角に朝倉義景の墓所があった。一乗谷の義景の墓とは違いこここそ墳墓である。天正元年(1573)、織田の軍勢に攻められ、身内の裏切りで一乗谷からここ大野に逃げ込んで自刃したのだ。
(写真左=朝倉義景の墓)
戦国の一コマもここで見られた。越前辺りになると南北朝争乱から戦国期争乱の舞台となっている。京に近い分、日本の歴史の中央に関係する所が多々あるのだ。
福井城は堀がいい。幅があり石垣も「切り込み接ぎ式」で近世城郭の色彩が濃い。とにかく高い石垣と堀が絵になる。残念ながら本丸跡には県庁と県警の建物があるが、高い土塁や天守台跡など一部を残していて、自由に見ることができる。百間堀跡等は福井駅周辺に作り直されてしまい、かつての水に浮かぶ如き福井城の姿は今はない。
(写真右=福井城の堀)
あの結城秀康が在城した歴史が大きい。又幕末の松平春嶽や橋本左内、由利公正、横井小楠などがここを舞台に活躍した。つい最近のことである。近くの北ノ庄城跡はかなり整備されていた。小さな歴史公園化され、観光スポットになっていた。北ノ庄城主柴田勝家の像顔がしかめっ面に見える、気のせいだろうか。お市像や三姉妹像など新しく設けられ、以前とは様変わりである。"福井も動いている"という感じがした。
福井から車で20分走ると一乗谷に着く。両側の小高い山が狭い平地をつくり、一乗谷川がその真ん中を流れ足羽川に注いでいる。この川の河岸段丘上に開けたのが朝倉氏の居住跡である。
ここ朝倉氏遺跡跡に来るのも27年振りの再探である。妙に懐かしくもあり、新鮮にも感じる不思議な空間である。全体の構図は左程変わらないが、かなり整備が進んでいた。特に一乗谷川の左岸には町人屋敷や武家屋敷等が観光客の為に復元されていた。右岸の朝倉氏館跡なんかは以前と変わりなく、入口の上城戸、出口の下城戸は当時のままである。山城と違い、館群がある平城故に敵襲があったらここ一乗谷はひとたまりもないだろう。「一乗谷城」という山城も「詰めの城」として後背にあるのだが、ここに移る段階になったらもう負け戦である。
総体的に一乗谷は居住空間であり、所謂一般的な戦いに備えた城とは言えない。平和享受の楽園とでも言えるかもしれない、館跡や庭園跡が遺構として残っている。朝倉氏は織田に攻められて滅ぶのであるが、5代義景の時に足利義昭がここに逃げて来ているし、従って細川藤孝と明智光秀も入城している。日本の戦国史の中で燦然と輝いていた時もあったのだが、朝倉氏は名門とは言え極めて保守的で、"天下に号令をかける"などという戦国武将特有の意欲にはとんと関心がない武門であった。遺構を見ていると栄華を極めた朝倉氏と城下の市井の民人の息づかいが感じられる。
ここから少し山手に行くと、面白いことに富田勢源道場跡があった。注意しないと通り過ぎてしまうほどのものだ。富田は「中条流」という剣術一派をつくる。その中に佐々木小次郎巌流がいる。中世にはここ一乗谷朝倉氏は大きな富で栄華を誇り、そこに憧れた人達が多勢集ったであろうことは容易に理解できる。
【史跡解説】
①大聖寺城跡
加賀ICを下りて10分程走ると大聖寺城跡に着く。この辺りは加賀と越前の国境で当城は加賀国にある。外観的には馬蹄形で何やら沼津の興国寺城(北条早雲の城)を思わせる。山の名を錦城山とも言うようだが標高が約70m弱という平山城である。ここに大聖寺があったことで名付けられた。
駐車場に車を停めて登城にかかる。階段もついていて良く整備されている。本丸まで行くことにした。「縄張り」を上から見ると逆U字形になっている。その逆U字の最頂部に本丸があり、虎口に馬出しをつけている。本丸は細長くそんなに広くはない。その隅に山口玄蕃宗永の供養碑が立っている。
その本丸の後背には鐘ヶ丸という曲輪が付けられている。ここがこの城の最大の面積を誇る曲輪のようであり、これを囲む高さ4m、幅3mの巨大な土塁が残る。右尾根部には西の丸があり、その下に二の丸、三の丸が段違いで配され、尾根の先端に戸次丸がある。右尾根に曲輪が集中している。左尾根部にはその先端に東丸がある。麓の平場には今では忠霊塔が立っている。その前面には芝生が張られた広場がある。東丸の切岸下から本丸へ行く長い階段が設けられている。途中「贋金造りの洞穴」という面白いものがあった。
明治維新の際、新政府軍から越後戦争に使用する弾薬の提供を求められた大聖寺藩が、その軍資金を調達するためにここで贋金造りをしていたのだという。銀製品を溶かして二歩金を造って山代温泉の湯に浸してから通貨として流通させたのだという。小さな穴が残っている。
様々な歴史を持つ大聖寺城である。経緯は古く、南北朝の頃から登場する。歴史の主役になるのは、加賀国が一向一揆衆の支配となってから、この大聖寺城が南加賀一向一揆衆の重要拠点となっている。
弘治元年(1555)に越前から侵入した朝倉宗滴はこの大聖寺城を攻略した。そして朝倉軍はこの城を逆に一向一揆衆討伐の拠点として加賀一向一揆と対峙した。天正元年(1573)織田信長が朝倉義景を滅ぼして越前を平定すると、信長は柴田勝家にこの大聖寺城を修復させ、堀江景忠を城主にして加賀討伐の拠点にしている。後に柴田の甥、佐久間盛政が大聖寺城主となる。上杉氏の南下に備えて兵力を増強したが、謙信の七尾城攻略の余勢を駆って南下し大聖寺城も奪われた。
謙信死後、織田軍は再び加賀に侵攻し、天正8年(1580)に加賀を平定した。柴田勝家は拝郷家嘉を大聖寺城主にした。この後、柴田が賤ヶ岳合戦で敗れると、北ノ庄の丹羽長秀の与力となった溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で封じられた。以下、案内板に続く。
【案内より】
標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。
(写真右=山口玄蕃頭宗永の記念碑)
本丸を始め二の丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。慶長5年(1600)金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1200に対して前田軍は2万5千の圧倒的兵力で攻め立て、山口父子を始め多くの将兵が討死した。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、以後再建されない。大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からと言われている。
②吉崎御坊
大聖寺から直ぐ近くに吉崎御坊がある。石川県から福井県に入るが、丁度加賀国と越前国の国境に吉崎御坊がある。"真宗楽園"とでも言える一大信仰の聖地である。だがひっそりとしている。シーズンオフかと思うような静けさである。蓮如が拠点とした御山には蓮如上人の銅像が立ち、かつてはむしかえる様な線香の臭いや南無阿弥陀仏の声明が御山を覆っていたのであろうが、今は静寂そのものだ。麓には浄土真宗の豪勢な寺院が立ち並ぶ。浄土真宗本願寺派の別院と真宗大谷派の別院が建ち、ともに吉崎別院と称している。本願寺派の別院を西御坊、大谷派の別院を東御坊と呼ばれている。この二つの別院とは別に願慶寺(吉崎寺とも)の伽藍が本堂・太鼓楼・鐘楼を置いて一帯が所狭しと林立している。
吉崎御坊は文明3年(1471)比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺派第8世蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点としてここ吉崎に建立したのが最初という。宗教勢力の台頭の萌芽ともなった、ここ吉崎御坊に立つと、蓮如の強い意志を感じる。だが蓮如はここに4年しかいない。そして京の山科へ布教拠点を移動させるのだ。やがてこの後、第11世顕如光佐の時に絶頂期を迎え、武門と激しく対立するようになる。
いわゆる石山本願寺と織田信長との10年にわたる戦いが本願寺の敗北で終わりをつげる。石山は和泉から摂津にわたる上町台地の最北端台地にある。川と海に守られた難攻不落の布教拠点であったが、ここに信長が目をつけた。岐阜城に次ぐ天下布武の城にしたいが為であった。本願寺に立ち退きを要求したのだが、本願寺はこれを拒絶し続けた。
「本能寺の変」で信長亡き後、この石山の地に羽柴秀吉が大坂城を築き、摂津石山から天下に号令することになる。蓮如の吉崎御坊は顕如の石山御坊へつながる。顕如は信長に敗れた後、紀州和歌山の鷺森に移った。顕如から准如に宗主が代わった。だがこれを拒否したのが准如の兄教如である。秀吉が准如を押し西本願寺をたてた。反対に本願寺の勢力拡大を防ぐために家康が東本願寺をたてた。お互い牽制し合うようにした。本願寺は政治利用されるのである。蓮如は巨大化し過ぎた真宗教団をどのように思っていたであろうか。
【案内より】
本願寺第8代法主蓮如は文明3年(1471)5月北国に下向し、同7月に吉崎御坊を開き、以後文明7年(1475)に吉崎を退去するまで、この地を拠点として盛んに布教活動を行い、本願寺教団が北陸に一大領国を形成する礎をつくった。吉崎御坊は越前の北端、北潟湖に突出した海抜33mの御山に置かれ、開創当時は御山の奥に坊舎を構え、周囲に土塁をめぐらしたものと想定される。永正3年(1506)朝倉氏により坊舎が破却され、それ以後は坊舎は作られなかったという。現在は坊舎のあったとされる地に数個の礎石が残っているほか、山上北東部に土塁の痕跡をとどめている。吉崎の地は一向宗勢力の増大に伴い、寺内町一帯が要害化したが、後の山科本願寺、石山本願寺の造営の祖型も、この吉崎寺内町に見ることができ、その歴史的意義は大きい。添付資料➡真宗歴代宗主(西本願寺)、吉崎御坊跡
③丸岡城
吉崎から金津ICまで走る。このあたりは"あわら市"だ。北陸道に上がり丸岡ICで下りる。坂井市のシンボル「丸岡城」を目指す。
(写真左=丸岡城)
ここも30年近く前に来て以来である。市内の道路もかなり良くなり、街もきれいになっていた。大きな変化と言えば北陸新幹線の高架工事が進捗していたことである。2022年開業で敦賀まで延びるという。一気に東京首都圏に近づく。これで北陸は大きく変わるであろう。ゆくゆくは小浜を経由して京都に至るという。大阪から東京を目指す時、北陸ルートと東海ルートの2つの選択肢ができる。昔なら考えられないことである。どんどん日本列島が変わってゆく最中に生きている。
ここ丸岡城が古城のモデルともいうべき"古さ"を持っている。早速登城する。昔のままである。日本最古と呼ばれる天守を持つ小ぶりな平山城である。
(写真右=丸岡城からの眺望)
天正4年(1576)に柴田勝家の甥で養子の柴田勝豊が築城している。天守は独立式望楼型二重三階で、屋根は石瓦(笏谷石)で葺かれている。小型の天守なのに千鳥破風があり、天守の中に入ると古臭い木材の臭いがプンと鼻をつく。天守閣の内部はどこに行っても、太い梁や柱がむきだしのままにあるのが凄くよい。
丸岡城は他の巨城のように、天守から1階までの通し柱のような目を見張る柱はない。階段はかなり急だ。注意しないと落ちる危険がある。「石落とし」も一応備えられている。1階の柱がもとは根元を土の中に埋めた堀立柱であったことがこの天守の特色だという。あまり聞いたことがない。丸岡城は1948年の福井地震で倒壊したが復元されたのだそうだ。天守から丸岡の町を望見する。瓦屋根のいらかが整然と並びきれいだ。天守はそう変わらないが、城下の町中がきれいになっていると思う。街道も整然としていて都市開発がなされたのであろう。離れて見ると、いらかの波の上に天守が小高く立っている。ここも市民が城を生活の中心に据えているのだろう。
ここ丸岡に有名なものがある。それは徳川家康の家臣、本多重次が妻に出した書翰で、これが簡潔で最短のものと言われる。それは「一筆啓上 火の用心、お仙泣かすな 馬肥やせ」というもの。「火事に気をつけろ、子供を泣かすな、馬を育てよ、」というもの、馬は戦国の世にあっては自分の命に次ぐ大事なものだった。息子成重(幼名お仙)を想いやり妻に出した手紙である。"鬼作左"と云われたほどの豪傑の本多重次が陣中にありながらも、ひとしきり家族へのおもいやりが溢れている手紙であるとして称賛された。ここは今も城跡公園として綺麗に整備されている。
【案内より】
天正3年(1575)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。天正4年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下4代の居城となったが、元禄8年5月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、8代にわたって有馬家の領有することになった。丸岡城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱を持たず、初重は上層を支える支台を成す。構築法、外容ともに古詞を伝え、屋根は石瓦で葺き、基礎の石垣は「野面積み」、これは我国城郭建築史上、現存の天守閣の中で最古の様式のものである。天守閣の高さは22mである。だから決して高くはない。
④称念寺
丸岡城から西へ2キロ位の田圃の中にある。現在、寺のうしろでは北陸新幹線の線路橋脚工事が真っ最中である。すぐ寺の側である。完成したら車窓から見えることになる。部落に人気はないが、黙って山門から境内に入る。萩の花が辺り一面に咲いていた。来年のNHK大河ドラマ明智光秀の宣伝旗が林立している。何故だろうと思ったが理由がすぐに分かった。この境内に一角を柵で囲み、入口に唐門のある墓域があった。その中に五輪塔が一基立っている。これが「新田義貞の墓」であるという。直ぐ近くの福井、藤島の戦いで戦死した。
足利尊氏と同根でありながら不運な生き方をした新田義貞である。後醍醐天皇の愛妾、勾当の内侍を賜ってから腑抜けになったとも悪評された。足利の栄光と新田の没落は好対照であった。生き方・世渡りの上手な足利氏、反対に下手な新田氏と何かにつけて比較された。その新田氏の代表が義貞である。尊氏と同じく鎌倉幕府倒幕に功があったのも拘らず、その後の身の処し方で田舎臭い処世の仕方が時流を得ずして滅んでしまったとも言われている。
新田氏の本拠地は上州の太田である。本拠地には反町館が残っている。隣国の下野足利にはライバル、足利一族の本拠地があり、菩提寺鑁阿寺はその中心であった。まさに隣り合わせの関係であった。福井市の北へ行くと藤島という所があり、藤島城と灯明寺畷がある。ここで新田義貞が戦死している。死に方が今一つ不運である。足利方の斯波高経勢と交戦中の新田義貞は、灯明寺畷にて自分の馬が泥田に足を取られ身動きできず、倒れてもがいているところを、戦の流れ矢が義貞のこみかめを襲った。義貞は不覚を取って、敢え無く討死した。
1338年7月2日のことであった。意外に畷での戦は多々ある。戦国時代の天正12年(1584)九州は島原半島の沖田畷では龍造寺隆信がやはり戦死している。相手は薩摩の島津氏であった。いずれも自分を過信して地理の不安さを無視した無理な戦闘に出た結果であった。その後、義貞の遺骸はここ称念寺に運ばれた。そして葬られたのだという。額に矢を受けて戦死した武将は、他にも平将門がいる。"流れ矢が当たる"というのは不運以外なにものでもない。"敗けるべくして敗ける"とはこのことだろう。
徳川家康は源義国の子で新田義重の子義兼の弟得川義季を自分のルーツとしている。いわば新田義貞と同族であるとした。信憑性が疑われるところだが、それゆえここ称念寺も江戸時代は尊崇を集めたに違いない。それより明智光秀がここに来ているとは知らなかった。一般的には永禄10年(1567)に、光秀が岐阜城に信長に会う為にやってくるが、それ以前の光秀の動向はよく分かっていない。ところが弘治2年(1556)に明智城が落城し、永禄5年(1562)に光秀がここ称念寺に逃れて来ていたのだという。しかもここで食べて行くが為に何と寺子屋を開いていたという。これは大きな発見である。それ故、光秀の娘細川ガラシャ夫人も永禄6年(1563)にこの地で生まれたのだという。来て見ないと分からぬことが多い。収穫は意外に大きかった。
【案内より】新田義貞公と称念寺
称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、正応3年(1290)時宗2代目真教上人を、当時の称念房がしたって建物を寄進した。南北朝の騒乱の時代、新田義貞公は南朝方として戦った。暦応元年(1338)に灯明寺畷の戦いで戦死した。その遺骸は時宗の僧8人に担がれて称念寺に手厚く葬られたことが太平記に記録されている。
(写真上=新田義貞の墓)
室町将軍家は、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家の祈祷所として栄えた。そして寛正6年(1465)に後花園天皇の綸旨を受け祈願所となりました。さらに後奈良天皇の頃には住職が上人号を勅許されるなど、着々と寺格を高めていった。永禄5年(1562)には浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活した。江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。徳川将軍家は新田氏が先祖にあたるということで、その菩提所を大切にした。しかし明治の版籍奉還により、寺領が没収され、無檀家になり称念寺は無住になった。新田義貞公や称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせて、大正13年(1924)にようやく再建した。
⑤福井城址
丸岡から国道8号線を西へ30分位走ると福井市に着く。今夜の宿泊はJR福井駅前のホテルである。駅前は凄く変わっていた。昔の面影は全然ない。駅舎も北陸新幹線開業に合わせて新しくしたのだろうか、大きく長くなり、その駅舎の壁面には恐竜の絵がダイナミックに描かれている。福井と言えば恐竜の化石が数多く発掘されていることで有名だ。それを逆手にとって、駅舎に恐竜の絵が描かれていたり、駅前に復元した恐竜が数体置かれていたりして、普通の駅とは違う異次元の世界を見ているようだ。"福井に来た"という実感が湧いて来た。
駅前からすぐ福井城址がある。かなり整備されたようである。大手橋から内部に入る。右手に「結城秀康の像」があった。今では福井城の城中には福井県庁と福井県警のビルが新装なって建っていた。ここが旧本丸跡である。堀と石垣も見事だ。堀の幅も結構あり、鉄砲を意識した近世城郭の片鱗が残る。土塁も高く本丸の周囲を巡っている。天守台跡が県警本部の後の一角に残っている。遺構はこのくらいである。かつては百間堀という大きな堀があったようだが明治になって再開発が行われ、現在は福井駅とその周辺のビル街になっていた。福井も進化している。
【案内より】福井城の歴史
福井の町は戦国時代の天正13年(1575)に織田信長より越前支配を委ねられた柴田勝家が築城した北ノ庄城の城下町として形成されはじめた。
(写真左=柴田勝家の像)
柴田勝家は羽柴秀吉に賤ヶ岳の合戦で敗れて居城の北ノ庄城に退き、天正11年(1583)4月24日、お市の方とともに北ノ庄城で自害した。柴田勝家が築いた北ノ庄城はわずか1代、8年で焼失した。その後、慶長5年(1600)関ヶ原に勝利した徳川家康は、次男の結城秀康(秀忠の弟)を関東の結城から越前68万石北ノ庄に移封した。福井藩主となった結城秀康は慶長6年(1601)7月28日、越前に入部した。柴田勝家の北の庄城を取り囲む形で拡充して、新北ノ庄城(福井城)の築城を開始、6年をかけて慶長11年(1606)に完成した。伝承によれば本丸・二の丸は家康縄張りといわれており、家康の命で全国の大名が手伝普請にあたったと言われている。高さ約37mの4層5階の雄大な大天守に、足羽川と荒川を外堀とし、旧吉野川を百間堀に利用した4重、5重の濠と石垣、多くの櫓や城門を持った巨大な城であった。福井城は石垣をはじめ、天守・櫓等の石瓦、基礎石など建物の多くに地元福井市中心部の足羽山で採石された笏谷石(しゃくだにいし)が使用された。この石垣は青緑色で美しく、横のラインが通った布積みの切込み接ぎという積み方で、これは第1級の城(二条城や江戸城)の積み方と同じである。福井城の石垣の特徴は、火山礫凝灰岩であり、すべて同じ石、足羽山の笏谷石が使われていること、全て小さい石で運びやすく加工しやすい切石ばかりだった。
築城以後、約270年間、幕末まで越前松平家の居城となったのが、この福井城である。元々北ノ庄と呼ばれていたが、北の字が〝敗北につながる〝ので不吉であるとして、3代藩主松平忠昌によって福居と改められ、その後福井とさらに改められたという。又控天守台の横手の井戸福ノ井が福井の由来になったとも言われている。明治維新後には、福井城の内堀以外の堀は埋められ、市街地として整備された。
結城秀康➡天正2年(1574)家康の次男として生まれる。母は家康の側室於万の方、小督局とも幼名は於義丸 家康は正室築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられた。3歳になるまで家康とは対面できず。天正7年(1579)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命により、兄信康が切腹させられる。この為次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし天正12年(1584)の「小牧長久手の戦い後、家康と秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子として差し出され、後継者は秀忠とされた。
天正18年(1590)、実父の家康が「駿遠三甲信」から関東一円に国替えとなり240万石を得た。秀吉は秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。秀康は黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督・所領11万石を継いだ。「関ヶ原の戦い」の前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。この時家康により本隊は家康自らが東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城11万石から越前北ノ庄68万石に加増移封された。慶長10年(1605)伏見城の留守居を命じられるが、病を得て職務を全うできなくなった為、慶長12年(1607)3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去した。享年34歳。死因は梅毒であったという。家督は嫡男忠直が継いだ。
2代藩主忠直は元和元年(1615)、「大坂夏の陣で真田幸村の首級を始め数多くの城兵を討ち取る武功をあげたが、恩賞に対しての憤懣がつのって狂乱状態になったと言われる。後、訳あって豊後国萩原に配流された。寛永2年(1624)に忠直の弟松平忠昌が3代藩主として越後高田から入った。
⑥北ノ庄城跡
福井市内を流れる足羽川に近い右岸河畔にある。昔来たが以前と大分変っていた。柴田神社を含む史跡公園として整備され昔の面影はない。ただ柴田勝家の坐像はそのままで、新たに三姉妹像などがでできていたし、お市の像も併設されていた。ここ北ノ庄城には九重の天守があった。幻の城でしかないが、勝家は城下繁栄のために領内の一乗谷などから寺社や町屋を移転させている。かつては相当広い城下であったらしい。お市の3人の娘は長女茶々、次女お初、三女お江で、それぞれ戦乱を生き延びて、特異な人生を送ることになる。茶々は秀吉の側室になり秀頼を生んでいる。次女のお初は京極高次に嫁ぎ忠高を生む。三女お江は最初が佐治一成、2番目が豊臣秀勝、3番目は徳川秀忠である。秀忠は家光を生んでいる。お市の娘は天下人、豊臣秀吉と徳川秀忠の妻となる。ある面で"天下を取った"ということもできよう。
戦国時代の女の一生は政略結婚の犠牲などという弱さであった訳ではない。むしろお家の為に能動的に振る舞う女性が多かった。外交官とも言えるだろう。福井は戦国時代は柴田勝家で、江戸時代になると結城秀康で、幕末には松平春嶽に代表される町である。加賀の前田氏よりも、質の面で数倍も高い歴史の顔を見せてくれる。
【案内より】
織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねて来た。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に「此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をしており、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである」と報国している。又、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候、と記しており、九層の壮大な天守閣であったとことが知られる。勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに務めた。足羽川に架かる橋を半石半木の橋に架設したと言われる。柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。
⑦一乗谷朝倉氏遺跡
福井市内から東へ向い、九頭竜川支流の足羽川の上流へ行く。この川に一乗谷川が流入する。昔を思い出した。福井市からやはり東へもう一つの道を行くと永平寺にでる。越前福井は日本史の一級品の地である。一乗谷は東西500m、南北3キロの広さである。一乗谷川が足羽川に合流する地点から城域に入る。上城戸が見えてくる。巨石が道を塞ぎ、L字の入口が遺構としてある。町屋跡が平地に多く残る。
面白いのは一区画が各家の跡なのであろうが、そこには井戸跡がほとんどある。谷間の平地だから水は豊富のようである。そして更に上流に行くと、町屋・侍屋敷などが復元されていた。以前はなかったから新鮮だ。200円払いその町中に入ってみる。町並みは凡そ200m程続く。今で言えば左程大きくはないが、平屋の一戸建ての家が路沿いに建ち並ぶという状況か。職人の家や武家の家などがあった。狭い谷間に平地にこのようにびっしりと家々がある様は、京の町屋のようでもあり、当主朝倉氏の館群が川を挟んで向かい側にある。経済的に効率が良いとしても、逃げ場がない地勢は攻められたらひとまりもない。
だが中世の人々の暮らし向きがよく分かるというもの。一乗谷川の右岸は朝倉氏の居館跡が並ぶ。何と言っても朝倉氏当主の館跡が遺構として整備されてあった。建物の礎石がくっきりと残り、屋敷の周囲には堀がめぐらされている。幅は2間位か。城の堀というものとは程遠い。恰好だけの堀だろう。屋敷跡の背後には館跡の曲輪があり一段高くなっている。庭園跡とか記されている。上ってみると、ここからの一乗谷の全体の様子が良く見渡せる。庭園跡(諏訪館跡・湯殿跡)にはところどころ白く変色した尖った庭石が池の周りに置かれている。ここに渓川水を流し込み風雅を楽しんでいたのだろう。情景が自然と見えてくる。背後の山は高く、ここに一乗谷城があった。山上部には曲輪等が配された山城である。だが朝倉氏がここに逃げて戦った様子がない。織田軍の強襲に一族の味方の裏切りがあり、山城に詰める暇なく一乗谷平城は落ちている。当主朝倉義景は越前大野へ落ち延びた。これより400年も前の、奥州平泉の藤原氏の居館群もここを襲撃した源氏軍に焼討ちされ廃墟となり、芭蕉が詠んだ「兵どもの夢の跡」と重なって見えてくる。
観光客は意外に少ない。ぱらぱらという状況だ。シーズンにもなれば凄い人出で賑わうのであろうが、永平寺とセットにした旅で来るのであろう。
【案内より】
朝倉氏はもともと但馬国の出身である。南北朝の動乱期の1337年、朝倉広景が斯波高経に従って越前に入国した。南朝方の新田義貞との戦いで功をあげ、黒丸城を拝領した。その後代々越前で活躍したが、応仁の乱を契機に朝倉孝景は守護斯波氏、守護代甲斐氏に代わって越前の支配者となり、1471年要害堅固な一乗谷に越前の首府を移した。一乗谷は越前の政治・経済・文化の中心として初代孝景から氏景、貞景、孝景、義景と5代百余年にわたって栄華を極めた。1573年織田信長軍に組みする平泉寺宗徒の放火によって灰燼に帰してしまう。
その後越前支配の中心地は現福井市外にある北ノ庄にかわった。一乗谷は市街化されることなく農地として維持されてきたので、地下の遺構・遺物の残存状況は良い。1971年山城を含む広大な278ヘクタールが国の特別史跡に指定された。
一乗谷の下城戸を抜けると鄙びた部落があり、その一角に村の鎮守らしき神明神社という小さな神社がある。その後ろ一帯が富田勢源の道場跡であるという。勿論何の変哲もない神社の境内の片隅にそれはあった。当時はそれなりに門弟も多く稽古の音が賑やかだったに違いない。富田勢源は越前朝倉氏の家臣富田長家の子という。大橋高能より中条流を学んだ。後に富田流(とだ)とも言われた。眼病を患い剃髪し家督を弟の富田景政に譲った。小太刀の使い手であった。この富田の下で佐々木小次郎が剣の修練に励んでいる。思わぬ史跡があるものだ。
⑧越前大野城
一乗谷から国道158号線に入り、山間の道を抜けるといきなり展望が開けた。大野盆地に出たのである。少し走ると前方の小高い山の上に天守閣が見えてきた。長年見てみたいと思っていた城である。"天空の城"などと言われる。兵庫の竹田城もよかったが、竹田城は城跡であり石垣だけが遺構としてあるも天守はない。今まさに眼前にあるのが大野城であり、今日このあと行く予定の郡上八幡城も"天空の城"である。やはりここも天守があり、石垣だけの城跡とは全然重みが違う。
写真を見ると、雲の中にくっきりと天守閣が姿を見せている。そこに民は畏敬の念を持つのだろう。盆地の中に亀山という標高250mほどの小高い山に築かれたのが平山城(平山)の大野城である。先ず山の麓の周囲を一周してみた。山上に城が築かれているので、その登り口を探す。西からの登城が比較的緩やかなようである。直登の階段もあるが、勾配の緩やかな坂道を登ることにした。比高で100m未満位はあるだろうか。山上に着くと本丸になっていて、「野面積み」の石垣天守台に2層3階の天守閣が築かれていた。「野面積み」の石垣は色が古くなって苔も生え、とてもいい感じである。「野面積み」は地震・豪雨などの天災に強い。石垣の命は合端という石と石がくっつく処がどこにあるかによって決まる。「野面積み」は築石の奥のほうに接点がある。これが地震の際に石が外へ押し出る力を減じている。崩れにくいのである。「切り込み接ぎ」の石垣は見た目はきれいだが、合端が前面にあり地震に遭うとすぐに崩れるという。「野面積み」石垣は見た目こそ悪いが堅城の礎という。また石と石の隙間には裏込み石を噛ませる。この隙間が雨水を外へ吐出してくれて圧力を弱め、石垣の崩壊を防いでくれる。
早速天守閣に入る。城主の変遷が記されている。城主は金森氏、松平氏、土井氏とある。山の下には城下町が格子状にできている。シンプルで綺麗である。大野城下は金森長近が1576年に亀山に城を築くとともに、亀山の東側に町づくりをした。後に金森長近は飛騨の高山に移り、その後、1682年に土井利房が大野藩主に封じられた。亀山山麓の清水から柳町・水落にかけて武家屋敷、中央部に町屋、その東側に寺町を配した。町屋地域の格子状街路は南北を西側から一番町、二番町、三番町、四番町、五番町・寺町といい、東西の街路を北から横町、六間町、七間町、八間町、石燈籠小路、正膳町と呼んでいる。ここ大野は越前の小京都と言われる。小京都はどこにもある。周防の山口、秋田の角館など町が格子状に作られ、整然とし分かり易い特徴がある。天守から周囲の景色が良く見える。西側の方に戌山城という古城がある。大野城の支城である。
この山麓を国道158号線が走る。美濃郡上八幡へ繋がる道だ。北西方向を見ると中部自動車道の工事個所が見える。盆地にポコンと独立する山が亀山、大野城であることが分かる。城の中には金森長近と土井利忠の銅像が立っている。下城の途次、市街が良く見える休憩場があった。展望がいい。下りて市街を走ってみる。どこからも山上の城の天守閣が見える。大野の市民は"朝な夕な"に「お城」を望み、何かしら安心して生活に没念し暮しているように思える。だが翻って米沢はどうであろうか。「お城」という存在を実感を有して暮らしているだろうか、と疑念を持ってしまう。城下町とはいうものの「お城」が市民の心の中心にあるだろうか。これは大事な要素である。
寺町にも行ってみた。城の東側の外れに寺院を配した。これはどこも同じだ。城下の守りとしたが、この大野城は仮想敵としてどこの軍勢を想定したのだろうか。素直に考えれば大野の東は美濃であり、領主は土岐氏であり、斎藤氏である。一乗谷の朝倉氏居城の東の防衛線が大野城と考えれば、当然の如く仮想敵は織田信長になるであろう。ここ寺町は通りも綺麗に整備され、一寺々がコンパクトに整列している。寺院の数は16寺という。寺が城下を守る基本形はいずこも同じだ。大野城の山麓に観光広場ができていて、ここから見上げる大野城が一番良さそうである。
【案内より】
越前大野城は大野盆地の西側に位置する標高250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城である。織田信長の部将、金森長近により天正年間の前半に築城された。大野城は亀山を利用し、外堀・内掘をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城には見られなかった新しい方式の城である。江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天守と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれている。本丸の石垣は自然色を殆ど加工しないで積み上げる「野面積み」というものである。江戸時代には町の大火により城も幾度も類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失したが、寛政7年(1795)に再建された。廃藩後、城の建造物は取り壊され石垣のみ残された。
⑨朝倉義景墓
観光広場の案内板により車を走らすと、閑静な住宅街に不思議な空間があった。そこは清水(湧水)に囲まれた朝倉義景の墓地であった。大野にすれば一乗谷の朝倉氏はまさに宗主であったに違いない。今も湧水が勢いよく湧いている。「義景清水」というらしい。湧水のある風景というのは郷愁を呼び起こす。大野の街中はきれいな小川が縦横に流れている。水路の街と言ってよい。かつて米沢の城下も街路に水路が張り巡らされていた。江戸は武蔵野から水を引き、地下に水路を作った。いずれも水が生活の基盤である。この基盤をしっかり守れない領主は民からの支持を失う。治水は政治の根本とも言えよう。
朝倉義景の墓は一乗谷の朝倉氏館跡にもあったが、こここそ本当の墳墓であろう。義景は一乗谷から命からがら逃げ込んできた。だが一族の裏切りに遭い自刃した。その一族の名は朝倉景鏡という。義景を自刃させその首級を信長に差し出し、義景の母、妻子をも差し出して信長に降服している。信長はこういう類の武将を大変嫌うが、この時本領を安堵され、名を土橋信鏡と変えている。朝倉氏内部で当主義景とこの景鏡はしっくりいってなかったようだ。よくある話である。この公園には水琴窟もあった。心地よい乾いた音が土中から聞こえる。人工的な音なのだが何故か和まされる。
【案内より】
朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文17年(1548)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文21年(1552)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り義景と改めている。義景は織田信長に対抗するため近江へ出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した。六坊賢松寺は既に廃寺となっている。江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政12年(1800)旧家臣の子孫により曹源寺境内に建立され、文政5年(1822)に現在に移設された。五輪塔の後方には、義景の近臣、鳥居景近と髙橋景倍の墓がある。さらにその後方に義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治44年(1911)に旧家臣の子孫により建立された。
大野から郡上八幡までが山岳道で、しかも巨大なダム沿いに走る。ダムの名は九頭竜ダムという。この辺りの山は急峻で谷も深い。谷間を流れるのは九頭竜川である。この川が途中で堰止めされて巨大な人造湖、九頭竜湖を形成している。ロックフィルダムである。堤高が128m、堤頂長355m、堤頂幅12m、総貯水量が3億3千万立方mという。貯水量では全国第3位だそうだ。九頭竜湖の湛水面積は890ヘクタールでロックフィルダムでは日本最大という。いいものを見れた。やがてダム湖も最奥部はチョロチョロと谷川が注いでいる。
この辺から中部縦貫自動車道が工事の真っ最中である。略して中部道というが、これは北陸道の福井から大野を抜け、九頭竜ダムに沿って東海北陸道の白鳥まで繋ぐ高速道である。北陸と美濃郡上の谷とが結ばれる日も近い。白鳥JCで東海北陸道に入り、下って郡上八幡で下りる。途中白鳥のあたりで一転して空が掻き曇り、いきなり豪雨に遭う。車のワイパーが効かない。だが郡上八幡のあたり来ると空は晴れていた。
⑩郡上八幡城・宗祇水
郡上八幡ICで下り、明るい内に先ず八幡城に行くことにした。今日中に城を見て、明日は郡上八幡の城下町をゆっくり散策しようというものだ。長良川の上流域がここ郡上八幡である。この長良川に注ぐのが吉田川という綺麗な澄んだ川である。先ずこの川の綺麗さにびっくりする。
吉田川沿いに城下町が広がる。狭い道を走りながら行く手の山上に八幡城の天守閣が見えてきた。大野城とは少し違う、あか抜けた天守が見える。狭い城下の路地の合間から八幡城を見ると何と風情のあることだろうか。城下の古い家並がいい組み合わせを演じている。城山の麓に開けた城下町は猫の額のような狭い地に、吉田川という清流が流れ、その河岸に街が開けているのである。車を上へ々と走らすと安養寺という少し大きめの古刹に着く。その脇から城の天守へ行く道がついていた。一方通行の上り専用道だ。この道を歩いて上る人も多い。
念願叶いやっと郡上八幡城にやってきた。本丸の一角に駐車場がある。ここはぎりぎり天守の近くまで車で来れるので便利である。越前大野城のように歩いて登らないといけないわけではなく、助かる。
眼下に郡上の町が広がる。ここ八幡城は吉田川の右岸にある標高350m余の八幡山に築かれた山城である。築城主は遠藤盛数という武将で、山内一豊の妻で有名な千代の父である。遠藤氏は美濃の戦国大名の斎藤氏に仕えていた。織田信長と戦いをしている。だが石垣だけは残して廃城になり、昭和8年に大垣城を参考に再建されたようだ。木造4層5階の天守閣・隅櫓・高塀などがあり、今は資料館として機能していた。天守には四角い窓が各階に付いていて、本来の天守のイメージと少し違う。観光を意識したのだろうか、だが見る者の側に立つと見映えする天守だ。特に山麓から上に望見するといい景観になっている。
城下のあちこちから天守が見える。人々は城とともに生きているようだ。城下を歩けば水の流れる音があちこちから聞こえてくる。路地を流れる川もきれいだが、中小河川の瀬音は実に心地よく、川中の石にぶつかり白く泡立つ様が何とも言えない清涼感を与えてくれる。山麓を削り狭い平地とし無理に町を造ったようなものだ。柳町だのいい古い家並が雰囲気を醸し出している。軒先を山の上から清流が下り落ち、少し幅の広い小川に注ぎ、これが更に吉田川に合流し、最後は「長良の流れ」に溶け込んで格上げされてゆく。"一滴の水が大河となる"姿がここ郡上で見ることができる。
市内の一角に"宗祇水"という湧水がコンコンと出てくる処がある。綺麗な水だ。ここで人々は生活用水として利用してきたのだろう。路地が狭くこういう城下町も珍しい。町屋には隣家との間に「しきり」という防火設備がある。これが上等になれば「うだつ」という火除け壁になるのだが。ここ郡上ではそこまでのものは無いようである。城下そのものが「根古屋」というものだろう。八幡城はさしあたり「詰めの城」となるが、山麓から山上の天守までは相当きつい。下に武家屋敷もあったようだが、何せ土地が狭く、普通の武家屋敷とは違い狭いようだ。
武家と言えば、ここ郡上八幡で忘れていけないものがある。それは凌霜隊という幕末の佐幕方の部隊である。この隊が会津藩を支援した唯一の外部の藩の部隊であったからである。会津鶴ヶ城に入城し、会津籠城兵ともに城の守りの戦いに参加した部隊である。会津若松に入り、しかも籠城戦をともにしたのはこの凌霜隊だけであった。所詮、奥羽の会津以外の他藩は自分の戦いで精一杯で、会津若松城下に入り官軍と戦った藩など無かった。米沢藩などは口でこそ会津を救済し支援しようと叫ぶが、いち早く降伏し会津に引導を渡す役目を命じられた。その意味でこの若い武士で編成された郡上凌霜隊が、遠く美濃から会津に来て応援したことは評価に値しよう。
【案内より】郡上八幡城
戦国時代末期の永禄2年(1559)郡上領主東常慶と遠藤盛数との間で郡上支配をめぐる赤谷山城の戦いが起きた。その際、盛数がここに陣を構えたのが郡上八幡城の創始である。その後、盛数の子慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設するかたわら、信長・秀吉に従って各地を転戦、天正16年(1588)加茂郡小原へ転封となった。
代って城主となった稲葉貞通は天守台等を設け本格的な山城として大改修を行った。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると、遠藤慶隆は、東軍の徳川家康に味方し、郡上八幡城の戦いを起こした。同年慶隆は郡上藩主として復帰し、同9年改修を終えた城に入った。その後、慶隆の孫常友は城下町や城の大改修を行い、幕府より名実ともに城主として認められた。
遠藤氏が近江三上へ転封後、井上氏・金森氏が相ついで入部するが、宝暦年間に起きた宝暦騒動(郡上一揆1754-1758)により金森氏が改易となる。以後、代わって入部した青山氏により百年以上の治世が続くが、明治4年の廃藩置県によって郡上藩4万8千石は終息した。現在の天守は昭和8年に再建された模擬天守で木造の再建城としては日本最古である。
【案内より】明治維新と凌霜隊
戊辰戦争において郡上藩は官軍についた。しかし江戸屋敷を中心に徳川幕府を助けるため凌霜隊が結成された。隊長には17歳の若武者江戸家老の息子、朝比奈茂吉が抜擢された。慶応4年(1868)4月、茂吉ら40余名の隊員は江戸を出発した。小山の戦いでは官軍を破ったものの戦死1名、重傷1名、行方不明2名。宇都宮の戦いでは敗退、その後会津藩の命により3ヶ月ほど塩原に駐留した。横川宿の攻防から大内宿まで転戦、関山宿の戦闘、戦死者が続出した。それから凌霜隊は、会津若松城に籠城することに、白虎隊と組んで城の守りを果たした。猛烈な砲撃と1万5千の官軍に囲まれ、ついに若松城は落ちた。
郡上に着いた凌霜隊を待っていたのは赤谷の揚屋であった。あまりにもむごい仕打ちに郡上の寺々の僧侶が立ち上がった。朝廷に直訴してもという意気込みに藩庁も折れ長教寺に移された。明治3年春、2年の辛苦が終わり、隊員たちは赦免された。この凌霜精神は今も郡上の地に脈々と生きつづけている。
郡上八幡は何やら余韻を残す不思議な町だ。ここの古い宿に泊まるのもいいかもしれない。決して建物も立派ではなく、道も整備されてる訳でもなく、きれいだとは思わないが、何故か雰囲気がとてもいいのだ。人々もこういう環境を遇えて否定せず、普通のように生活している。"気負いのない町"とはこういうのを言うのだろう。
「郡上八幡踊り」は丁度シーズンで、愚直なまでに昔のまんまの姿を今に伝える。越中の八尾の盆踊りとは一味も二味も違うようだ。泊まりは福井とここ郡上八幡にした。帰りは一気に東海北陸道・北陸道・磐越道と走り、米沢に戻ることになる。東海北陸道は白川郷や五箇荘に繋がる観光道だ。混まねばいいが。
完
(2020年7月24日10:55配信)