米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘
寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。
□訪問日:2021年5月29日(日帰り)
一、はじめに
それにしても関東平野は広く大きい。果てしなく大地が広がる。山の姿が見えないから余計にそう思えてくるのであろうか。筑波山がポツンと弧峰の如く立っているだけである。山々に囲まれた盆地に住む者にしてみれば、いささか安心面で心もとなく感じる。関八州は関東平野の武蔵・下総・上野・下野を主体に、周辺の相模・上総・安房・常陸の八ヶ国で構成され、今の東京都・埼玉県・神奈川県・千葉県・群馬県・栃木県・茨城県になる。
"江戸歩き"も永く市中中心に見て回ってきたが、今後は武蔵野へも焦点を合わせて見ることにする。その第1弾を旧中仙道、現国道17号線を東から西へ沿って史跡を訪ねてみる。今も昔も街道は江戸(今は東京)へと向かう。現在の東京へのアクセスは多くの高速道が整備され便利になっている。取分け東京を囲む環状線は、一番外を北関東道、東関東道が周回し、その内側には圏央道ができている。さらにその内側には東京外環道があり、最も内側には東京首都高が走る。これらを横の線とすると、縦の線(常盤・東北・関越・中央・東名)の各高速道がクロスしている。従って東北道から東京都心を通らずに圏央道を利用して、中央道や東名道にスムーズに至ることができるようになった。この上ない利便性である。
今回の探訪の主眼は、1つは伊奈氏関連の史跡を検証すること。江戸時代、関東郡代という要職にあった伊奈氏は幕府直轄地の統治を任された。その石高は30万石という。外様大名でも上位クラスに位置する程である。家康の信頼は厚くどのような人物だったのか。以前、足立区伊興を訪ねたとき、赤山街道を知った。江戸から川口の赤山城に通じる道で伊奈氏存在とその居城を知り、関心を持つようになった。
2つは深谷に渋沢栄一関係の大河ドラマ舞台の地を検証すること。今年の大河ドラマの主人公である。数年前に"江戸歩き"で王子に飛鳥山を訪ねた。そこには渋沢栄一記念館があり、栄一の私邸青淵文庫が再現されていた。渋沢栄一は明治の巨人ではあるが特に興味を抱いたことがなかった。だが大河ドラマに取り上げる程ならば余程の人物かと再考する。
3つは庁鼻和上杉氏ゆかりの古城を訪ねること。因みに上杉氏には多くの流れがある。一般的には山内上杉氏が最も有名であるが、最も知られてないのが庁鼻和(こばなわ)上杉氏である。その本拠地が武蔵国深谷である。ここに深谷城があり、それ以前の古城庁鼻和城も深谷にあり、今は国済寺という古刹がそこに建つ。深谷は中世と幕末の歴史が混在する特異な町である。
具体的には、
川口市に、「伊奈氏の居城赤山城跡(赤山陣屋)」を訪ねる
上尾市に、「伊奈氏の屋敷跡」を訪ね
鴻巣市に、「伊奈氏の菩提寺勝源寺」を訪ねる
深谷市に、「渋沢栄一関係の古所を訪ね、併せて上杉氏の深谷城址を検証する」ことである。
東北道を南下し、関東の終点「川口ジャンクション」から東京外環道に変更する。東へ進み川口東インターで下りる。午前5時に自宅を出て途中、数か所で休憩して午前9時過ぎに高速を下りた。地図で見る限りはこのジャンクションの南あたりに赤山と言う地名があって、ここに目的地の赤山城、もしくは赤山陣屋がある筈なのだが、川口東インターで下り高速道高架の下道を安行西で一般道に出たものの、目的の赤山城の案内標識が見つけられない。ナビを頼りに周辺を行ったり来たりをして時間をロスした。やっと赤山城への入口を見つけた。時間は午前10時前になっていた。車がやっと通れるほどの狭い道だ。
山王社があることになっている。正しくは「赤山日枝神社」とあり、一段高い台地の上に神社が立っていた。ここから城域になるので、車を指定の駐車場に停めて探索に移る。入城者は自分の他に数人程度、散策に来ているようだ。歴史家らしい人は見当たらない。西へ歩き始めると直ぐに行く手の左に空堀が見えてきた。そう長くはない。周りは竹林があたりを覆い、その中に整備された堀がある。水は張られていない。山王社から西へ延びる道を真っ直ぐに行くと、城域の中心部にあたる所に城址碑が立っている。そこは本丸の真ん中にあり、その後背は本丸の平場が残るが野菜畑や植木畑になっている。ここは平城だから歩くのに楽である。こういう城を守るにはとにかく城域がまず広くないといけない。
縄張り図を見るに本丸の西に二の丸があり、北には出丸があるも今は東京外環道が通り郭が破壊されている。出丸と二の丸の北の外側には沼地があるようだ。湿地帯に築城したことが一目瞭然である。城址碑への途中にも空堀がつつじの植込みに飾られてある。当時は水が張られていたであろう。でも今は綺麗に整備され過ぎているかも知れない。原形をいじくっているようだ。本丸と二の丸の境に深くて大きな堀があった。幅も4間から5間、深さも2間くらいはあったみたいだ。これも綺麗に整備され原形はとどめていない。城に来る人も三々五々と云った感じである。1時間ほど城内を探索した。川口なので荒川が目の前にあり向う岸はもう東京である。赤羽が東京の玄関口だが、思えば遠い所に来たもんである。
(1)赤山城もしくは赤山陣屋 埼玉県川口市赤山
現地案内板より➡【伊奈氏を知る】
① 伊奈氏の系譜
伊奈家初代伊奈忠次は天文19年(1550)三河国小嶋城主伊奈忠基の末子として生まれた。天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して代官頭に任命された忠次は、慶長4年(1599)には備前守の称号を与えられ、荒川や利根川の改修をはじめとする治水・灌漑事業や新田開発、検地の実施などに大いに手腕を発揮した。
(写真右=本丸跡に立つ赤山城址碑 )
忠次の死後、幕府内での伊奈氏の地位を不動にしたのは、3代忠治である。当初8百石の勘定方として出発した忠治は、寛永19年(1642)には関東郡代に任ぜられ、忠次からの事業を引き続き推し進めていった。江戸幕府初期の支配体制・財政基盤確立に果たした忠次・忠治の功績は非常に大きい。
(年表) (幕府組織)
忠次①1591 小室に陣屋を設ける
1594 千住大橋の架橋 将 軍
忠政②1604 備前堀の開削 │
1618 赤山源長寺を菩提寺とする 老 中
忠治③1621 利根川改修と新川開削 │
1624 荒川の川瀬の改修 勘定奉行
1625 権現堂川下流に江戸川を開削 │
1629 赤山陣屋を設ける 関東郡代
1638 勘定奉行となる
1642 関東郡代となる 幕府の主要職務の2⁄3は老中支配
忠克④1660 幸手用水の開削 であり、残り1⁄3が若年寄が統治
忠常⑤1666 両国橋の修築 した。
1672 千住大橋の架け替え
忠篤⑥1692 飛騨郡代を兼務する
② 天領支配と伊奈氏
初期江戸幕府にとって天領(幕府直轄領)からの年貢収入を増加させ、財政基盤を確立することは特に重要な課題だった。そこで天領の農政をあずかる優れた行政官が必要となり、初代忠次からの実績を持つ伊奈氏が関東郡代として登用された。
(写真左=城内 堀跡)
関東郡代とは関東の天領の農政を担当する地方官で、寛永19年(1642)に3代忠治が任ぜられたのが最初である。以後、伊奈氏は改易まで関東郡代を世襲し、関東の代官の筆頭として天領支配に携わった。幕府の総収入の75%が天領からの年貢であった。以下、鉱山収入、直轄林、長崎貿易と続く。
③ 民政家としての伊奈氏
伊奈氏の業績は天領の農政担当官としての治水事業だけにとどまらない。災害時の救済活動や、江戸の都市計画などにみせた手腕も特筆すべきだろう。その活躍は時に江戸町奉行の職域にまで及んでいた。富士山噴火のあった宝永4年(1707)7代忠順は復旧工事と被災者救済に尽力した。又、元禄12年(1699)からの江戸永代橋架橋工事を行ったのも、7代忠順であった。また関東郡代伊奈氏の最後の当主となった12代忠尊も、天明の大飢饉に端を発する天明7年(1787)の江戸打ち壊しの際には、諸国から米を買い集めて江戸市中に大放出するという方法で、見事に難局を乗り切っている。全国的な凶作の最中での米買い集めは難しいとみられていたが、伊奈氏を助けようと日々諸国から米が運び込まれたといい、「伊奈忠尊は世上の沙汰よろしく、町人ども雌伏いたす」、という伊奈氏の人気のほどがうかがい知ることができる。伊奈氏の江戸屋敷は当初江戸城常盤橋門内にあったが、明暦3年(1657)の大火で類焼し、馬喰町に移った。屋敷内に郡代役所があり、伊奈氏改易まで馬喰町郡代屋敷として機能した。
④ 伊奈氏の治水と利水
近世の土木史上に伊奈流の名を残す伊奈氏の事跡は、その支配地であった関東のあちこちに残されている。
(写真右=伊奈氏屋敷跡に立つ看板)
伊奈流の技術が十分に発揮されたのは、特に新田開発とそのための河川改修工事においてである。利根川の東遷、荒川の西遷など関東地方の現在の河川体系の基礎は、数代にわたる伊奈氏の大規模な河川整備によって築かれた。これによって関東地方東部低地帯は水害から解放され、広大な穀倉地帯に変貌していった。また江戸とこの一帯とを結ぶ舟運も活発化し、新田開発による石高の増加とともに江戸の繁栄を促すこととなった。
現地案内板より➡赤山日枝神社由緒
寛永年間(1624~44)に関東郡代の3代伊奈忠治が構えた赤山陣屋は、寛政4年(1792)12代伊奈忠尊が失脚するまで、関八州の貢祖の徴収並びに司法、利根川・荒川の改修、新田開発など土木治水を行う中心的な役所であった。
(写真左=伊奈屋敷内の堀跡)
この陣屋は延べ面積23万4千坪にもおよぶ広大なもので、この中に当社をはじめ天神社・八幡社・御陣山稲荷社などが祀られていた。当社は陣屋の東側空堀外の山王町廓の地内にある山王池に面した築山に鎮座する。この築山は陣屋空堀削時の廃土で築いたと伝える。創建は伊奈氏によるものと考えられ、恐らく江戸城鎮護の日枝神社から分社し、陣屋の守護として祀られたものであろう。
現地案内板より➡伊奈氏と赤山陣屋
赤山陣屋は赤山の地に新たに7千石を与えられ代官(関東郡代)の職についた伊奈半十郎忠治が元和4年頃に在地支配と開発事業の拠点とするために築いたと言われている。以来10代忠尊が改易された寛政4年(1792)までこの地に存続した。この陣屋は本丸と二の丸の部分だけで約110000㎡、周囲に広がる家臣持分の土地や菩提寺である源長寺、山王神社などの付帯施設も含めると実に770000㎡にも及ぶ広大なものである。伊奈氏は用水の開削や新田開発など、治水・利水事業に数多くの業績を残したことで、歴史上に特にその名が知られている。このことから水辺の文化を育んできた川口のあゆみをひもとき、赤山陣屋址は先人の偉業を偲ぶことのできる、最も重要な遺跡の一つであると言える。
そしてこの遺跡の中には水害と戦った伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝説や民話が沢山伝えられている他、創建当初からの道も生活道路として現在も利用されており、赤山道という名も今に遺されていえる。勿論、陣屋のたたずまいを示す空堀や土塁も残る。陣屋全体が自然の低湿地によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、四ッ門と呼ばれていたが、本丸と二の丸は人工の空堀により囲まれている。これら陣屋の構造から伊奈氏の卓越した土木技術をうかがい知ることができる。
現地案内板より➡赤山陣屋址
赤山陣屋は代官(通称、関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地や知行地を治めるために設けた陣屋の一つで、元和4年(1618)頃、伊奈忠治によって構築されたという。陣屋は約77haの広さがあった。陣屋の本丸には表御門、裏御門、御屋形など5棟の建物があり、北側と西側は二重の堀で囲まれていた。外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていた。又東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷があった。この屋敷は堀の内に17、その他に御役屋、門番屋敷などがあった。屋敷規模で一番多かったのは約1ha前後のものである。道は一直線にのびるものでなく、意図的にずらした食い違い、鉤の手や丁字路、袋小路など防衛上の工夫がみられ、副廓を有する陣屋町を形成していた。社寺には山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺があった。尚、伊奈家は寛政4年(1792)、忠治から数えて10代目の忠尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動などが原因で改易され、赤山陣屋も廃止された。このため陣屋の建物は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっている。
(2)伊奈氏屋敷
川口東から東京外環道の高架下を浦和インターへ向かい東北道に上り岩槻インターで下りた。上尾市伊奈町に入る。以前は伊奈町が単独町であったが、上尾市に合併されたようだ。東北新幹線と上越新幹線が分岐する丸山駅周辺の界隈に伊奈町があり、車を走らせていると閑静な住宅街に入る。偶然にも願成寺の標識を見つけると先ずこの寺を見ることにした。ここに「伊奈忠勝の墓があるからである。本堂は新築されたばかりのようで朱色の柱が目映く感じる。本堂の傍らに伊奈忠勝の墓、宝篋印塔がある。早速墓に詣でる。この寺から少し西へ入った所に伊奈氏の初期の居住地小室がある。ここも地図を見る限り相当広い屋敷で勿論平城であるが、史跡と住宅街が同在している。城内の一角を見るために竹藪の中に入る。堀の底道を歩くと相当広い。意外だったのは障子堀があることだ。障子堀は北条氏の専売特許で山中城の障子堀が見事であった。何故、ここ伊奈氏の屋敷に障子堀あるのか分からない。
現地案内板より➡
伊奈氏は信州伊那郡の出身で、忠次の祖父忠基の代に松平広忠(家康の父)に仕え、三河国小島(現、西尾市)の城主となった。忠次は善政を布き、特に豊臣秀吉の小田原攻めには主君徳川家康の命で兵糧の輸送、荒廃した伊豆国の農村復旧などにあたり功績を挙げた。
天正18年(1590)徳川家康が関東へ入国した時、忠次はこれまでの功績によって、三河国小島の旧領と武蔵国小室・鴻巣領1万を与えられた。代官頭となった忠次は中世以来城郭として使われてきたこの地、小室丸ノ内に陣屋を構えて、関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、新田開発、中山道その他の宿駅の整備、備前堤、川島大囲堤の築堤などに大いに活躍した。さらに江戸幕府成立後は、関東及び東海道筋の支配にも参画するようになった。忠次及び長男忠政の死後は、次男忠次が元和4年(1618)に築いた赤山陣屋に関東支配の拠点が移り、この地は忠政の次男忠隆系の旗本伊奈氏の屋敷となった。屋敷跡の規模は東西約350m、南北750mで、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良好な状態で保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが現存する。裏門跡と呼ばれる場所からは、発掘調査の結果、障子堀が検出された。
(3)願成寺 伊奈忠勝墓 伊奈町大字小室1821
現地案内板より➡伊奈忠勝墓
忠勝は伊奈忠次の孫にあたり慶長16年(1611)に生まれ、熊蔵の名を世襲した。幼少のときから徳川家光に近侍して相手役を務めていたが、元和4年(1618)父忠政の病没によって遺領を相続し、伊奈家の当主となった。
(写真右=願成寺)
しかし翌5年8月16日病のため若干9歳にして急逝、法名を廓然院殿見桐生蓮信男と号し、願成寺に葬られた。
(写真左=伊奈忠勝墓)
なお、忠勝の没後、当家は断絶となったが、名門伊奈家の断絶を惜しんだ幕府によって、新たに旧領のうち小室郷一円の地、石高1186余が忠政の末子忠隆(5歳)に与えられ、小 室領伊奈家が復興した。関東郡代の要職は赤山に伊奈家の別家を創設した忠治が継ぎ、以後赤山伊奈家においてその職は世襲的に受け継がれた。
(4)勝源寺 伊奈忠次・忠治墓 鴻巣市本町8-2-31
国道17号線を西へ、上尾から桶川、鴻巣と走る。上武間の片側2車線の幹線道路なので結構車の数が多く混んでいる。
(写真右=勝源寺)
勝源寺はJR上越線鴻巣駅の近くにあり、広大な敷地の境内が印象的である。本堂の建物が大きくて京都の寺院を思わせる。正式には天照山良忠院勝源寺と言う浄土宗寺院である。本堂の大棟に三つ葉葵の徳川家の紋が3枚付いている。徳川将軍家との関わりを表わしている。
徳川家は浄土宗を信仰した。徳川家康が1593年鴻巣に鷹狩に来た際、家康は2世住職円誉に会って以来、様々寄進している。そして巨大な仁王門があるが屋根瓦の修理中であった。(写真左=伊奈忠次・忠治墓)
本堂の左手奥に墓地があり、ここに伊奈氏の墓地があった。伊奈忠次と伊奈忠治の墓と夫々の室の墓が石の柵に囲まれ同在している。大きな宝篋印塔である。予想外だったのは墓地から離れた本堂の傍らに、歴史上の人物の墓があったことである。一人は仙石秀久、真田信重(信之の子)、小松姫(真田信之の室)の墓である。これは意外であった。
勝源寺縁起➡
浄土宗 関東十八檀林の一にして京都知恩院の末。天照山良忠院と号す。当初真言宗寺院であったが、天正年間に浄土宗寺院として中興した。慶長9年に徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領、松平秀康から結城から越前へ移封する際に、結城で使用していた御殿を拝領している。また多くの大名家の菩提寺となっていた他、関東十八檀林として多くの末寺を擁していた。
現地案内板より➡伊奈忠次・伊奈忠治の墓
伊奈忠次は三河国幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で1万石を賜った。関東各地を検地し、桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むと言われた。茨城県結城地方特産の紬織もその奨励によるものである。彼の功績は江戸幕府財政の基礎を固めたことで、その検地徴税の方法、すなわち地方の方式は伊奈流と云って江戸幕府地方の基本となった。慶長4年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた。慶長15年(1610)61歳で没した。法号は勝林院殿秀誉源長久運大禅定門。
伊奈忠治は忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を継ぎ、武蔵国赤山に陣屋を構えて7千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開鑿等に努めた。そ存在任は35年の長きにおよび、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応2(1653)6月、62歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
勝源寺には他にも歴史的に名の知れた人らの墓があり、説明がなされている。
仙石秀久の墓➱高い宝篋印塔
秀久は信州小諸の城主。初め羽柴秀吉の家臣で淡路国須本城主であったが、天正18年小田原征伐の武功により小諸を賜わった。のちに徳川家康に仕え慶長19年(1614)出府しての帰途発病同年5月6日当地で没した。勝源寺にて殯し同年11月8日小諸の歓喜院に葬る遺命により勝源寺に分骨建墓
真田信重の墓・信重の室の墓➱宝篋印塔
信重は真田信之の三男。慶安元年(1648)2月23日鴻巣で病没した。母小松姫の縁で勝源寺に葬る。信重の室は鳥居左京亮の第6女。慶安2年(1649)12月9日に没した。
真田小松姫の墓➱小松姫は本多忠勝の女で家康の養女となり真田信之に嫁し、元和6年(1620)2月24日没した。生前当山中興2世の貫主円誉不残上人に深く帰依した。そのような縁で元和7年一周忌に際し、信之の二女松姫が当山に分骨造塔した。本廟は上田市の芳泉寺にある。
(5)渋沢栄一生誕地
鴻巣から国道17号線をさらに西進すると、行田、熊谷と抜けいよいよ目的地深谷である。今まで経て来た道は昔の街道でいえば中仙道である。古代から中世の日本列島を山間部を突っ切る幹線道である。海沿いの東海道よりも人々は山越えの中仙道を利用した。確実に行けるからだ。海道は大河が河口を広くするので渡河することが困難である。その点、山道の中仙道は峠越えで骨が折れたが確実に通ることができた。今でも東京と京都を結ぶ日本の大動脈にかわりはない。とにかく大宮から本庄までは似たような町の景色が続く。飽きた頃に漸く深谷の町に着く。市街地から北へ入る道があり、そこを走ると信号の地名標識に「血洗島」の文字を見つけた。何やら血生臭い嫌な地名である。本来は「地洗島」といい「近くを流れる利根川の氾濫で常に大地が洗われる」という意味らしい。渋沢栄一生家の案内板や旗が立っている。今、大河ドラマで世を騒がせている主人公の生誕地である。早速行ってみる。
渋沢栄一生家、中の家と言うのだそうだ。観光客が結構集まっている。皆コロナ対策でマスクを着用している。大きな素封家と云えるだろう。そもそも渋沢家は血洗島に「東の家・中の家・西の家・前の家・新屋敷などと分れて多くあった。一族の棟梁筋は「東の家」である。
(写真左=渋沢栄一の生家 中の家)
栄一は「中の家」の出である。"なかんち"と呼ばれている。栄一の父市郎右衛門は「東の家の当主、宗助の弟で、「中の家の女まさに婿入りして、二人の間にできたのが栄一である。血洗島(ちあらいじま)の隣村、下手計村(しもてばかむら)にあったのが尾高家である。長男が尾高惇忠、次男が尾高長七郎、惇忠の妹が千代で、後に栄一の妻になる。だがコロナで病死したという。栄一は後妻兼子を娶る。残念ながら建物の中には人を入れてない。外から縁側越しに畳敷きの居間や客間を見る恰好である。コロナがなければ家の中に入れたであろうに。客間に栄一のアンドロイドが置かれている。少し動き身振りもあり、大変良くできた栄一とそっくりのアンドロイドである。でも私は何か妙に気持ち悪く余り好きになれない。
屋敷内を一通り見て回るが、蔵が3つあった。裏手には川が流れていた。渋沢家の本業は染料の藍玉の製造販売である。四国の徳島にも藍の産地があった。手が藍で青く色付き大変な作業である。代々、藍玉作りを家業にして江戸方面に商いをしていた。大体、深谷あたりには田圃がない。一面の畑で覆われている。利根川の氾濫で肥沃な地であったろう。
栄一の生家は屋敷は広く母屋も大きいが、このあたりにはこの程度の大きな家が沢山あるようだ。生家に来て見て栄一の人物像を自分なりに描いてみるも、古くから栄一は「日本資本主義の父」と言われていて、"資本主義の権化"のように間違って理解していたかもしれない。でも農本主義から資本主義をも包含する大きな人物であったことは確かのようである。確かに"幕末の志士"とは違うし、薩摩の五代友厚のような実業一辺やりの人物とは違う、お金ばかりでなく教育や福祉などにも力を入れる総合型人材とでも言えようか。
特に栄一の生き方を知るにつけ、武蔵野の農民が尊皇攘夷を標榜し、脱農して武士になるなどということは余りない。西国雄藩の下級武士達が尊皇を叫び攘夷を強望するのが普通の姿であるから、まさか豪農の息子が水戸藩の尊皇攘夷にかぶれ、挙句の果てに一橋家の家人におさまり、維新の渦中に巻き込まれて近代日本の道を探る存在になろうとは想像もできない。幕府方かと云うとそうでもない。岡部藩の圧政に苦しむ深谷の豪農渋沢家の嫡男栄一は藩政とその上の幕政を憎んで余りある。討幕思想にさえ傾いたのかもしれない。
ここで特筆すべきは同じ武蔵の豪農でも、江戸市中から八王子へ抜ける甲州街道沿いには近藤勇、土方歳三、井上源三郎などのつわものが多くいた。とりわけこの3人は新選組を結成し、幕末の脆弱な幕府を裏で支える。本物の武士とでも言おうか。四谷から甲府へ到る道は甲州街道であり、徳川将軍の有事の際の逃亡道として、特に八王子あたりまでは将軍を守るべく同心を配置したり、百姓でも刀槍を持って潜在する体制ができていた。
(写真右=渋沢家墓所)
これに対して中仙道沿い、利根川沿いの村々は将軍家や藩に対する思いは別にあったと思いたい。即ち甲州街道沿いの農民は幕府への忠誠度が高いのに、中仙道沿いの農民らは反幕府的な動きをするのである。これは何故であろうか。栄一らはひとえに藍玉生産者として大地にへばりついている訳ではなく、それを江戸にて売り捌くという商人の如き生き方を求められた。それが農本即ち幕藩体制から商本即ち近代日本への転換を創造させる力になったのであろう。「栄一の原点は血洗島の大地にこそあったのだ」と思い知らされた。
次は近郷の尾高惇忠の生家を見ることにした。車で東へ数分位の距離である。だが村名が違うようだ。渋沢家は血洗島村にあり、尾高家は下手計村にある。生家は渋沢家と比べると小さい。普通の家と言った方がよいかもしれない。ここにも藍玉の生産に携わった名残りが見える。
(写真左=尾高惇忠生家)
違うと言えば、尾高惇忠はかなりの秀才であったようだ。栄一より10歳年長で従兄弟の関係である。惇忠は近郷近在の子供を集めて寺子屋か、私塾のようなことをしていて子供の教育に熱心であった。栄一もここで農作業の傍ら勉学にいそしんだ。惇忠は向学心に燃え、水戸学にも関心を持ち、やがて学問から尊皇攘夷という実学へめり込む。豪農の子弟が尊皇攘夷という普通なら有り得ない行動を起す。これに栄一や従兄弟の喜作が賛同し行動を共にしてゆくようになる。
惇忠は武蔵野の勤皇の志士とでも言おうか。だが維新を経て挫折すると新政府に仕え、政府の産業政策、富岡製糸工場の初代場長になる。思想人から実業人に転じた訳だ。西国雄藩の薩長土肥の人間が世の中を変え、東国関八州の人間が経済の仕組みを構築し近代日本の基盤をつくりあげたと言える。つまり西郷や大久保、桂らが維新回天の業をなし、渋沢らが資本主義国日本の創業に携わったのである。言い換えれば、西で新政治を興し、東で新経済仕組みを構築したとも言えようか。
現地案内板より➡渋沢栄一生家
門前には幸田露伴の筆になる青淵翁誕生の地の石碑が立つ。栄一誕生時の生家は焼失し、現在の建物は明治26年(1893)の建築だが、門・塀・母屋・土蔵などの構えは、豪農の家の面影を残している。栄一の父市郎右衛門は岡部藩主から名字帯刀を許され、農業と養蚕の他に藍玉の製造販売を業とし学問にも通じていた。栄一は幼い時はこの父に、長じては従兄の尾高惇忠に学問を学び、尊皇攘夷運動にも加わり、のちに一橋慶喜の家臣になった。
やがて徳川昭武が兄の将軍慶喜の名代としてパリの万国博覧会に派遣されたとき、栄一も随行し、近代ヨーロッパの政治経済状況を調査研究した。帰国後は日本経済の近代化に全力を注ぎ、第一国立銀行の創立をはじめとして、銀行・製紙・紡績・鉄道など各種企業の創立・経営にかかわった。埼玉県内では日本瓦斯や秩父セメントの設立、上武鉄道の再建など力を尽した。
史料より➡渋沢栄一の生涯
栄一は天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島に父渋沢市郎右衛門元助、母エイの長男として生まれた。姉なか、妹ていがある。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手掛ける豪農だった。一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も若年から単身で藍葉の仕入に出掛ける。この経験が後に合理主義思想に繋がったとも。
・徳川慶喜の家臣・幕臣として
7歳のときに従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や日本外史を学ぶ。19歳の時、惇忠の妹千代と結婚。文久元年(1861)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の千葉道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士らと交友を結ぶ。文久3年(1863)に尊皇攘夷思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼打ちにして長州と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、惇忠の弟尾高長七郎の懸命な説得で中止する。
その後、一橋家家臣平岡円四郎の推挙にて一橋慶喜に仕える。慶喜が将軍となった、慶応2年(1866)幕臣となり、徳川昭武がパリで行われる万国博覧会に将軍、兄慶喜の名代として渡仏する。この時栄一は徳川昭武に随行したのである。この時通訳として同行したのがシーボルトの長男でアレクサンダーという。
・大蔵省出仕~実業家時代
帰国後静岡に謹慎していた慶喜と会う。静岡藩より出仕することを命ぜられた。その後、フランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために明治2年(1869)1月に静岡で商法会所を設立した。10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
だが予算編成をめぐり大久保利通や大隈重信と対立し明治6年に井上馨とともに退官した。退官後間もなく官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。他に七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。第一国立銀行のほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫、など多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われる。
渋沢が三井高福、岩崎弥太郎、安田善次郎、住友友純、古河市兵衛、大倉喜八郎などの財閥創始者と大きく異なる点は、渋沢財閥を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯にわたり貫く。後継者にもこれを固く戒めた。
現地案内板より➡尾高惇忠の生家
尾高は水戸学を学び尊皇攘夷思想に共鳴し、渋沢栄一ら若い同志らと高崎城乗取りや横浜洋館焼打ちを企てたこともあった。生家の2階でその謀議を計ったという。惇忠は明治になると経済活動に専念し、富岡製糸工場の工場長、第一国立銀行の盛岡・仙台支店の支配人などを勤めた。
史料より➡尾高惇忠の生涯
尾高惇忠は武蔵国榛沢郡下手計村に名主の尾高保孝の子として生まれた。惇忠は幼少時より学問に秀でて、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一である。惇忠の母やへが栄一の父渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。またのちに惇忠の妹千代は栄一の最初のと妻となり、惇忠と千代の弟平九郎は栄一夫妻の養子となった。
幕末に尊皇攘夷思想の機運が高まる中、文久3年(1863)に栄一らと共に、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜外人居留地を焼き討ちにした後、長州と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、弟の尾高長七郎の説得により中止した。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には、初め彰義隊に参加するが脱退し、渋沢成一郎らと共に振武隊を結成して高麗郡飯能の能仁寺に陣営を築き、同年5月23日に官軍と交戦するが敗退する。この戦いで平九郎は自決し惇忠と成一郎はさらに箱館まで転戦した。明治維新後、大蔵省官僚となった栄一の縁で、官営富岡製糸場の経営に尽力した。長女のゆうは志願して最初の女工となった。明治10年には第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人などを務めたとある。
深谷に来た目的はもう一つある。それは上杉氏の成り立ちを知る為である。上杉氏はもともと丹波綾部で発祥し、宗家山内上杉氏をはじめ、扇ヶ谷上杉氏・犬懸上杉氏・宅間上杉氏・越後上杉氏、そしてここ深谷でできた庁鼻和上杉氏の6家がある。米沢の上杉氏は山内と越後の二つの流れを汲んでいる。庁鼻和上杉氏は深谷上杉氏と途中で変えている。このへんの事情を調べて見たいのである。血洗島から深谷市内に移る。深谷城址公園にまず行ってみる。
城跡は市民の公園として綺麗に整備されている。一角に深谷城の塀と石垣が整備されているが当時のものとは思えない。敷地の半分には市民会館が建ち、市民の憩いの場になっている。この城跡は遺構としては余り価値がなさそうだ。
(写真左=深谷城址)
深谷上杉氏の居城として史上に残る。深谷城址から本題の目標地、庁鼻和城(こばなわ)に行く。今は国済寺という古刹になっている。古城跡に寺院を建てたということである。国済寺黒門を抜けると、次には三門があるが、これが普通の形ではなく書院造りの部屋と思しき建物である。これを抜けると本堂になる。
臨済宗南禅寺派の禅寺である。大棟には上杉氏の家紋が取りついている。境内そのものが庁鼻和城である。
(写真右=国済寺)
奥に土塁もあるようだ。城郭寺院ではなさそうである。京都に行くとかつての本能寺がそうであったように、城としての機能を持たせて、郭内に寺院を建てるもので、一旦有事の際は城として敵の攻撃を防ぐものであるが、国済寺には見られない。上杉氏一族の墓域もある。まさに聖地なのである。他に鐘楼もある。
(6)深谷城址
現地案内板より➡深谷城址
深谷城は木瓜城(ぼけ)といい、先の庁鼻和城主上杉憲英の曽孫(4代目)房憲が、古河公方との対抗上この地に移って、康正2年(1456)に築いた平城である。以後、深谷上杉氏5代の居城になったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めの際、町を兵火から守るために開城し、江戸初期、酒井忠勝を最後に廃城になった。深谷上杉氏は仏教への信仰が厚く、深谷市の周辺にいくつもの寺院を創建している。
史料によれば深谷城は康正2年(1456)深谷上杉家の上杉房顕が築いた平城。深谷上杉家は扇谷上杉家とともに武蔵国で勢力を張っていたが、天文15年(1546)の河越夜戦で扇谷上杉家の上杉朝定が北条氏康に敗れて滅亡すると7代憲盛も氏康に降服。以後、深谷上杉家は後北条氏の傘下に入ったが、天正18年(1590)、8代氏憲のときに豊臣秀吉の小田原征伐で開城。深谷上杉家の所領は没収され、氏憲は子の憲俊とともに信州に隠居。後に憲俊は池田輝政に仕えて岡山藩士となり、憲盛の子孫は深谷氏を名乗り、旗本として江戸幕府に仕えている。開城後の深谷城には、徳川家康の譜代の家臣・松平康直が入城し深谷藩が立てられた。その後、徳川家康の7男松千代、6男忠輝、松平忠重、酒井忠勝が入封したが、寛永4年(1627)忠勝が武蔵国川越へ移封となる。
【参考】 河越夜戦とは天文15年4月20日、河越夜戦で北条氏康が勝利した。桶狭間の戦い、厳島の戦いと並び、日本3大奇襲として知られる。天文14年(1545)8月、駿河の今川義元と対峙していた北条氏康に、生涯最大の危機が起きた。関東管領上杉憲政が今川に呼応して武蔵国河越城を氏康から奪還すべく関八州に動員をかけた。止む無く氏康は今川義元と和睦し、兵を退き揚げる。その間に上杉憲政は9月末、元河越城主の扇谷上杉朝定とともに6万5千の兵を率いて河越城に向かい、さらに古河公方足利晴氏の2万もこれに合流、8万5千の軍兵が城を完璧に包囲した。この時、河越城を守っていたのは黄八幡の旗で知られる猛将の北条綱成だが、手勢は3千であった。包囲戦は半年間も続き膠着状態になっていた。氏康は腹をくくる。氏康は一計を案じる。わざと古河公方に上杉憲政へのとりなしを頼み、また憲政にも降服をほのめかす弱気な姿勢を見せて、敵の冷笑をかう。
さらに敵の本営に一里のところまで進出するものの、少し攻められれば反撃せずに逃げることを繰り返し「氏康など恐れるに足らず」と敵の将兵をすっかり油断させることに成功した。これこそが氏康の狙いであった。
(写真右=国済寺本堂)
天文15年4月20日、その夜は月が雲に覆われていたという。氏康は8000の軍を4隊に分け、1隊を敵襲への備えとし、3隊で深夜に突如、上杉憲政本陣を襲撃した。まさかの氏康の攻撃に憲政らは大混乱に陥り、乱戦の中で上杉朝定が討死。一方、氏康の攻勢に合わせて北条綱成が城を打って出て、足利晴氏軍を壊滅させる。かくして河越城を囲んだ敵は、一夜にして1万3000もの死者を出して壊乱、北条方の戦死者は100人という、10倍もの敵を相手に氏康は日本戦史上にも稀な快勝を遂げた。これにより扇谷上杉氏は滅亡、関東管領山内上杉氏も著しく衰退し、憲政はやがて越後へ長尾景虎を頼り落ちることになる。河越城はその後、幕末まで川越藩藩主の城となる。
(7)国済寺
現地案内板より➡庁鼻和城址と国済寺
関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏を抑えるため、この地庁鼻和(こばなわ)に六男の上杉蔵人憲英(のりひで)を遣わし館を築かせた。憲英は後、奥州管領に任ぜられ、以後憲光・憲長と3代、この地に居住した。館は一辺170米の正方形で、外郭を含めると28haある。康応2年(1390)高僧峻翁令山禅師を招いて館内に国済寺を開いた。本堂裏に当時の築山と土塁が残っている。天正18年(1590)に徳川家康から寺領30石の朱印状を下付されている。文化財に令山禅師と法灯国師の頂相、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されている。
深谷上杉顕彰会又、史料によれば庁鼻和城は関東管領上杉憲顕の6男憲英によって築かれた。築城年代は不明だが国済寺の創建が康応2年(1389)とあるため、それ以前と推察される。憲英の系統は庁鼻和上杉氏を名乗り、上杉家の有力分家の一つとなった。
(写真左=庁鼻和上杉氏祖 上杉憲英の墓)
憲英の曾孫房憲は康生2年(1456)に深谷城を築いて移ったとされる。これにより庁鼻和上杉氏は深谷上杉氏と呼ばれるようになった。ただし応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際し、憲英の次男憲国が禅秀に与し、庁鼻和城から深谷城に移り鎌倉公方方に抵抗したと伝わる。天正18年の小田原の役を以て廃城となっている。
午後5時頃に国済寺を離れて帰途につく。ナビは群馬県の北関東道伊勢崎ICに車を導いた。インターに上がったの午後6時であった。午後9時少し前に米沢に戻った。正味3時間のドライブだったが、朝は4時間かかっている。走行距離凡そ700キロだった。次回、武蔵野探訪の第2弾は東京西部に「江戸上水の水源を訪ねる」こととする。
(2021年6月25日11:45配信)