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米沢児童文化協会(髙橋捷夫会長)は、令和3年6月30日、「『米沢子ども新聞』六十一年の歴史を終えて」と題した「米沢子ども新聞」縮刷版第三集を発行した。
「米沢子ども新聞」の歴史は、米沢児童文化協会が昭和33年1月に「米沢こども新聞」第1号を発行して、市内の全小・中学校の児童・生徒に配布されたのが始まりで、昭和42年6月第82号より「よねざわ小学生新聞」と「米沢中学生新聞」の二本立てとなり、平成24年1月第310号より「米沢小中学生新聞」に統合されて発行されてきたが、令和元年5月、第340号を最後に61年間の幕を閉じた。
縮刷版は、これまで昭和53年と平成15年の2回発行されたが、今回が3回目となる。髙橋捷夫会長は、縮刷版発行の目的として、「『米沢子ども新聞』の記録としてのみならず、米沢の学校、子ども、それを育む自然や、歴史、文化、人物、地域の記録としても是非残すべきものとして発行させていただきました」と述べている。
米沢児童文化協会の創立者・会長として、また「米沢子ども新聞」発行責任者として長らく活躍してきた故高森務氏が米沢中学生新聞第290号(平成20年1月10日発行)の新年のご挨拶の中で、新聞発行の経緯を述べているが、それによれば、昭和33年1月、高森務氏らの働き掛けで、松が岬公園忠魂碑の場所に遊園地が完成し、その場所にできた児童センターでこの新聞は発行されたという。その目的は、「小中学生に遊びの外何か文化的行事、又は事業を考えられないかということで、運営委員会で相談の結果全員一致で子ども新聞を発行することに決まったのです。その時の児童生徒数は二万を越えていたようです。四頁もの小中同じで無料で配布されました。」と書いている。
高森氏は100歳になったのを機に米沢児童文化協会会長を退任し、平成20年10月からは小林和夫氏、同23年8月からは志摩健一氏、同25年8月から田畑實氏、同27年8月から髙橋捷夫氏へとバトンが渡された。平成24年1月号からは、米沢小中学生新聞になった契機に、フルカラーの紙面となった。
米沢子ども新聞が61年の長きにわたって発行され続けてきたのは、初代協会長の高森務氏の掲げた理念や理想に多くの賛同者が集まり、その志を継承していこうという人たちが多くいたからだろう。当時、高森務氏の周りには、吉野正八氏(元米沢市議会議員、元(株)エービーエム社長)、上村良作氏(元米沢女子短大学長)、桑島茂氏(元米沢日報社社長)などがいた。
改めて、その縮刷版の紙面を見ると、その内容の深さに驚きを禁じえない。このような新聞が長期間にわたり発行されてきたというのは、全国的にも珍しいのではないか。米沢の文化度の高さを示す一例である。この新聞に記事として掲載された子どもたちがいずれ親になった時、自分の子どもに自分の足跡をきちんと示すことができる証拠となるもので、米沢を背負う子供達の将来が楽しみである。
今後、平成24年からの紙面改革の理由や先輩諸氏の想いなども含め、「60年のあゆみ」(まとめ第四集)を後日発行する予定だという。
発行 米沢児童文化協会(髙橋捷夫会長)米沢市中央7丁目5−43
非売品
問い合わせ TEL0238ー23ー4335
(2021年8月9日10:20配信)