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本書は、万延元年(1860)、越後蒲原郡金巻村(現在の新潟市西区大野町)に生まれ、明治に入り新潟の青年民権家となった山添武治とその家族の歴史を取り上げた。山添武治は、明治前期の自由民権運動を担った青年で、明治43年創刊の「新潟毎日新聞」の創刊者である。
民権家のみならず、その家族まで取り上げた研究は極めて珍しい。なぜ家族史まで包含するのかといえば、「人間は他者との繋がりなしに存在できない生き物だから」と著者は述べる。家族の存在を抜きに個人は語れないという理由からである。更に家族を取り上げることで、民権家ゆかりの人々の軌跡やその周囲にいた無名の人々の考えなどを明らかにすることになる。その上で、著者は山添武治の行動と思想を明らかにしながら、山添家の歴史を通して、近現代史を通観し未来を展望したいと研究の意図を述べる。
著者は昭和30年生まれ、駒澤大学大学院人文科学研究科博士課程で日本史学専攻、元高校教員である。これまでも『新潟の青年自由民権運動』(梓出版社、2005年)、「青年民権運動と激化」(高島千代・田﨑公司編著『自由民権〈激化〉の時代』日本経済評論社、2014年)、「福島青年民権運動と石川」(『石川史談』第28号、2018年10月)など、自由民権運動に関する著作がある。校訂者の伊東祐之氏は、元新潟市歴史博物館館長、高島千代氏は、関西学院大学法学部教授。
山添武治が創刊した『新潟毎日新聞』は、戦前に『新潟新聞』と合併し、現在は『新潟日報』となっている。いま新潟県でも山添武治のことを知っている人は少ないという。しかし、新潟県における明治政治史やジャーナリズムを研究する際には避けて通れない人物だ。
山添武治は、20歳の時に、自由民権運動に参加したが、その原因は新潟における自由民権運動の指導者、山際七司の存在と明治14年前後から、全校各地で自由民権運動の動きが活発になったこと。その中心が明治14年に結成された青年自由党で、山添武治もそれに入党し、多くの民権家と交流した。
当時は、明治維新からまだ14年という時間が過ぎたばかりで、憲法も制定されておらず、薩長による藩閥政治が幅を利かせていた時代。青年たちはいかに国民中心の国家を建設できるかが、民権運動の課題となった。明治14年10月、自由党総理の板垣退助が新潟で遊説を行った際、新潟で行われた懇親会に山添武治も出席する。そして、板垣退助の随行員として東北遊説に加わったことが、その後、上京し活動を始めるきっかけとなる。
翌年2月、山添武治は新潟の同志へ「なぜ奮わず、なぜ起たないか」という檄文を送った。その中で、「あの西国の樵(きこり)や南海の漁師が国内に力を奮い、国民を取り締まり、人権を蹂躙していても、北越の者は誰もあやしむことがない。ああ、これは果たして誰の罪なのか。… ああ、我が北越の志士よ、この内憂外患の大難を察せよ、…」と書いている。
まるで、この檄文は戊辰戦争で薩長土肥を中心とする西南諸藩の官軍と戦った奥羽越列藩同盟軍の精神と同じではないか。奥羽越列藩同盟軍の政治的、精神的支柱となったのは、米沢藩の雲井龍雄が書いた「倒薩の檄」であったが、それを彷彿させる檄文で薩長を非難する。奥羽越列藩同盟軍やその一員だった長岡藩は戊辰戦争に負けたとはいえ、新潟に山添武治のような男がいたことを知ってなぜか嬉しくなった。
著者は、山添家の家系や山添武治の生い立ちなどを明らかにする。山添武治は明治20年代に庄内に遊学した。そこで庄内藩酒井家家臣であった元庄内藩士黒崎与八郎とその三女柱(後に結婚)と出会った。黒崎与八郎との繋がりから西郷南洲の書を入手、そして庄内藩士が西郷隆盛の言葉を書き留めた「南洲遺訓」に心酔する。
本書は新潟の民権家山添武治を通して、明治の日本の民主化運動の歴史を学ぶとともに、新潟毎日新聞の経営に精魂を傾けた男の人生を、精緻で見事な筆跡で紹介している。大正3年6月11日、山添武治は脳溢血で53歳の生涯を閉じた。まさに「巨星落つ」だった。
私もマスコミの一員として、また山添武治が関わりの深い庄内の鶴岡市出身であることから、山添武治のことをもっと知りたくなった。(米沢日報デジタル 成澤礼夫記)
著 者 横山真一
校訂者 伊東祐之・高島千代
出版社 日本経済評論社
定 価 4,300円+税
発行日 2022年9月5日
(2023年1月25日17:30配信)