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竹田 歴史講座

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書評 置賜民俗学会会誌『置賜の民俗 第28号』


okitamaminzoku28 置賜民俗学会(梅津幸保会長)が発行する会誌『置賜の民俗』。令和3年12月24日に発行された第28号は、「伊勢参詣の民俗」をテーマに特集を組んだ。令和2年、同会の研究集会は「伊勢参りの民俗」をテーマに開催予定だったが新型コロナにより翌年順延となり、令和3年も実施できず会誌での発表に至ったことを述べている。
 江戸時代、米沢から江戸までの参勤交代は険しい山道を通ったり、川を渡ったりと1週間を要したが、お伊勢参りとなれば、江戸からさらに東海道を歩いていかなければならない。途中、病気や事故に合わないとも限らないまさに命がけの旅だったろう。
 置賜地方でも経済的に恵まれた家ではお伊勢参りをして、その道中日記が今も残されている。一方、困窮の極みにあった米沢藩は、藩内のお金がよそに流れることを嫌い、現在の川西町上小松にある小松皇大神社に三度お参りをすれば、伊勢に1回お参りに行ったのと同じご利益があると領民に勧めた歴史がある。お伊勢参りにあたっては、伊勢に本拠地を置く「御師」(おんし)が全国の大名や檀家と言われる地域の有力者をお得意先に持ち、そこを回って伊勢神宮のお札を配ったり、祈祷をしたり、お伊勢参りをする人のために、伊勢の旅館の手配などをして、今でいう旅行会社のような仕事もしたが、それは御師が廃止される明治初めまで何百年も続いた。
 お伊勢参りの道中記は比較的に各地に残されており、研究しやすい領域とも言える。当時の人たちの伊勢信仰と貨幣経済などを知る意味からも、また民俗学の入り口ともなる研究資料だと思う。

 本誌では、初めに同会理事の原淳一郎氏が基調論文「近世の伊勢参宮」を載せている。原氏は近世、交通制度の整備と貨幣経済の発展により、「旅の大衆化」の時代となり、その代表格が伊勢参宮だと述べ、その背景に17世紀に庶民の生活レベルが上昇し、数年貯蓄すれば最低3両前後が必要となる旅費が賄うことができるようになったからだと理由を述べる。
 伊勢恩師は、宿の提供などお伊勢参りを支えていく存在となるが、その中心は外宮の神官たちで、天照大神を祀る内宮(皇大神宮)の下に置かれていた豊受大神を祀る外宮(豊受宮)が、中世後期から徐々に参詣層が拡大して知られていくようになり、それは伊勢神道(度会神道)の影響があったと述べる。
 お伊勢参りに行くことは、人生の一大イベントであるから餞別を記録した餞別帳や、帰宅後に餞別を受けた人に対しての返礼品を記録した「土産帳」、伊勢参宮の道中で購入した名所案内、名所絵図などが残された。その中でも旅自体を説明してくれるものが「道中日記」である。その日記には、旅程、宿泊地、旅籠代、昼食代などの金銭支出が記録されているから、旅全体を説明するものとして貴重な資料と言える。
 原氏は、東北からお伊勢参りのルートは、往路が東海道、復路が中仙道を利用したと述べているが、米沢塩野の参詣者、相田善次の「伊勢参宮道中記」を紹介し、相田は明治4年(1871)11月25日に出発して、帰ったのは翌年2月12日、77日にも及ぶ長旅だった。他に伊達郡(福島県)から出発した大内伝兵衛の旅日記も触れている。
 ほかには、守谷英一氏が白鷹町十王の小松家の「弘化三年道中日記」、井田秀和氏が深沼村(現高畠町深沼)の武田作右衛門(40歳)の筆による一行10人の道中記ほかを紹介した。武田作右衛門一行は、成田山にも参詣しており、他の道中記とは異なる点が珍しい。須崎寛二氏は、南陽の伊勢参宮道中資料、川西町の渡邊敏和氏は川西町の「伊勢参りの民俗」を紹介した。
 石井紀子氏は、令和3年7月に白鷹町にオープンした白鷹町歴史民俗資料館の設立の経緯や、民具の保存や展示などを紹介している。清野春樹氏は、米沢市簗沢の地名をめぐり、その歴史やゆかりについて解説を加えた。今回の会誌は、2年間研究集会が開催されなかった分、とても内容が濃く重厚である。
(書評 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

冊子名 『置賜の民俗』第28号
発 行 置賜民俗学会
事務局 〒993-0041 山形県長井市九野本2078 嶋貫方
    TEL 0238-84-7172
発行日 令和3年12月24日
価 格 1,100円(税込)

(2022年1月21日17:00配信)